気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

過去を秘匿する姿勢。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価学会という教団は、過去の歴史を正しく伝えていないと私は考えています。
だからこそ、このブログでは客観的な記述や文献、根拠を可能な限り提示し、本当の創価学会の姿を描き出したいと考えています。これは創価学会のみならず、大石寺系教団である日蓮正宗も同様だと私は思います。
 
 
ところで、『創価学会秘史』の著者である、ジャーナリストの高橋篤史氏は、客観的な史料から創立から1950年代までの創価学会の歴史を丹念に描き出すことに成功しています。
この本の序文、プロローグの部分で、このような創価学会の秘匿体質について述べられたところがありますので、今回はそれを紹介してみます。
 
 
「まったく感心できないことだが、創価学会は過去の歴史を正しく伝えていない。それは対外的な宣伝だけでなく組織内の学会員各層に向けたものでも同じである。とりわけ1950年代までの歴史に関しては、むしろ隠したがっているようにすら見える。
たとえば、こうした事実を示せば、分かりやすいのではなかろうか。
創価学会の歴史を知る最も有力な手掛かりは、その当時の機関紙誌を調べることである。創価学会の主な機関紙誌類として古いものから順に『新教』(のちに『教育改造』と改題)、『価値創造』の戦前版、『大善生活実証録』、『価値創造』の戦後版、『大白蓮華』、そして現在誰もが知るところの『聖教新聞』の六つが挙げられる。
当然、創価学会及び外郭団体はそれら機関紙誌類の原本なり複製物などを持っているはずだ。現に『牧口常三郎全集』や『戸田城聖全集』といった過去の文献を集めた創価学会自身による公式刊行物では、古い機関紙誌に載っていた牧口なり戸田なりの論文が収められている。
しかし、当時の活動実態をありのまま伝えているであろう幹部や一般会員などによる記事を読もうとしても、創価学会はそれら機関紙誌そのものは公開していない。その大半は東京・信濃町にある聖教新聞社の資料室にひっそりと保管されているようだが、外部に対しては存在自体が知らされておらず、当然に門戸は開かれていない。
では、東京・八王子にある創価大学創価女子短期大学はどうか。信じがたいことに、1951年4月創刊の『聖教新聞』のうち、付属図書館が所蔵・公開しているものは、1980年1月以降の分だけである。丸々30年分が所蔵すらされていないのだ。
さらに首をひねりたくなるのは1949年7月創刊の『大白蓮華』である。創刊号からほとんどを所蔵しているものの、公開しているのは1971年1月以降の分だけなのだ。つまり創価大学の学生・教職員でもそれ以前のもの、丸々20年分は、原則見ることができないのである。」
(高橋篤史『創価学会秘史』10〜12ページ、講談社、2018年)

 
 
 
いかがでしょうか。
私はこのような過去の資料を秘匿するような創価学会のやり方は間違っていると思います。
過去のやり方に間違いがなかったのなら、堂々と公開すれば良いだけです。
過去のやり方に間違いがあったとするなら、そのことを真摯に認めて反省・謝罪し、総括して再出発すれば良いだけのことです。それを誤魔化すからこそ、創価学会日蓮正宗は批判されるのだと私は考えます。
 
 
 

 

選挙における勝利至上主義の池田大作氏。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて以前にも書いたことですが、創価学会における選挙至上主義という考え方は実は会長時代の池田大作氏によって強調されてきた考えなのです。
 
 
戸田城聖亡き後、池田大作氏は創価学会の総務に就任しますが、この時に彼が主にやっていたことこそ、全国を細かく歩いて行脚し、顔を売ることと選挙で結果を出すことだったのです。事実、戸田城聖亡き後、池田大作総務の指導の下、選挙では勝利が続きましたから、彼が会長に就任する大きな理由になったことは想像に難くありません。
池田大作氏は選挙戦で細かく組織内を歩き回り、一票一票、積み上げていく現在の創価学会の選挙の方法論の下地を作り上げた人物なのです。
 
