気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

宇宙生命論って何ですか。





そもそも宇宙生命論というものが仏教として説かれているのが、私には疑問なんですね。

ナーガールジュナの『中論』を読めばわかるのですが、仏教の思想とは基本、実在の否定でして、常住とか実在とか言ってしまうと、それはナーガールジュナとは異なってしまう。


勤行をすることが、宇宙生命との交流であるという考え方が学会にはあります。で、これは池田名誉会長の指導にもあるんですが、私は間違っていると思います。少なくとも創価学会が今後維持していくべき教義ではないでしょう。
一切の意味、一切の法が実在なのではなくそれが空性を持っており、その本質は縁起であるとしたのが、ナーガールジュナなんです。ここから天台の一心三観も一念三千もあるわけです。


天台の止観とはそれらの修行の行法であり、認識を「止」して「観」じていく。その観念観法の修行こそが止観であると。


ところが、宇宙に実在する生命というものを持ってくると、これは梵我一如、アートマンの思想になってしまいます。つまり密教的な考え方です。
そもそも戸田城聖氏が生命論の根拠とした「三十四の否」は法華経ではなく、無量義経からの引用です。
無量義経法華経成立後、約500年後に訳されたと言われる経典であり、偽経として扱われることも多いです。つまり法華経の正当性を主張するために創作されたという説です。まあ法華経そのものが釈迦滅後に成立した経典であって、すでにその時点で五時八教の教判は通用しないのですが。



大乗経典の成立年代の問題は措くとして、三十四の否定によって描かれた対象について、それが実在の宇宙の法であり、生命であるとするなら、それは法身仏の思想であって、毘盧遮那仏、つまり宇宙全体の生命としての大日如来の思想と変わるところがないんですね。



なぜ仏を法報応の三身、一身即三身と説くのかと言えば、それが実在ではなく、縁起としての存在、つまり一切の存在は空だからです。それを観じて知ることがまさに止観であって、それこそがナーガールジュナによって説かれた大乗仏教思想の基本だと考えています。



ただ、それでは結局、天台の思想は止観になってしまい、禅になってしまうのではないかという疑問もあるかと思います。
日蓮は、天台の止観を理の上での一念三千と捉えました。つまり一切の意味の実在は一念三千でしかなく、それを明らかに見ていくことが根本であると。
しかしながら、それは一切の意味を剥ぎ取られて、無意味と堕してしまうことではないはずですね。私たちは日常の世界から抜け出すことはできず、ニルヴァーナには決して到達することができないからです。私たちは常に人間として存在し、世界の中に生きている世界内存在ですから、常に世界とともにあり、有意味性の中で意味を求めて生きていく存在とも言えます。


日蓮の「事の一念三千」とは、その止観を徹底したその後で、新たに言葉の意味創造性を喚起し、新たな意味を創出する運動態であると私は考えています。言わばカオスモスの運動です。



生命を大宇宙に偏在する統一体として考えると、それはすなわち梵我一如の思想になってしまい、法の実在を根拠とする毘盧遮那仏の思想と変わらなくなります。
私たちは真理を真理のまま認識することができず、記号によって想起された意味を記号の差異によって生み出し、それを消費して認識していると錯覚しているわけです。つまりカントの考える「もの自体」には永遠に届かないわけです。
ですからフッサール現象学では認識される対象には決して届かないことが前提されています。フッサールは対象には決して認識が届かないけれど、私たちの現象学的実践で念々に起こる心象については追うことができると考えました。


しかし認識そのものが記号の差異の網目でしかないとするなら、認識は結局誤謬であって、真の認識にはならないわけです。
真実を表現した方便を「秘妙方便」と呼びますが、「方便」でありながら「真実」というのはなぜなのかと言えば、「真実」はいかにそれを名指しして名付けても、それは記号的な認識の実践に過ぎないのであって、私たちがそれを認識した瞬間、その本質とはズレていってしまう。つまりジャック・デリダの言う差延のようなものですね。



大宇宙に偏在する法と合致するために私は唱題をしているわけではありません。
一切の意味を止観し、その上で題目に依拠する。題目さえも秘妙方便ですから、繰り返し唱える時にエクリチュールはゼロ度になってしまいます。
しかしその中で、新たな記号性の創出を意識することはできるはずです。つまり惰性的な記号の使用による宿業から脱して、新たな自分として生き始める、そのような修行法として日蓮は題目を考えていたのだと思っています。そのような文脈で読まなければ、弘安2年の総勘文抄はその意味を捉えることができないはずです。



法身仏の思想ではなく、あくまで一心三観、一念三千を基本として、自身に戻っていく、そのような修行として私は日々題目を唱えています。
日蓮は唱法華題目抄で「愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」としました。最初は題目を唱えることで修行をしていくけれど、唱題をしつつ、止観を知り、自身の認識について見つめ直さないといけない。あらゆる意味性を剥ぎ取られた無為の存在に気付き、そして法華経の真の心に戻る。勤行はそのような運動態として、記号的な実践として考えられるべきです。決しておまじないのようなものではありません。