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創価学会の非活メンバーによる語り

大石寺を隠居した18世日精。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて少し前の記事で大石寺第17世とされる日精が、17世ではなく18世であることを書きました。


「日精は大石寺の17世か、18世か」


よく調べていくと、この日精という人物の経歴は本当に不思議に思います。
前回の記事で示したように、日精が先代の日就から相承されたという文献的証拠が何ら存在せず、自身の家中抄での記述に従えば、寛永9年(1632年)11月に相承を受けたことになっているのですが(富要5-260〜261)、そもそも日就は寛永9年2月21日に亡くなっており、史実と噛み合いません。


そもそも大石寺48世日量の『続家中抄』では先代の日盈が亡くなり、寛永14年の春に日精が「正嫡十八嗣法」として法主に登座したことが記されています(富要5-268)。


富士年表では寛永14年(1637年)から8年間、日精が大石寺法主であったとしていますが、実はこれも史実と噛み合いません。
この頃、日精は敬台院との確執が深まり、大石寺を追われることになります。
それを示しているのは48世日量の『続家中抄』で、「精師富士を退去し江戸下谷常在寺に移住す、之に依て当山無主なり」(富要5-269)と書かれています。
また大石寺52世の鈴木日霑が安政2年(1855年)に寺社奉行に提出した書類でも「大石寺十八代日精は寛永十五年寅年下谷町常在寺へ隠居仕り」(富要9-83)と書かれています。


敬台院と日精の間でこの頃、確執が深まっていたのは史料が示していまして、寛永17年に敬台院は日精が書いた本尊に対して「見申す度毎に悪心も増し候」(富要8-58)と言い放ち、本山へ返すことまでしています。