 
池田大作氏は昭和41年の『立正安国論講義』でも、選挙の重要性について述べています。画像をあげてみますので、マークした部分とともによく読んでいただければと思います(池田大作立正安国論講義』1135ページ、創価学会、昭和41年)。

ここで池田氏は『立正安国論』における公場対決を、現代では「選挙」であると言い切っています。彼は選挙において「わが同志が勝利を収めることは、民衆がこの仏法の正しさを認めたことの証左にほかならない」と述べ、「われわれは選挙を公場対決の場として、勝利につぐ勝利をもって前進していこうではないか」と会員信者に訴えているのです。
 
 
ですから、創価学会内部において選挙至上主義、選挙における勝利最優先の活動の基本を築いた最初の人物こそ、実は池田大作氏本人だと言うことになるでしょう。
 
 
 
 
 

 

『百六箇抄』『御本尊七箇相承』で強調される日蓮と俊範の関係について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
今回は比叡山修学時代の日蓮が、横川の俊範に師事していたことについてです。今回はジッリオ・エマヌエーレ・ダヴィデの論文『俊範の教説と日蓮への影響について』(日本仏教総合研究13号、2015年)の内容から、自分の思うところも含めて書いてみたいと思います。
 
 
日蓮比叡山で修学時代、恵心流の流れに属していたようで、事実『守護国家論』でも恵心僧都源信は念仏者ですが、肯定的に評価されています。
 
 
日蓮は恵心流に属する横川の俊範に師事していた説があり、姉崎正治氏も著作『法華経の行者日蓮』において、俊範に師事していた説を採っています(姉崎正治法華経の行者日蓮』78ページ、講談社学術文庫、昭和58年【原著:昭和28年】)。

 
ところが、これを裏付ける文献の一つが、実は偽書説の疑いの強い『御本尊七箇相承』および『百六箇抄』なのです。
ただ『御本尊七箇相承』は房州日山の写本が知られますが、この日山なる人物がダヴィデ氏の論文の通りに池上本門寺4世の日山(1338〜1381)であると仮定するなら、この古写本は1300年代まで遡り、俊範を日蓮の師とする説が14世紀頃に既に成立していたことになります。
 
ところで日蓮の師匠と言えば道善房であり、日蓮真蹟遺文から判断するなら、道善房こそ日蓮の師匠筋にあたるというのが史実として正しいことになるでしょう。
俊範について、日蓮真蹟遺文で言及があるのは『浄土九品の事』(真蹟:西山本門寺蔵)ですが、確かにここで日蓮は俊範(俊鑁)法印を「大和の荘」「三塔の総学頭」と書いていますが、俊範が日蓮の直接の「師」であるとするような記述はここには見られないのです(創価学会旧版御書全集699ページ)。

 
また真蹟不存ですが『念仏者追放宣旨事』にも「法印俊範」に言及する記述が存在します。しかしここでも俊範を「大和の荘」「法印俊範」と述べながら、特に師匠であるとするような記述は存在しません(同89ページ)。

 
ここから考えれば、日蓮比叡山の修学時代、俊範に影響を受けながらも、その講義の一聴講生だった可能性が高く、日蓮は俊範の法話を聞いて学んだことは事実としても、特に俊範のみを恩師として師事した事実はないと考えた方が自然でしょう。
それなのに、殊更になぜ比叡山時代の俊範を日蓮の師匠として持ち上げる議論が、偽書説の可能性の高い『御本尊七箇相承』『百六箇抄』で見られるのでしょうか。
 
 
窪田哲正氏の『中古天台恵心流における円密勝劣論』によるなら、当時の比叡山は、密教を優位とする教学が既に確立されていまして、俊範の属する恵心流教学では、天台宗の教観二門を「法華宗」と「天台宗」(一念三千一心三観)とに分別し、観門を天台宗の究位としていました。
空海は『秘密曼荼羅十住心論』で、天台宗を第八住心とし、真言の下位に配したのですが、このことを最初に指摘した人物の一人が俊範であり、それは『等海口伝抄』等でも言及されています。
 
