気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『華果成就御書』は後世の偽作である。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて読者のみなさんは日蓮遺文で『華果成就御書』と言うものをご存知でしょうか。創価学会では特に師匠と弟子、師弟の深さを示す時によく用いられる御書ですが、「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり」創価学会旧版御書全集900ページ)という文でよく知られているかと思います。

 
ところで、日蓮が師の道善房を讃えた『華果成就御書』ですが、これは後世の偽作とされています。
 
まずこの御書の日蓮真蹟、また上代の古写本は存在しません。
しかしながらこの御書は、他の日蓮真蹟御書と内容を対照すると矛盾の生じることがよくわかるのです。
 
さて内容を見てみましょう。この御書の冒頭では建治2年に清澄寺の浄顕房・義浄房らに2つの御書(「二札」ここでは『報恩抄』と『報恩抄送文』のこと)を送った際、『同送文』でお願いしたように「嵩が森」(「山高き森」)で読んでくれたことを感謝しています。ですからこの御書は『報恩抄』に関連して浄顕房・義浄房に送られた御書であることがわかると思います。
 
そしてこの御書では日蓮自身が法華経の行者として「日蓮房・日蓮房」とうたわれることは師匠である道善房のおかげであるとし、日蓮法華経の行者としての功徳は必ず師匠の道善房の身に帰すであろうとし、日蓮自身を上行菩薩に喩える代わりに師匠を安立行菩薩に喩えて讃えています。最後には師弟一体となった成仏の有り様を述べて、この御書は終わります。
 
さてこの『華果成就御書』では師匠を安立行菩薩にさえ喩えて報恩の思いを述べているのですが、果たして他の日蓮真蹟御書で師匠の道善房に対して日蓮はどう述べているのでしょうか。
 
まずその『報恩抄』(真蹟身延曽存、池上本門寺他に断簡が散在)で師匠の道善房について語られた部分を引用してみましょう。
 
「故道善房はいたう弟子なれば日蓮をば・にくしとは・をぼせざりけるらめども・きわめて臆病なりし上・清澄を・はなれじと執せし人なり、地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろの弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし」
(『報恩抄』同御書323ページ)

 
日蓮はここで師匠の道善房に対して「きわめて臆病なりし」「後生はいかんがと疑わし」とまで述べて師匠の道善房の成仏を疑っているのです。まして引用の前段では日蓮は「目連も母を救えず、母は餓鬼道に堕ち、釈迦の子とされる善星比丘でさえも阿鼻地獄に堕ちた」ことを挙げて「自業自得果のへんは・すくひがたし」とまで手厳しく述べ、道善房の成仏を疑っています。
 
次に『本尊問答抄』(真蹟不存、日興写本が北山本門寺現存、日源写本が静岡実相寺現存)で師匠の道善房について書かれた部分を引用してみます。
 
「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし地獄まではよもおはせじ又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず中有にやただよひましますらむとなげかし」
(『本尊問答抄』同373ページ)

 
ここで日蓮は師匠の道善房に対して、その成仏さえ懸念しています。地獄に堕ちることまではないとしても、道善房の霊は生死を離れることができず、中有の状態となって彷徨っているとではないかとさえ日蓮は述べ、「嘆かわしい」とさえしています。
 
『報恩抄』『本尊問答抄』を読めば、道善房を安立行菩薩に喩えて師弟ともに仏果に至るとする『華果成就御書』は、とても同一人物の述作と考えられません。しかも『報恩抄』は真蹟現存、『本尊問答抄』は日興写本現存の遺文であり、『華果成就御書』のみ真蹟不存です。
したがってこの『華果成就御書』は真蹟と対照し、その内容から見れば後世の偽作とするのが自然なことであると思います。
 
 
参考文献
山上弘道『日蓮真蹟解題集成』興風談所、令和5年
 
 
 
 
 

 

昭和52年路線とは何であったのか。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回は創価学会の教義の変遷における、いわゆる「昭和52年路線」とは何だったのかと言うことを少し書いてみたいと思います。
 
