気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『遺誡置文』を見て思うこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『日興遺誡置文』から少し考えてみたいと思います。


私はこの二十六箇条の置文が日興の著作だとは考えていません。基本的にこれらは北山本門寺等の日興門流に伝わってきた寺内文書であるという理解です。


「日興遺誡置文のこと」


まあ、でもこの遺誡を基本指針として興門流は布教活動をしてきたことは理解できます。
ちょっといくつか引用してみましょう。


「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事」


学問未練な創価学会幹部さん、大石寺法華講さん、少なくないと思いますけどね。


論議講説等を好み自余を交ゆ可からざること」


創価学会員さんの多くは、あまり論議講説等を好まないように思います。座談会の御書講義も嫌がる地区部長さんも多いようですし。


「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。」

「弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を致す可き事。」

私には布教活動に挺身する会員さんを上がそんなに大事にしているようには思えません。あと素朴な疑問なんですが、これらの遺誡は出家や在家入道へのものなのに、どうして大石寺は布教活動も信徒任せなんでしょうね。なんで大石寺は僧侶が率先して布教しないんでしょうか。


「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。」


私は学生時代に素晴らしい仲間たちや尊敬できる先生方と多く知り合うことができました。その方にいろんなことを教わるのが楽しかったですし、学びたいと思ったものです。
けれど今の創価学会員さんも法華講さんも、多くが知的な誠実さを失ってしまっている印象を抱きます。


「巧於難問答の行者に於ては先師の如く賞翫す可き事。」


議論をして答えに詰まると、すぐに話をすり替えて、はぐらかすことしかできないのが、大石寺新参講の法華講さんの特徴かと思います。
創価学会もさして議論や講説を得意とする人を大して大切に思っていないと思います。



私は別段、日興の『遺誡置文』が日興の真作であるとは考えていません。ただ日興門流で出家者や在家入道たちへの戒めとしてこの文書が用いられてきたということは理解できます。
しかしそれなら、もう一度、日興門流とはどのようなものなのか、真摯に向き合って、自分たちのやってきたこと、またやっていることを創価学会大石寺も総括すべきなのではないか。そんなことを私は思います。







敬台院と日精のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて先日から大石寺17世(18世)日精の相承について、少しずつブログで書き出しています。


「日精は大石寺の17世か、18世か」

大石寺を隠居した18世日精」


日精は大石寺9世日有とともに、本来は大石寺の中興の二世とされていた人物です。
ところが、昭和に入り、59世堀日亨が日寛を立てて中興二世を立てるにあたり、日精が外された経緯があります。


日精は本来、江戸時代初期に大石寺を復興させた賢上人とされていました。
その功績は敬台院日詔のバックアップがあったからかと考えられます。


敬台院(きょうだいいん)は小笠原秀政の娘にあたり、蜂須賀至鎮正室となります。彼女の養父は徳川家康であり、母方から見れば織田信長の孫にあたります。


よく知られていることですが、徳川家康は浄土宗で、織田信長法華宗でした。織田信長が度々、宿泊先に日蓮宗系の寺を選んだことからもよくわかることかと思います。信長が亡くなった京都本能寺は、法華宗本門流(八品派)の大本山です。


敬台院は養父の徳川とは異なり、織田信長由来の法華宗信徒でした。そのため大石寺日精に深く帰依し、大石寺御影堂の建立寄進、二天門の建立、大石寺基金七百両寄進、日精の公儀年賀における乗輿の許可等、様々に大石寺を支援していきます。
敬台院が莫大な拠出を大石寺に続けた背景にあったのは、大石寺の由緒をある程度知っていた彼女が自身の菩提寺として大石寺のブランド力の格上げに余念がなかったということかと思います。実際、敬台院は文書中で「富士の大石寺の事」「我身菩提所の事に候」(富要8-53)と述べています。


敬台院の文書から、当時の勘定奉行だった伊丹播磨守康勝のバックアップもあり、朱印がおりて、大石寺は敬台院の菩提寺となります。田舎の貧しい一寺に過ぎなかった大石寺は一気に徳川家有縁の寺として格が上がることになります。


ところが先述の記事「大石寺を隠居した18世日精」にも少し書きましたが、寛永15年(1638年)3月に日盈が亡くなると、この頃から敬台院と日精の関係が悪化し、日精は大石寺を追われることになります。
このことを大石寺48世日量は『続家中抄』で次のように書いています。