『等海口伝抄』には「無作三身」の語が存在します。周知のことですが、「無作三身」「無作」という語は日蓮真蹟には全く見られない表現であり、これらの語が多用される『御義口伝』『御講聞書』『十八円満抄』『授職潅頂口伝抄』『当体義抄』『三種教相』は、全て真蹟不存、偽書の可能性の高い遺文であることがわかっています。
 
 
とすると『百六箇抄』『御本尊七箇相承』における俊範の発言の紹介は、偽書として同書を権威化するために、あえて俊範の名を利用した可能性があるのではないかと私は考えています。
事実、『百六箇抄』では本迹不思議一なりとする根拠を俊範の発言としています(同861ページ)。

 
また『御本尊七箇相承』では明星の池に映る影が大曼荼羅と映ったことを日蓮が俊範に話したことを、俊範が讃嘆したとしているのです(『富士宗学要集』1-32〜33ページ)。

 
ここから考えて『百六箇抄』や『御本尊七箇相承』で俊範の権威が利用されるのは、両書がまさに偽書であるからであり、天台教学の強い富士門流の教義を権威化させる目的で、俊範と日蓮との関係性をあえて強調しているのだと思います。
 
 
 
参考文献
ジッリオ・エマヌエーレ・ダヴィデ『俊範の教説と日蓮への影響について』日本仏教総合研究13号所収、2015年。
 
 

 

大石寺から追い出された14世日主。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて今回は大石寺14世日主が後年、大石寺から追放され、栃木県下野市の小金井蓮行寺に蟄居していたことについて、書いてみようと思います。
 
 
 
大石寺18世(17世)日精の『家中抄』日主伝の項目に以下のような記述が残されています。

 
「富士に帰りて院師の付属を受け住持十五年、其ノ比身延の僧円来坊、板本尊を盗み取んと欲して主師を傾く、茲に因て隠居して金井に到る、(中略)国替以後金井蓮行寺に蟄居す」
(日精『富士門家中見聞』富士宗学要集5-259ページ)
 
 
簡単に通解すると以下のようになります。
 
 
「日主は富士に帰って13世日院より血脈の付属を受け、15年の間、大石寺に住持した。この頃に身延の円来坊という僧が板本尊を盗み取ろうと日主に接触して心を傾けようとした。このため日主は隠居して栃木県下野の小金井に行くことになる。」
 
 
身延の僧侶の円来坊なる人物が、戒壇本尊を盗み出そうとして、なんと大石寺法主の日主に揺さぶりをかけていたことが記録に残されているのです。「茲に因て隠居して金井に到る」ということは、このことが原因となって日主は大石寺を追われて隠居の身になったということです。
 
 
ではこの後、日主はどうなったのでしょうか。
何と日主は最後まで大石寺に帰らず、元和3年(1617年)8月17日に亡くなります。
亡くなる前に日主は、15世の日昌に付属をするのですが、この付属は大石寺ではなく、栃木県下野市の小金井蓮行寺に日昌がやってきて行われています。
この時の相承の証拠が『富士宗学要集』8巻に記録されています(8-46〜47ページ)。

 
日亨氏はここで「主師は小金井蓮行寺に行きて病みたる時、要山より招かれたる日昌上人は文禄五年に其約を果して大石寺の後董となるべき血脈相承を小金井にて受けられたる時の証文にして主師状は総本山に昌師状は蓮行寺に在り何れも正本なり」と述べていまして、59世日亨もまた14世日主が最後まで大石寺に帰らず、栃木県に隠遁していた事実を認めています。
 
 
とすれば、なぜ日主は大石寺に帰れなくなってしまったのか?という疑問が湧いてきます。
ということは、最初に引用した『家中抄』の記述通りに日主が身延に戒壇本尊を売ろうとしていた、その事実が発覚し、大石寺にいられなくなったという推論が成り立つと私は思います。
 
 
 

 

「勘文」について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は「勘文」についてです。
「勘文」とは何でしょう?
実は日蓮は『立正安国論』を「勘文」としているのです。
 