池田大作が第3代会長に就任するのが昭和35年5月3日、そして昭和40年代に入り、教勢の拡大は進んでいくことになります。会長の池田大作氏は教団内で信徒から絶大な支持を得ていく中で、少しずつ神格化されていくようになります。やがて本来の教義を拡大解釈して在家主義的な教義を主張していくのです。
 
本来、創価学会日蓮正宗の信徒団体、法華講連合会の一つでした。日蓮正宗の信徒組織は、寺によって所属する「講」が異なり、さまざまな複数の「講」が緩やかに連合体を成す形で信徒組織を形成しているのです。この中には例えば大石寺各塔中坊の「法華講」があり、他には例えば「妙観講」「顕正会」「蘇生講」「正信会」「創価学会」等の組織が併存し、それが緩やかな連合体として日蓮正宗の信徒団体として存在しているのです(注1)。
 
日蓮正宗の各講組織の信徒の指導系統は「法華講連合会」自体にはなく、各末寺の住職と信徒との関係にあります。だからこそその信徒は各末寺に所属する形をとるのです。忘れている方も多いのですが、かつて創価学会が宗教法人設立を大石寺に願い出た時、宗門から出された条件が「三原則」の遵守、すなわち「折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」「当山の教義を守る」「三宝を守る」だったのです(昭和26年12月18日、大石寺本山での会議にて)。
 
ところが、正本堂建立前後(昭和47年前後)から、創価学会側は大石寺の教義を在家主義的に応用して現代的な言葉に置き換え、大石寺よりもむしろ創価学会組織を正統な組織と捉えたり、三代会長らを神格化したりするようになります。これらは昭和52年1月15日に大阪豊中市の関西戸田記念講堂で行われた創価学会の「教学部大会」での池田会長の「仏教史観を語る」の発表以降、日蓮正宗側から教義逸脱として激しく批判されるようになります。この対立は「第1次宗創紛争」と呼ばれ、この時の創価学会側の在家主義的な教義解釈を「52年路線」と呼びます。これらの問題は昭和53年6月19日、宗門側から質問状が創価学会に出され、同6月30日付で創価学会から宗門に回答が送付され、それらを教義逸脱として創価学会が認めて謝罪する形で一度決着します。
 
ではこの時の「52年路線」という創価学会の教学とはどういうものだったのでしょう。
主として3点を挙げてみましょう。
 
1、三代会長、特に池田大作の神格化
2、「三宝」の拡大解釈
3、創価学会各会館と寺院との混同、僧俗の差別の曖昧化
 
主にこれら三つの点から説明してみましょう。
 
 
1、三代会長、特に池田大作の神格化
 
以下の2枚の画像は『教学と私』第1巻(聖教新聞社、昭和48年)からのものです。具体的な出典は法華講衆有志編『蓮華八十七号の正しい読み方資料』(法華講衆有志、昭和53年)であり、それぞれ132ページ、150ページ掲載分になります。

 
 
それぞれ「池田先生と境智冥合できる人材になろう」「池田先生こそ本門弘通の大導師であります」とされています。当時、このように池田大作氏を神格化し、仏にも値するような不二の尊体のように絶賛することが普通に行われていました。そもそも「本門弘通の大導師」とは日蓮正宗の教義から言えば大石寺開山の日興に付されるべき尊称です。
 
 
2、「三宝」の拡大解釈
 
次に三宝観の解釈です。先ほどの「本門弘通の大導師」の解釈にも見られるように、本来三宝中の僧宝である筈の「本門弘通の大導師」(=日興)を池田大作氏への尊称として用いることが普通に行われていました。以下は聖教新聞(昭和49年5月27日付)の「名字の言」ですが、ここでは創価学会それ自体が「僧宝」とされています(前掲書232ページ)。

 
 
