いつもありがとうございます。
「十四誹謗」についていろいろ考えていました。
ところで、この「十四誹謗」なる言葉が出てくるのは日蓮述作では私の知る限り『松野殿御返事』(十四誹謗抄)と『念仏無間地獄抄』の二つです。しかも両方とも録外であって真蹟は存在していません。
そしてもっと重要なことですけど、この十四誹謗説って別に日蓮のオリジナルじゃないんですよ。
この「十四誹謗」は天台宗第6祖の妙楽大師湛然の『法華文句記』にある表現です。
もちろんそれだからといって、それが日蓮の発想ではないなんて結論づけるのは安直かなと思います。
ただ日蓮の思想形成に湛然の影響が大きいことはここから考えても疑い得ない気はするんですね。
そもそも「一念三千」という概念を最初に「無上の極説」として宣揚したのは湛然です。彼の『止観輔行伝弘決』は天台智顗の『摩訶止観』に対する現存最古の注釈書ですが、この中で明確になった概念でもあります。
湛然という存在は、唐代における中国の天台教学復興運動の一つとして現れた人物です。その中でどのように天台智顗を解釈するか、その一定の形を示したという意味で湛然は評価されるべき人なのかもしれませんね。
ただこの「一念三千」概念について天台智顗は『摩訶止観』中で一念と三千の関係性について一度述べただけです。ですからこれを智顗の湛然の言うような「極説」とすることは現代ではやや躊躇されるんですね。
そしてまた「十四誹謗」概念も、本来的には湛然に由来する天台教学における概念であるということです。日蓮の『松野殿御返事』では法華経の不軽菩薩の事例を引用して「互いに誹り合わないように」とされています。そして「十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし」とされています。
とりわけ私のようにもともと創価学会の活動家だった人間など、頭に余計な観念が洗脳の末に張り付いてしまっています(本当です・笑)。余計な固定概念を捨てて客観的に見ていくことが特に私には大事なのでしょう。むろん完全な客観性などというものは存在しませんけど、そのような自分を可能な限り客観視する姿勢こそ私の自分の過去への総括でもあるんですね。
この『松野殿御返事』の最後はとても印象的です。日蓮がここでは死後の世界のことを語っているんです。さながら浄土思想のようです。
まあ『松野殿御返事』は真蹟が存在しませんから、安易に日蓮述作とも言えません。ただここでの浄土思想のような発想も再考の余地がありそうです。
創価学会や日蓮正宗は「阿弥陀仏」という名前を聞くだけで拒否反応を起こしたりしますが(他宗を無節操に批判・排撃してきた弊害でしょう)、実は法華経に阿弥陀仏はちゃんと出てきます。薬王菩薩本事品第23には法華経を修行した功徳として阿弥陀仏の浄土に向かうという表現が出てきます。
なんでこんなことを書いているかっていうと、日蓮の思想の中に「娑婆即浄土」とか「娑婆即寂光」というものがあると思うからなんです。
つまり浄土というものも本当は衆生の中にあって菩薩によって浄められた娑婆世界こそが実は寂光なのだと。
上記の『松野殿御返事』(十四誹謗抄)の末尾の結論には死後の浄土世界の表現について(正直これはいかがなものかと思うんですけどね・笑)、少なくとも日蓮思想の中になんらかの娑婆即浄土思想があって、その淵源を辿りたいというのが今の私の課題です。