気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

心穏やかな孤立、そして念仏。






いつもみなさん、ありがとうございます。


最近の自分の生活について、書くとします。




創価学会を初めとする、大石寺系教義に染まっていた私は、自分の原点が何なのか、ず〜っとブログ執筆を通じて探してきました。
現在は、創価学会からも大石寺からも、またその系統の日蓮系教団からも離れました。


私の主眼は日蓮そのものの批判にありました。


教判というのは、自分の教えにおいて何が最上かという判釈をすることですが、これは別に日蓮の教判を待つまでもなく、仏教者なら誰でもやることです。いくら「法華経が最上だ」と叫んでみたところで、それは日蓮の教判に過ぎず、もっと言ってしまえば、日蓮が天台智顗・妙楽湛然由来の天台宗の教判に依拠しているだけのことです。


そんな天台由来の教説に、なぜ私が従わなければならないか、私には全くわかりません。


なので私にとっては日蓮も批判対象でした。
そもそも貞観政要を根拠に国家の正しい在り方などを説こうとするのは、単なる帝王学で、そもそも政治に関わろうとする姿勢は仏教ではありません。法華経安楽行品によれば、仏教者が為政者と関わることは禁じられています。


私が関心を抱いたのは、一切の実在性を否定した龍樹(ナーガールジュナ)の思想でした。
このブログでも少しだけ以前に書いていましたが、『中論』の複数の訳書と翻訳を対照し、中論の内容を解読する作業を少しずつしていました。


その後、興味を抱いたのは龍樹の『十住毘婆沙論』です。
ご存知のように、一切の実在性に批判の目を向けた龍樹が、ここでは広く救済を求める人たちのために念仏を説きます。
私はこの龍樹の姿勢に強く惹かれました。


私が阿弥陀仏に関心を抱くのは、それが実在の仏と信じるからではありません。
そうではなく、あえて信じるという龍樹の方法論としての念仏に一定の価値を見出しているからです。


鈴木大拙によれば、浄土と娑婆は不離で相即の関係にあるものです。娑婆を離れて浄土はなく、浄土は娑婆を離れたところにあるものではありません。
私は阿弥陀仏の名号を唱えることにより、自身の認識の限界を知り、無効化していきたいと願っています。


私は借り物の信仰をただ無反省に行うだけの人たちとは一線を画したいと考えています。
私のブログを読み、より深く考えることは自由ですが、「じゃあ真実は何なのさ」と安直に聞きたがる人たちは、私にとってはどうでもよい人たちです。
私の答えは「それは自分で考えるのさ」ということです。
どこかに真実があって、誰かが解き明かしてくれるというのは幻想です。
日蓮が正しいなんて幻想ですし、言ってしまえば釈迦自身が正しいなんて幻想です。


自身で検証し、自身を島とすべきです。それが大般涅槃経における釈迦の最後の教えです。
私は頭の悪い人間ですが、頭が悪いなりにそうありたいと願っているだけです。


だから私は孤立するべきだと考えています。
独りでよいのです。
それが正しいことですし、孤立して自ら求める人格が個々に現れることの方が、信仰の世界にあっては正常なことだと思います。


私は龍樹や法然のように心に阿弥陀仏の名号を唱えて、心穏やかに暮らしています。
阿弥陀仏が実在の仏などと私は思いません。
そうだと勝手に思う人たちは、私のことを安易に非難して離れればよいだけです。
龍樹の十住毘婆沙論における念仏の思想を学びつつ、今は親鸞などを学んでいます。



最近はブログの記事を少しずつ再開して挙げ始めています。自分が考える真実に近づくために、自分が考えていきたいだけです。
同時に、私に何か答えを求めるのではなく、自身で考える方のための、一つのきっかけになればと思い、恥を忍んで再開を少しずつ始めています。




最後に参考までに最近、私が読んでいる文献を数冊あげてみます。なんとなく私の今の立ち位置がわかるかもしれません。




鈴木大拙『浄土系思想論』岩波文庫、2016年
細川巌『龍樹の仏教 十住毘婆沙論』ちくま学芸文庫、2011年
中村元早島鏡正・狩野一義訳註『浄土三部経』(上下)岩波文庫、1963〜1964年
中村元『往生要集』岩波書店、1983年
小谷信千代『真宗の往生論・親鸞は「現世往生」を説いたか』法蔵館、2015年