近年ではこれらがさらにエスカレートして、教団自体を「創価学会仏」と称して三宝における仏格扱いにしています。
 
 
3、創価学会各会館と寺院との混同、僧俗の差別の曖昧化
 
次に在家の信徒団体である創価学会が当時所属していたところの日蓮正宗本体を差し置いて、自分たちの教団が「僧俗」の両義を兼ね、在家であっても「供養」を受けられる、また創価学会の会館自体が現代における「寺院」ということを主張し始めます。
これらの教義解釈は出家集団である筈の「宗門」「僧」が「形式主義に陥りつつある」という文脈で語られ、「現代における広宣流布を実践しているのは我々創価学会である」ことから、「自分たちも供養を受けられるし、僧としての義を既に持っている」ことを主張するに至るのです。やがてこれらはエスカレートし、そもそも「日蓮日興の血脈は創価学会にこそ通う」という解釈をするに至ります。
以下は昭和52年1月15日、教学部大会における池田大作氏の『仏教史観を語る』と題された講演です(前掲書230、219、及び231ページ)が、この中で池田大作氏は明確に「現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている」「その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」と述べているのです。

 
池田大作氏、並びに創価学会本体はこれら在家主義的仏教解釈について、日蓮正宗宗門から指摘を受け、その誤りについて公式に認めて謝罪をします。このことはブログ記事冒頭で述べたように昭和53年6月19日に宗門側から質問状が創価学会に出され、同6月30日付で創価学会から宗門に回答が送付され、この中で創価学会が教義逸脱の事実を認めて謝罪することになるのです。
ところが、この昭和53年6月30日で謝罪し、創価学会は一度は教義逸脱を認めた筈なのですが、創価学会はこれらの謝罪を第2次宗創紛争以降(平成3年以降)、事実上棚上げ・撤回し、これらの在家主義的教義こそが「真に現代の時代に即応した新しい教義」と考えたようなのです。
その証拠に令和5年2月26日付の聖教新聞の1面では、この昭和52年教学大会での池田氏の『仏教史観を語る』講演がカラー写真で掲載され、紹介されているのです。
かつて謝罪して教義的に誤りだとした昭和52年路線の教学大会の写真をなぜ今になって機関紙に掲載するのでしょうか。

創価学会はかつての在家主義的教学路線である「昭和52年路線」について、大石寺宗門からの指摘を受け、少なくともその教義逸脱を認めて謝罪をしました。
それを今になって正当化するのなら、まず過去の大石寺宗門への謝罪は何だったのかを説明する必要があります。
つまり謝罪は正しかったのか、それとも間違いだったのか、どちらなのかということです。
謝罪をした創価学会が正しかったのなら、なぜその時に謝罪をしたのかということになりますし、かつての謝罪はみかけだけの「嘘」だったのかという疑念が残ることになります。
要は創価学会には過去への総括がなく、その場しのぎで謝罪をしてきたと評されても仕方がない部分があると言うことなのです。
 
 
参考文献
法華講衆有志編『蓮華八十七号の正しい読み方資料』法華講衆有志、昭和53年
創価学会『特別学習会テキスト』創価学会、昭和54年
聖教新聞』令和5年2月26日付
 

※注1

SNS上にて2026年1月19日、ご指摘があったのですが、実は「法華講連合会」自体でさえ、実は昭和37年に当時会長の池田大作氏によって大石寺に結成された組織だったとのことです。存知ませんで失礼しました。

 

 

 

 

 

新労働組合の構想について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて池田大作氏は以前、創価学会独自で「労働組合」を立ち上げようとしていました。しかしそれは各方面からの批判からか頓挫し、今ではすっかり構想そのものがなかったかのようにされています。
今回は池田大作氏が昭和40年代に構想していた創価学会独自の労働組合について、少し書いてみましょう。具体的に池田大作氏がこの新労働組合構想に言及したのは、昭和42年(1967年)11月19日、両国の日大講堂で開催された第16回青年部総会、及び同11月30日、同じく日大講堂で開催された第94回本部幹部会での池田大作氏の会長講演です。
 
