創価学会の教学を散々
いろいろ言ってる割には
私、日蓮正宗の教義には
ほとんど共感しないんです
日蓮正宗の教義って
もう時代に合わないって思ってます
もちろん今の創価学会の
わけわからん教学に比べたら
多少はましかもしれませんけど。
一番の問題は
弘安2年10月12日建立の御本尊です
日蓮宗各派が全く真蹟とは認めない
対外的には全く認められていない御本尊です
これを日蓮正宗だけは
未だに日蓮真蹟だと言い続けています
創価学会もまだこの御本尊を
公式には否定していません
でもこれ信用できますか?
何点もの疑念があります
たくさんあり過ぎて
どうにもならないくらいです
何点かに渡って、
この御本尊への疑念を書いていきます。
この弘安2年の戒壇本尊については
すでにコンピュータによる画像解析もされ
後世の創作説が固まっている感がありますが、
文献的に後世の創作であると
私が考える点をいくつか挙げます。
①日興の身延梨山で言及がない
あの大きさの本尊を運ぶというのは結構大変なことです。しかしこの言及がない。
少し時系列が戻りますが、「宗祖御遷下記録」にも御本尊の記録は存在しない。まだ五老僧たちと対立が顕在化していない中で、御遷下記録にその遺品として記録されていないというのはおかしいと思います。
挙句の果ては日興の「三時弘経次第」にさえその言及がない。「三時弘経次第」は未来、末法の弘教の原理を日興自身が記した重要な書であり、堀日亨の富士宗学要集にも収められています。ここでは「本門の寺、付属の弟子、上行菩薩、日蓮聖人」と書かれ、本門寺と思われる言及が見られるのに、そこに掛けるべき御本尊には言及されていないんですね。
②「三師御伝土代」にも記述はない
百歩譲って日興への戒壇本尊が唯受一人の相承だったとしても、大石寺のその後の法主が開宗の三師に触れ、その著作において日蓮の伝記を残す際に「弘安2年」に触れていないというのは決定的だと考えます。したがって大石寺5世日道の在世中は戒壇本尊は存在しなかったということになります。
なおここの冒頭の日蓮の生涯を記述した部分にも言及はないし、続く「日興上人御伝草案」の項にさえも弘安2年の御本尊の言及はありません。付言すればここでは日蓮聖人の本地は上行菩薩であるとしており、日蓮の項とは分けて「本門の教主」「本仏」の項が書かれている。すなわち日道は日蓮が本門の教主とも本仏とも考えていなかったことがここからわかります。このことからも弘安2年の戒壇本尊も、日蓮本仏説も後世の創作の教義であることは明らかです。
③「御本尊七箇相承」との矛盾
大石寺が日蓮より白蓮阿闍梨日興へ伝わった日蓮の口伝だとする文献があります。いわゆる「御本尊七箇相承」ですが、この御書は相伝書として伝わっているもので、本因妙抄や百六箇抄と並んで最重要の相伝書と考えられています。ここでは御本尊の相貌を示しており、この通りに御本尊を書くことという指示が遺されているわけです。
この「七箇相承」に以下のような記述があります。
「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。」
ここでのポイントは
「仏滅度後」
「二千二百三十余年」
です。
で、実際の弘安2年の戒壇本尊の記述はどうなっているかというと、
「仏滅後」
「二千二百二十余年」
になっています。
相伝書であるはずの「七箇相承」の書写の指示と、肝心の弘安2年の本尊が相違しているんですね。
まず弘安2年の戒壇本尊には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の文が存在しません。右肩と左肩部分に書かれることが多いこの二文は、弘安元年から弘安2年の間、一部の御本尊のみに見られる記述です。これは戒壇本尊にも書かれていません。
さらに「七箇相承」には「日蓮在御判」と書くべしとされていますが、第3祖日目の元弘3年10月13日書写の本尊では「日蓮在御判」ではなく「日蓮聖人」と書かれています。なおこの日目書写本尊は宮城県栗原市の妙教寺に現存しています。したがって「七箇相承」は日目の代には存在していなかったことが明らかであり、後世の偽作でしょう。
コンピュータによる画像解析では弘安3年の日禅授与本尊のパッチワーク説まで出ており(この説は河辺メモから考えると、阿部日顕氏の本来の自説であろうと考えられます。まあ到底公に認めることはできませんけど・笑)、大石寺の法主は戒壇本尊の通りに書写をしていないという事実。
上には書きませんでしたが、「日興跡条条事」は後世の人の手によって、文字の改竄の跡が見られること。しかもこの鑑定についても御本尊の鑑定についても大石寺は依然として拒否しているという事実。
まあそれらの事実がわかってきてしまったので、創価学会もこの御本尊からの決別を選択したわけです。
ところが、この弘安2年御本尊を教義上、捨てようと思うなら、日寛教学の全面的な見直しが必要になってくるわけです。
創価学会の現在の教学はほぼ全て日寛教学の受け売りであって、自前の教学を持っていないんですね。それを全部捨てたらあとに残るのは「池田先生」教でしかない。
何の仏法なんだか、さっぱりわからなくなってしまうんです。
ま、確かにね、創価学会としても
突然、教義を変えたら
古参の会員だけじゃなく
多くの会員からの怒りの声に
晒されると思います。
だからそんな急に変えるのはやめようと
少しずつやってこうと。
けれど御本尊の教義改定についてはやはり拙速だったと思いますし、教義的にもきちんとした説明がなされていたとは思えません。
実に姑息な感じがします。
つまり現在の創価学会は、日寛教学をバッサリ切り捨てた後で、新しい確かな教学を生み出せる人材が存在しないということを暴露してしまっているんですね。
これには学会員自身の責任もあるでしょう。
教学について、教義については上から出されるものをただ学べばよいという意識。
御書は「実践の教学」と称して、切り文で会員の激励にただ使えればよいという、極めて機能主義的な御書の使い方。
これらの教学で十分としてきたのは、会員の責任も大きいと思います。もちろん私自身もかつては創価学会の活動家だったわけで、自身の責任を回避するものではありません。私にも責任があります。
だからこそ、会員一人一人が教学に目覚めることが必要でしょう。
もはや弘安2年本尊説と、日蓮本仏説は、教義的に破綻しています。創価学会の中だけ、日蓮正宗の中だけでしか通用しない、宗教間対話を拒否するような神秘的な教義であり、学術的な検証を拒否することで成立している、過去の遺物でしかありません。
広宣流布とは何なのか。
真の日蓮の心とは何なのか、
それを会員一人一人が自身で
日蓮の遺文を読み、考え、
自身を乗り越える必要性に迫られています。
私は現在の創価学会が
崩壊することがきっかけになり、
その契機が顕在化すると考えています。