「当山精師と大檀那日詔尊尼と隙を生して精師富士を退去し江戸下谷常在寺に移住す、之に依て当山無主なり」
(日量『続家中抄』富士宗学要集5-269ページ)


「精師」は日精、「大檀那日詔尊尼」は敬台院のことです。そして「隙を生して」というのは「両者の関係が悪化したこと」を意味します。この結果「当山無主なり」として法主不在の期間が大石寺にあったことがよくわかるかと思います。


その後、敬台院は会津の日感の推薦で、大石寺法主として日舜を推挙しています。
その後、敬台院は日感を外護して寛永19年(1642年)に法華宗本門流と日興門流の合同の学問所として細草檀林を設立することになります。


これ以降、大石寺法華宗本門流(八品派)の教説が流入することになります。


「三大秘法口決は八品派から大石寺流入した」

「八品派と細草檀林」


大石寺は18世日精の代に敬台院の資金援助により、徳川家有縁の寺になりました。その後、敬台院により細草檀林が創設され、その影響で八品正意説の『上行所伝三大秘法口決』、また『御義口伝』(『御義口伝』最古の写本は八品派日経のものです)等々の教義が大石寺流入することになります。

大石寺26世日寛は細草檀林で習学していますから、彼はこれら八品派の思想を摂取し、それらを自教団の教義として完成させていくことになったことがよくわかるかと思います。




塚本素山のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は池田大作氏と塚本素山氏との関係について、少し書いてみたいと思います。


池田大作氏が創価学会会長の頃の昭和36年創価学会に顧問制度が創設され、その初代顧問に塚本素山氏が就任したことは、現在の創価学会ではほとんどタブーになっていまして、そのことを現在のほとんどの活動家さんは知りません。


戦前からの法華講員だった塚本素山(本名は塚本清)氏は実業家でして、塚本総業の創立者です。日本の戦後の鉄材の総元締めのような立場にありました。
彼は昭和36年、平沢益吉(法華講連合会会長)、戸田喬久(三菱銀行員)とともに創価学会の初代顧問に就任しています。



塚本素山氏は政財界とのパイプが強く、主な知り合いに辰巳栄一、児玉誉士夫渡辺恒雄などがいます。


例えば読売新聞の代表取締役渡辺恒雄氏は回顧録で次のように述べています。



池田大作さんとは、お互いに30歳代そこそこのときに会っているんだ。あれは1963年の東京都知事選挙に、自民党から東龍太郎が再出馬して、創価学会の60万票の行方が鍵を握っていたときだ。自民党としては、なんとかこの学会票60万票がほしいから、大野伴睦池田大作さんに会おうとしていた。そこで関係者を探すと、財界人で塚本総業の塚本素山が創価学会の実力者で、池田大作さんとしょっちゅう会える立場にあるという。それで彼が池田大作さんを大野伴睦に紹介してくれて、ホテル・ニュージャパンで二者会談が行われたんだ。(中略)
この後、池田大作さんが『創価学会の60万票を自民党に入れる』という一筆を書いてくれる。それを僕がもらいに行き、大野伴睦に届けるなんてことがあったんだ。大野伴睦はそれを見て飛び上がって喜んだよ。
(中略)

これで都知事選に自民党は大勝する。このころから僕は保革連立じゃないけれども、まず学会勢力を自民とくっつければ、相当な安定政権ができるなと思い始めてたんだな。」
渡辺恒雄伊藤隆御厨貴飯尾潤渡辺恒雄回顧録』279〜280ページ、中央公論新社、2000年)


塚本素山氏は政財界に顔がきく実業家でした。彼は千葉県の佐倉市の出身で、千葉県内で名の知れた人物でした。例えば千葉駅の「千葉そごう」は正確に言えば塚本ビルのテナントですし、佐倉市には塚本素山氏が作った日本刀美術館があります。


昭和44年8月に、藤原弘達氏の『創価学会を斬る』が出版されそうになった時に田中角栄小佐野賢治に8000万円を拠出して出版をやめさせる交渉をさせています。



この言論出版妨害事件(いわゆる言論問題)以降、塚本素山氏は創価学会の正史から消えます。そもそも創価学会に「顧問」制度があったことさえ記憶していない人がほとんどなのではないでしょうか。
過去に存在した史実から目を背け、都合の悪いことを語ろうとしない、大石寺系教団としての創価学会の姿勢が良くわかる好例かと思います。






9世日有から日乗、日底、日鎮への相承。

 