まず昭和42年(1967年)11月19日、日大講堂での第16回青年部総会での池田氏の発言を紹介してみます。
 
「これは別の話になりますが、最近「社会党における総評、民社党における総同盟の関係のごとく、公明党に対しても、その支持母体となるような組合組織をつくってほしい」との要望、機運が全国的に高まっております。大衆福祉を目指して進む公明党が、真実の労働者の味方として、これら労働大衆の要望を国政に、地方政治に具現していくのは当然の理であります。また真実の労働者の声を反映するために、労働者自身にとって理想的な組合がつくられねばなりません。それが時代の趨勢であることも、私はよく知っております。今日まで、労働者は、むしろ既成政党の党利党略に利用されてきたという多くの声も聞かれます。また、これまでの組合組織が、大衆と遊離し、いたずらに一部組合幹部による政治への圧力団体のごとき存在となりさがっているということもいわれています。そのうえ中小企業に従事する二千万の未組織労働者は、労働組合から見放されています。私は、ここでこれら労働者のために、また将来、公明党にも、その支持母体ともなるであろう労働組合の組織をつくることを、みんなで検討しはじめたならばどうか、と諸君に提案申し上げるものであります。」
池田大作「栄光の年めざし勇躍前進」『池田会長全集』第3巻講演編所収、632〜633ページ、創価学会、昭和43年)

 
次に同年11月30日、第94回本部幹部会(両国日大講堂)での池田氏の講演から労働組合について語った部分を、かなり長文になりますが、引用してみましょう。読んでいて冗長に感じる方は少し飛ばし読みして先にお進みください。
 
「ここで労働組合の問題について一言申し上げておきます。すでにご承知のように、十一月十九日の第十六回青年部総会の席上において、新しい労働組合を結成するための検討を青年部諸君に提案いたしました。そして満場の賛同を得ましてこの検討にはいったわけであります。しかるにこの問題が、その後内外に非常な反響を呼んでおりますので、この席を借りて一言だけ申し上げておきたいと思います。私の本当の気持ちをいえば、今日の労働運動が労働者の利益を守るという本来の目的にかなっているのであれば、一切を総評や同盟に任せたいのです。また、その気持ちで今日までまいりました。しかし、これまでの選挙においても、一部の組合執行部が学会員を迫害し、信仰の自由、選挙の自由を侵す等、憲法に保障された基本的人権を侵害するといった種々の事件が次第にふえてきました。これは非常に残念な問題であり悲しい現実であります。
古くは、北海道の夕張炭鉱事件からはじまって、九州の中里炭鉱、東北の尾去沢鉱業所、愛知の近藤紡績等々、純真な学会員が、ゆがんだ労働幹部の不当な弾圧をうけて苦しめられてきたのであります。裁判でも「これらの事件は組合執行部の政治偏重であり、団結権の乱用であると」の明確な判決がくだっておりますが、こうした組合幹部の偏見は、いまだに根強くはびこっているとの報告が多いのです。そこでここ二、三年の間に、「本来の労働組合の精神に立った理想的な労働組合をつくりたい」との声が、学会員を中心とする労働者の人々の間からわき上がってまいったのであります。
これまでに理事会等でも、何回かそうした要望の声が出されてまいりましたが、私としては、総評や同盟が、いつかは現在のゆがんだ姿勢を改め、本来の正しい労働運動の姿に立ち戻るであろうとの望みを託して、新しい労働組合の結成援助に踏み切ることをためらって来たのであります。しかし、大衆から遊離して独走する一部の労組指導者の実態、さらに、わが国産業界の発展の陰に、その犠牲とされているとしかいいようのない中小企業の労働者の現況等を見るにつけ、どうしてもこのまま放置するわけにはいかないと痛感しました。そこで私は、大衆福祉のためにも、公明党が立ち上がる以外にないと判断して先日のごとく提案し、青年部同志の賛同を得たしだいでありますが、その点ご了承を願うしだいであります。
今後、第一段階としてまず十人程度のメンバーで小委員会をつくり、第二段階として、全国の労働者の代表九十人、公明党から相談役の形で十人協力参加して、合わせて百人によって委員会を構成し、組合結成の方式や綱領の起草などについて研究と実現とを進めていくことになったしだいであります。やがて委員会で理念・綱領等ができあがりましたら皆さん方に発表することになろうと思います。実際に具体化するのは、新聞でも発表されたように、来年の参院選以後になると思います。
いずれにせよ、欧米における労働組合も、今日のように成長を遂げるまでには、百年以上の血みどろの戦いがありました。あるいは、数百年前の中世の職人組合からその源を発しているといっても過言ではありません。したがって、理想的な労働組合が一朝一夕にできるものではないことは、私もよく知っております。よってこの結成にあたっては、あくまで慎重に、着実に、他の労働組合とも十分に話し合いながら、三年、五年、十年がかりで盤石な労働組合をつくっていきたいと提案しますが、いかがでしょうか。新しい組合の基本的な路線は、当然、綱領で明らかにされてまいりますが、その活動は、あくまでも経済闘争を根幹として、政党のための組合でもなく、資本家のための御用組合でもなく、どこまでも労働者のための労働者自身の組合であることを明確にしておきたいと思いますが、いかがでしょうか。
また、他の労働組合と対立したり労働者同士が争うような愚かな衝突は、どんなことがあっても避けなければならない。したがって政党支持については、日本国憲法の精神にのっとり、各人の自由とすることを原則として貫いてまいります。公明党だけを支持するとか、他の政党を支持するような人は加入させないといった偏狭な行き方は、決してしないようにしたいと思いますが、いかがでしょうか。あくまでも、労働組合の目的は、労働者の労働条件の改善と経済的地位の向上を推進することであり、その運動はこの本来正しい目的に立った正しい広々とした行き方をすべきであるということを主張しきっていただきたい。どうかこの基本線をご了解していただき、委員の方々もその精神にのっとって検討を進められるよう、よろしくお願いいたします。」
池田大作「新労働組合運動について」同640〜642ページ)