 
「勘文」をWikipediaで調べてみると、朝廷から諮問依頼を受けた神祇官陰陽師等の学者が書いた調査報告のことだということです。
元来「勘文」とは、陰陽道明経道の諸家の専門家が、ある文証によって天文現象や自然現象を故実来由を勘考し、未来相を予言して結論を上奏するものです。
ですから、国家の為政者に対して「勘文」を上奏するというのは、本来仏教の考え方というよりも、陰陽道儒家の発想です。
事実、日蓮は『立正安国論』自体を「勘文」として考えています。『安国論御勘由来』から引用してみましょう。

日蓮世間の体を見て粗一切経を勘うるに御祈請験無く還つて凶悪を増長するの由道理文証之を得了んぬ、終に止むこと無く勘文一通を造り作して其の名を立正安国論と号す」
日蓮『安国論御勘由来』創価学会旧版御書全集32ページ)
 
 
ここからもわかるように、日蓮が『立正安国論』を「勘文」とするのは、仏教の発想ではなく、むしろ陰陽道儒家の考え方です。そもそも干支の記載からもわかるように日蓮は太歳紀年法を用いて年号を表します。それは中国から伝わった紀年法であり、陰陽五行説と結びついており、儒教の思想が色濃いのです。
 
 
多くの方がおわかりのように『立正安国論』とは予言の書であり、三災七難の予言を含んで日蓮は『立正安国論』を「勘文」の一つとして捉えていたことは間違いないでしょう。そしてそれは仏教の思想ではなく、むしろ陰陽道儒教の思想によるものなのです。
『宿屋入道への御状』でもやはり『立正安国論』は「勘文」とされています。

また玉沢妙法華寺に現存する日興による『立正安国論』写本には、日興の筆できちんと「天台沙門日蓮勘之」と書かれていまして、きちんと「勘」すなわち「勘文」の意義が日興によって書き残されているのです。

 
私は以前、このような日蓮儒教的発想について記事を書いたことがあります。
 
「『立正安国論』の儒教的な発想」
 
日蓮の国家的な発想、奏状や勘文といった発想は、その予言的性格も相まって非常に儒教的また陰陽道的な発想を有しています。そもそも法華経安楽行品では仏教者は為政者と関わってはならないとされ、仏教には本来政治と関わる考え方はないのです。
近代に入り、日蓮主義者が国家主義的な考え方をとったり、戦後の創価学会が政治に関わったりする発想は多分に日蓮思想に基づくものかと思います。しかしながら政府を動かすような「勘文」という考え方は、本来儒教陰陽道の思想なのであって、仏教とは全く違う思想が日蓮思想にはルーツとして存在することになるでしょう。
 
 
 
参考文献
岩佐貫三『日蓮の用いた勘文(かんもん)の義について』印度仏教学研究39号所収、1971年。
 
 
 
 

 

自己弁護の人たち。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて創価学会日蓮正宗を脱落した幹部たちには、独自グループを立ち上げる人が少なくありません。
 
 
創価学会の退会組には、そう言う方が多いように思います。
波田地克利らのグループ、正木伸城、また宿坊の掲示板で騒いでいた人たち、全てとは言いませんが、どこか創価学会の教義解釈に酔っているようなところがありました。
日寛教学を換骨奪胎し、「八重相対」等、訳のわからない論を唱える波田地克利氏がまさにその好例です。
彼らのグループは「自活グループ」等に四分五裂し、原型を留めていません。
 
 
「生命の法」だの「八重の相対」だの「純粋な日蓮思想」だの「法華経は生命の経典」だの「癒しのセラピー」だの……なんだかんだ言い訳を作って自己弁護をしている人たちを見ていると恥ずかしくなります。
要するに「自分は間違えていました」と認めれば良いのに、それが彼らはできていないだけなのです。彼らは自分たちが「間違っていた」ことを認められず、日蓮教義にも池田大作にも批判的検証ができません。自身の中にドグマを抱え込んでしまい、そしてそのことを曝け出すことができなくなってしまっているんですね。
 