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
それにしても、大石寺9世日有の後の相承については、調べれば調べるほど不自然なことばかり出てきます。
 
 
 
大石寺9世日有から10世日乗に付嘱があったのが応仁元年(1467年)のことです。
そのわずか3年後の文明2年(1470年)に日乗は11世日底に付嘱をします。
 
 
ところが、後継であるはずの11世日底が文明4年4月7日(1472年5月14日)に先に亡くなります。
そして、その後を追うように先代10世日乗も、その7ヶ月後、文明4年11月20日(1472年12月20日)に亡くなります。
 
 
 
つまり要約すると以下のようになります。
 
 
大石寺在位期間
10世日乗:1467〜1470(1470年11月没)
11世日底:1470〜1472(1472年5月没)
 
 
ともに2年、3年というわずかの期間しか法主として登座することなく、数年後に亡くなっているんですね。
 
 
で、結果として9世の日有が再登座することになります。文明4年(1472年)、日有が70歳の頃です。
 
 
そして最終的に日有が相乗したのは12世の日鎮でして、文明14年(1482年)に彼はわずか13歳で法主になることになります。
文明14年、日有は80歳です。80歳の日有が後継と定めたのがなんと13歳の少年です。
 
 
つまり日有は日乗、日底、日鎮の3人に付嘱をしたことになります。
先代の日乗、日底が早くに亡くなってしまい、その後継として日有は皇室出身とされる13歳の少年を後継として託すしかなかったということになります。
 
 
その後、12世日鎮はなんと9歳の良王(日院)に後継を託すことになります。
このことは先日のブログに書きました。
 
 
大石寺13世・日院のこと」
 
 
 
日院はそもそも相承を受けた後、少なくとも3年は大石寺に来てないのであって、法主の空白期間が大石寺に存在したことになります。
加えて、13歳や9歳の若輩でも信心があれば引き継ぐことができるという法水血脈とは一体何なのか、多くの方が疑惑を抱くことは極めて自然なことかと思います。
 
 
 

 

『創価学会秘史』への宮田幸一氏の所感に対して読者の所感。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は読者からのメールをそのまま紹介したいと思います。


長文ですが、そのまま載せたいと思います。





「いつも楽しく拝見さえていただいております。

最近、『創価学会秘史』という本について、宮田幸一が所感を書いていることを知りました。

 

http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper21takahashi.html

 

私は牧口研究をしていたこともあって、宮田氏の見解をある程度支持しているのですが、結論から言うと、この所感はひどく雑なものに感じます。

高齢であることからボケてしまったのか、だれかが代筆でもしているんじゃないかとか疑いたくなるような展開です。

もともと宮田氏は文体にも問題があるように私は感じていました。

その一つが「~だが」というBUT構文が多いという点です。だから、全体としてけむに巻いているような印象を持つことがしばしばあります。

例えば次の文章です。

 

「高橋氏は『数字の神秘主義』として『七つの鐘』の理論に言及し、その弊害として創価教育学会の第一回総会が『昭和12年』でなければならないが、実態としてはその前年の4月の総会が第一回総会であるとしているが、私個人も『全集』第9巻の編集作業の時に、『新教』の記事を読む限りは、昭和114月の総会を第一回総会としていいのではないかと主張したが、他の編集委員から『池田先生の七つの鐘という発言は重い』ということで、私は『全集』第9巻の『解題』では『教育者中心の総会』と表現したが、今では『七つの鐘』に合わせて、昭和114月の総会を無視して、昭和12年に第一回総会を探すという無駄な努力はあきらめたほうがいいと思っている。『七つの鐘』の理論は将来展望として意味があるのであり、過去の事実を確定するための主張ではないと解釈したほうがいいだろう。」

 

どうでしょう。私には宮田氏が肯定したいのか否定したいのかよくわかりません。学者はすべからく、かくもわかりにくい書き方をするものなのでしょうかね。

あと挑発的な言動も今回の所感では二か所見受けられています。

『ついでに高橋氏に有益な情報をプレゼントしよう。』

という文章と

『高橋氏が宗教に関心があるなら、もっと面白い情報を提供しよう。』

という部分です。

二つ目の文章など、その前段まででいかに高橋氏が宗教に関心がなかったかという議論を展開した後にこの書き方ですので、支離滅裂ではありませんかね。

 