 
ここからわかるように池田大作氏は全国的に高まった要望・機運を受け、それに応える形で公明党の支持母体となるような新しい労働組合を作ることを創価学会信徒に発表しました。これは昭和42年11月19日以降のことになります。池田大作氏は同11月30日の本部幹部会で「一朝一夕にできるものではない」ことから慎重に万全を期し3年〜5年〜10年がかりで盤石な組織体制を構築したい旨をここでは述べています。
 
ところが、この創価学会公明党による「新労働組合構想」は実現されたのでしょうか? 実は全く実現されていません。
翌43年7月の本部幹部会で池田氏はこの労働組合の名称を「日本民主労働協議会」(民労)とし、基本方針や機構の概要を発表し、昭和44年の結成を目指したようですが、実現されませんでした。一説によると既成労組からの強い反発があったようですが、詳しくはわかりません。また『創価学会年表』にもこのことは記載されませんでした。
 
ではこの創価学会信徒からの要望を受け、その機運を受けて池田大作氏の構想した、この「新労働組合」構想は、間違いだったのでしょうか?
間違いでないのなら、なぜこの池田大作氏の講演は昭和43年刊行の『池田会長全集』にのみ収録され、後の『池田大作全集』に収録されないのでしょうか? 『全集』を銘打つのなら全ての著作や講演を収録して遺すべきである筈です。
池田大作氏の発言が正しいのであれば、その構想がひとまず頓挫したことを認め、改めて師匠である筈の池田大作氏の構想実現に努力するのが信徒たちの仕事なのではないのでしょうか。
これらが実現できず、都合が悪いから今は信徒の目に触れないように全集に収録せずに隠しておいているようにしか、少なくとも今の私の目には見えません。皆さんはどう感じられるでしょうか。
 
 
 
参考文献
池田大作『池田会長全集』第3巻講演編、創価学会、昭和43年
「継命」編集部編『社長会記録』継命新聞社、昭和58年
藤原弘達『この日本をどうする・2 ー創価学会を斬るー』日新報道出版部、昭和44年
 