 
私には、かつての自分たちの信じていた教義前提を検証する真摯な姿勢が彼らの多くに欠如しているように思えてなりません。
「仏教の本質は生命」ではありません。
法華経は生命を説いた経典」なんて誤りです。
「南無妙法蓮華経」は単なる天台宗の修行の日蓮による剽窃でしかありません。
中国仏教における天台智顗の五時八教判は現代の文献学ではもはや無効です。
日蓮は国家諫暁によって、他宗派弾圧を容認し、祭政一致国家を理想とした儒家思想の持ち主です。
日蓮は他宗派を批判しながら、源信称名念仏の手法や真言の思想等を自身の教義に取り込んでいます。
池田大作の生命至上主義は、ウパニシャッド思想や真言思想の焼き直しにすぎません。
戸田城聖氏は法華経の正統性を無量義経に求めましたが、そもそも無量義経は中国撰述の偽経でしかありません。
いくら仏教以外の文献を読んだところで、仏教には何の関係もありません。
 
 
 
そう言った日蓮の本来の思想、純粋に文献を読めば自ずと導かれる結論から目を背けて、今までの自分たちのどこかに正しさがある筈だと自身の正統性を担保しようとしたり、無理矢理に切り貼り教義を主張したりします。
そんなものは単なる「誤り」なのです。
今すべきことは、そんなものを信じてきた自分たちが誤りであったと言う明確な事実を認めることなのであって、そのことを真摯に認めることができないが故に、醜い自己弁解の姿を露呈してしまうのです。そして彼らは教義的にいつか何も言えなくなってしまうでしょう。事実そういうブログが少なくないのではないでしょうか。
 
 
そのような姿勢は元鞘の大石寺系教団、創価学会日蓮正宗顕正会や正信会を見ればわかることです。過去に目を背け、史実を無視して認めることが出来ず、新しい言葉を教義に貼り付け、さも正統性が自分たちにあるように見せかけています。批判した自分たちが批判対象の教団と同じロジックになってしまうのは、見ていて滑稽ですらあります。
 
 
 
 

 

戒壇本尊下部の「束」(つか)。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて今回は戒壇本尊本体の下部に付いていることが推定される、奇妙な2本の「束」(つか)について、書いてみたいと思います。
 
 
日蓮正宗に伝わる「戒壇本尊」ついて、このブログでは何度も検証をし、それが後世の偽作でしかないことを繰り返し、述べているところです。
 
戒壇本尊が偽物である理由を列挙してみる」
 
 
余談ながら、Wikipediaの「本尊(日蓮正宗)」の「本門戒壇の大御本尊」の項目で、上記の私のブログ記事における「偽物の理由の列挙」がコピーペーストされ、編集されています。どなたかはわかりませんが、結果的にブログを紹介して頂ける形になり、個人的には感謝しております。
 
さて、戒壇本尊の形状についてですが、金原明彦氏の『日蓮と本尊伝承』(水声社、2007年)によりますと、昭和47年(1972年)10月の正本堂建立に合わせて、仏師の赤澤朝陽で戒壇本尊の寶筺(厨子の内側で板本尊を直接保護する箱)が新調されており、その時の制作風景が同書で紹介されています。今回はそれらを紹介してみましょう(同87〜88ページ)。

 
また同書では平成14年(2002年)の奉安堂建立時の寶筐の寸法図面も紹介されています(同89および93ページ)。

 
正本堂と奉安堂の二つの寶筐の画像を見て、みなさんは奇妙に思われなかったでしょうか?
 
それは戒壇本尊の下部にあたるであろう位置に存在する、二つの足「束」(つか)の存在です。
 
この束はきちんと寶筐の下部の空間として確保されています。すなわち戒壇本尊本体下部に台座に安置されることが前提となるような二つの足が当初から存在していたということになります。
 
このような二つの束があり、それを支える台座の存在が前提されるような戒壇本尊を、果たして弘安2年の時点で日蓮の草庵に安置しておくことが本当に可能だったのでしょうか?
私は大いに疑問符がつくと思います。
著者の金原氏も同書の中で、台座を含めて180センチメートルを越えた高さの本尊を、弘安2年時点で身延の草庵に安置できるかに関して、同様の疑問を呈しています。