次に矢島氏について創価学会が批判したのは戸田池田が正統な後継者であると印象付けるためだという高橋氏の批判に対して次のように反論をしています。


「また高橋氏は、ある時期に矢島批判を始めた理由を『とうの昔に世を去り学会員のほとんどにとって記憶の埒外にあった矢島が、いきなり墓場から掘り返され、生け贄とされた。戦時中の思想弾圧でも退転しなかった矢島を事実に反してでも裏切り者とすることで、戸田は牧口の教えを守り抜いた唯一の弟子となり、さらにその戸田を守り抜いた唯一の弟子が池田であったことも強調される』と述べているが、戸田が『牧口の教えを守り抜いた唯一の弟子』であった理由は、何も『戦時中の思想弾圧でも退転しなかった』という理由ではなく、創価学会の宗教運動を大きく発展させた功績によるのであり、その点で矢島にどのような功績があったか疑わしい。高橋氏も述べているように、むしろ矢島は後に創価学会批判をして、運動の邪魔をしたことは明らかである。池田も『戸田を守り抜いた唯一の弟子』とされるのは、戸田の忠実な後継者であるという点ではなく創価学会の運動を世界に大きく展開したという功績によるのである。戸田の弟子であったという旧幹部がさまざまなことを述べているようであるが、彼らが創価学会を指導して、ここまで大きく運動を展開できたであろうか。」


戸田が牧口の、池田が戸田の正当な後継者であるという根拠は忠実な弟子であったという点ではなく、それ以後の教団を発展させた功績によるものだと宮田氏は反論しています。

この点は大いに問題が残る点だと思います。

一つ目に教団の後継者の基準が、教えを忠実に引き継いだかどうかという基準と教団の発展に寄与したという基準の二つ存在していて、先代がその基準を示したわけでもないのに事後評価で都合のいいほうが基準として採用されているということ。

二つ目に発展させた功績があったからを基準とした場合、牧口、戸田の教えを「守り抜いた」弟子と表現するのは不自然だということ。

仮にそうだとしたら「師の教えを展開させ弘めた弟子」という方がいいでしょう。

 この点を全く無視して議論が展開されているように読めます。

おおかた血脈相承になぞらえたストーリーのほうが宣伝に都合がいいから「師の教えを守り抜いた弟子」と表現したのだろうと私は思います。)

 

それとブライアン・ビクトリア氏の指摘への反論も不自然です。

今回の所感の流れを大まかに説明すると、『創価学会秘史』において高橋氏は創価学会反戦平和団体ではなかったと主張し宮田氏はその主張を全面的ではないにしても退ける論の展開をしているかと思われます。

そして牧口氏が戦争に加担したとする主張の初期のものにブライアン・ビクトリアというオーストラリアの仏教学者がいることを述べ、その論の展開に問題が多いことを指摘しています。

「一読した限りはなるほどと思える」という質すら下回っているように思います。

一読で「え?」と思いました。

その主張は次のようなものでした。

 

牧口は治安維持法違反で捕まった。

治安維持法はもともと天皇制維持を目的とし反体制派である社会主義者、共産主義者無政府主義者弾圧のための法律だった。

それらを解体した後、軍部は戦争政策遂行の障害を除くため、治安維持法の矛先を自由主義者と宗教運動を標的とした。

牧口はそれに引っかかったから「間接的に」反戦思想のために捕まったのである。

 

いささか苦しい主張だと思います。

この主張では軍部が牧口を戦争遂行の邪魔だと考えていたとは言えますが、牧口が反戦思想を唱えたとは言えません。

判断の主体が軍部が邪魔だと思っていたかどうかであるという基準で言えば、当時、軍部の治安維持法違反の容疑者は全員反戦平和思想を持っていたということになります。

 

とりま、このあたりかと思います。

宮田氏の視点を私は受け入れやすい視点観点として採用していますが、そのクオリティから言うと、今回の所感は劣悪なブログレベルとは言いませんが、説得力に欠けるものに思えます。

(組織的な圧力がかかって、いやいや書いているのかな、なんて陰謀説を想起したくなるレベルです)

 

確認のために付け加えますが、宮田氏がどのような持論を展開しても私は良いと思っています。またどの説を採用するのも自由かもしれません。

ただし、ある学説の批判的考察をするなら、根拠と説得力と合理性を求められるのは当然です。今回の所感は根拠はともかく説得力という点では感じられない内容となっています。

所感であって論文、レポートのたぐいではないと言われればそれまでですが。」




基本的にこの方のご意見に私は同意です。宮田氏には申し訳ないのですが、彼の反論には説得力に乏しい印象をどこか拭えないでいます。つまり教団の擁護という視点で書かれていまして、どこかこの点に関しては客観的な視点を宮田幸一氏が失っているように思えてなりません。