 
 
 

 

日興写本の現存する『伯耆殿御書』

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて大石寺系教団として、創価学会日蓮正宗は日興門流の教団です。六老僧の中でも最も師匠の教えに厳格で知られ、身延山を下山し、富士門流八本山の開山となったのが白蓮阿闍梨日興です。
 
当然ながら、創価学会は日興門流の大石寺から分離した教団ですから、身延山日蓮宗とは異なり、日興門流として日蓮の教えを奉じる宗派と言うことになろうかと思います。
 
一つ、最近感じた疑念が「創価学会はなぜか『伯耆殿御書』を御書全集に収録していない」という点です。
日興はかつて「伯耆房」(ほうきぼう)という名で知られていました。弘安2年の熱原法難の際、熱原法華衆は逮捕されますが、この時に日蓮から書状で事細かく指示を与えられたのがまさに伯耆房(日興)でした。この時に与えられた御書として創価学会の旧版御書全集には『伯耆殿御返事』(弘安2年10月12日付、真蹟不存、日興写本が北山本門寺に現存)が収録されており、また新版の御書では『伯耆殿並諸人御中御書』(弘安2年9月26日付、日蓮真蹟断簡が和歌山了法寺京都府頂妙寺等に散在)が収録されています。
 
ところで、これらと別に日興写本で『伯耆殿御書』とされる御書が、創価学会版御書全集には全く収録されていません。
これは断簡であり、前半が欠損していますが、後半の日興写本が北山本門寺に現存します。昭和新修・平楽寺版等、他の遺文集には収録されていますが、日興門流である筈の創価学会の御書には収録されていません。
短い断簡だからでしょうか。しかしその割にはこの『伯耆殿御書』には当時の熱原法難の緊迫した情勢が行間に示されているのです。紹介してみましょう。以下の画像は浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集』(下)2381ページのものです。

 
先述したように弘安2年9月21日に熱原法難で熱原法華衆は逮捕されます。『伯耆殿御書』はその前日、9月20日付で日興に送られたものです。内容は非常に緊迫した当時の状況を伝えるものです。
推測されるに、滝泉寺及び実相寺、四十九院の住持との何らかの対論が予想され、そのための教示としていることが考えられます。
日蓮はここで「仏像や舎利、余経を安置するのではなく、『法華経』を安置することを主張せよ」「不受余経一偈の余経は小乗経のことだと言ってくるなら、『五百問論』では『華厳経』と『法華経』との相違を示した上で爾前経全てを指して不受余経一偈としていると反論せよ」と具体的な反論方法を日興に示しているのです。
 
この弘安2年9月20日付の『伯耆殿御書』は日興写本が北山本門寺に現存しています。それは弘安2年10月12日付の『伯耆殿御返事』と同様です。
それならば他門流でさえ遺文集に載せる『伯耆殿御書』をなぜ創価学会は信徒に学ばせないのでしょう? しかも日蓮による反論の指示は具体的で明確です。弘安2年9月21日逮捕の前日の御書という意味でも、当時の状況を推し量る貴重な史料の筈です。
 
恐らくは創価学会教学部として、旧版に未収録だった9月26日付『伯耆殿並諸人御中御書』を収録し、10月12日付の『伯耆殿御返事』を日秀・日弁宛でもあることも含めて旧版通り『伯耆殿等御返事』という題名としてそのまま収録。断簡でしかない『伯耆殿御書』は載せても載せなくてもどうでも良かったのでしょう。
結局、弘安2年9月20日、熱原法難前日の貴重な史料である筈の『伯耆殿御書』の重要性について、創価学会教学部として「さほど重要とは捉えていない」と言うことなのでしょう。
 
 
 

 

創価学会版御書に収録されない日蓮真蹟遺文(2)

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は、日蓮の真蹟が現存しながら、創価学会が全く御書全集に収録していない日蓮遺文を、以前の記事に引き続いて紹介してみたいと思います。
前回の記事はこちらです。
 