 

 

和泉公日法のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて弘安2年造立とされる大石寺戒壇本尊について、このブログではそれが後世の創作に過ぎないことを様々に書いています。



「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」
「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」
「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」


今回、書きたいのは和泉公日法のことです。
日蓮正宗大石寺の公式な見解として、戒壇本尊は和泉公日法によって彫刻された、そしてその際に「最初仏」と称される小さな御影像が日法によって作られたとされています。


大石寺48世日量の『富士大石寺明細誌』によりますと次のように書かれています。



「彫刻は中老僧日法に之を仰せ付けらる(中略)作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ(中略)日法右板本尊並に此像を造り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之有り」
(日量『富士大石寺明細誌』富士宗学要集5-334〜335ページ)


大石寺の富士年表によりますと、和泉公日法は1258年の生まれです。弘安2年は1279年ですから、日法は戒壇本尊を彫刻した功績によって僅か21歳で「阿闍梨」号を賜ったことになります。
ところで、弘安2年の時点では日興はまだ阿闍梨号を授かっていません。つまり日興がまだ伯耆房と呼ばれ、白蓮阿闍梨を自称していないにも関わらず、その日興が教化したはずの日法の方が先に阿闍梨号を賜るというのは些か不自然なことになります。


ところで弘安5年、日興真蹟の『宗祖御遷化記録』では阿闍梨号について次のように書かれています。


「一弟子六人事  不次第
一、蓮花阿闍梨  日持
一、伊予公  日頂
一、佐土公  日向
一、白蓮阿闍梨  日興
一、大國阿闍梨  日朗
一、弁阿闍梨  日昭」
(日興『宗祖御遷化記録』日蓮正宗歴代法主全書第1巻、80〜81ページ)


つまり弘安5年に日興は「阿闍梨」号を授かっていることがここからわかります。
で、気になるところは和泉公日法が「阿闍梨」と書かれているのかという点です。
次のように書かれています。


「前陣  大国阿闍梨
出羽公
和泉公
但馬公
卿公

後陣  弁阿闍梨
信之公
伊賀公
摂津公
白蓮阿闍梨
(同83ページ)


葬送の列、前陣右に和泉公日法がいたことがわかりますが、ここでは単に「和泉公」と書かれ、「阿闍梨」号は付されていません。後陣左の日興はきちんと「白蓮阿闍梨」と書かれています。


もしも和泉公日法が本当に弘安2年に阿闍梨号を賜ったのだとすれば、日興がそれを記さず単に和泉公と書いていることは非常に不自然なことかと思います。


つまり日法が戒壇本尊を彫刻したということも、単なる後付けの捏造であり、史実とは異なると私は思います。









大石寺を隠居した18世日精。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて少し前の記事で大石寺第17世とされる日精が、17世ではなく18世であることを書きました。


「日精は大石寺の17世か、18世か」


よく調べていくと、この日精という人物の経歴は本当に不思議に思います。
前回の記事で示したように、日精が先代の日就から相承されたという文献的証拠が何ら存在せず、自身の家中抄での記述に従えば、寛永9年(1632年)11月に相承を受けたことになっているのですが(富要5-260〜261)、そもそも日就は寛永9年2月21日に亡くなっており、史実と噛み合いません。


そもそも大石寺48世日量の『続家中抄』では先代の日盈が亡くなり、寛永14年の春に日精が「正嫡十八嗣法」として法主に登座したことが記されています(富要5-268)。


富士年表では寛永14年(1637年)から8年間、日精が大石寺法主であったとしていますが、実はこれも史実と噛み合いません。
この頃、日精は敬台院との確執が深まり、大石寺を追われることになります。
それを示しているのは48世日量の『続家中抄』で、「精師富士を退去し江戸下谷常在寺に移住す、之に依て当山無主なり」(富要5-269)と書かれています。
また大石寺52世の鈴木日霑が安政2年(1855年)に寺社奉行に提出した書類でも「大石寺十八代日精は寛永十五年寅年下谷町常在寺へ隠居仕り」(富要9-83)と書かれています。


敬台院と日精の間でこの頃、確執が深まっていたのは史料が示していまして、寛永17年に敬台院は日精が書いた本尊に対して「見申す度毎に悪心も増し候」(富要8-58)と言い放ち、本山へ返すことまでしています。