 
 
創価学会版御書全集には『御義口伝』や『生死一大事血脈抄』のような偽書の疑いの強いものを何の検証もなく収録するのに、なぜか日蓮真蹟が現存しているのにもかかわらず、何の紹介もせず御書全集に収録さえせず、信徒に日蓮の真蹟を学ばせないところがあります。
今回もそんな御書を一部紹介したいと思います。
 
 
1、『一代勝劣諸師異解事』
 
真蹟3紙が中山法華経寺に現存する日蓮真蹟遺文です。中山3世日祐の『日祐目録』にも全く同名の「一代勝劣諸師異解」の名前で記録されています。
この遺文は図示の形で書かれており、光宅寺法雲、三論宗、天台智顗、法相宗、法蔵、善無畏等、伝教、弘法、慈覚、智証、そして日蓮という風にそれぞれの諸師の教判における一代聖教の勝劣と順位を示したものです。
ここでは弘法が法華経大日経に比すれば三重の劣と述べたことに対して、日蓮は逆に「真言が七重の劣である」ことが示されています。この趣旨は日蓮真蹟遺文中、『神国王御書』『諫暁八幡抄』等でも見られますので、日蓮後年の真言批判を裏付ける意味でも重要な日蓮遺文だと思います。
 
 
2、『双紙要文』
 
全43紙分の日蓮真蹟が中山法華経寺に現存しています。
この御書は引文集であり、『日蓮聖人真蹟集成』に収録されながら、『昭和定本』以外の多くの遺文集には収録されていません。興風談所の山上弘道氏は同抄を「爾前経と法華経の円の同異」、また「一念三千法門の基調を成す引文集」としており、全文を翻刻の上、遺文集に収録されるべきことを提言しています。個人的に本文中において「一念三千名目出処勘文」(13丁表)とし、一念三千の名目が止観や文句等には「之れ無し」(15丁表)と日蓮がその出処を探る思索の過程は非常に重要な部分かと思いますし、また『注法華経』の引文との関係等、学ぶべき部分の多い遺文であると考えます。
 
 
3、『一代五時鶏図』(妙覚寺本)
 
日蓮の真蹟の残る『一代五時鶏図』また『一代五時図』は同じ題号で7編が確認されています。しかしながら創価学会版御書全集で収録されているのは3編に止まります。しかしこの『一代五時鶏図』は、日蓮が生涯に渡って複数回、継続的に書いている御書であり、門下の教導に非常な重要な意味を持つ重書です。このように日蓮が生涯に渡って継続的に書いた述作は他には『注法華経』と『立正安国論』があるのみです。
内容としては釈迦一代五時の教判を図示し、権実教判を弟子たちに教え示す、非常な重要な教材だったと言って良いでしょう。またこの『一代五時鶏図』において真言を方等部に配したり、伝教を真言師に配したりする等、日蓮が独自で天台の教判を乗り越えようとした形跡が見られ、日蓮の思想の変遷や思索の跡を知ることができる貴重な史料と言えます。それなのに創価学会は教団として、この『一代五時鶏図』を信徒に学ばせることがほとんどありません。しかも全7編の真蹟『一代五時鶏図』全てを御書全集に収録さえしていないのです。
今回は京都妙覚寺に真蹟の現存する『一代五時鶏図』、いわゆる「妙覚寺本」を挙げておきます。系年は都守基一氏が文永9年〜10年頃と推定し、また坂井法曄氏が建治2年〜3年頃と推定しています。
内容としては唐土真言師たちが批判されつつ、その中に伝教も含まれており、日蓮は一次的にせよ伝教もまた真言伝持の人師として認識していたことがわかります。
 
 
4、『立正安国論』(広本)
 
立正安国論』は文応元年(1260年)に書かれ、北条時頼に上呈されたものですが、実は日蓮は後年、これを建治から弘安頃にかけて引用経典を増補するのみならず、浄土宗批判だけでなく、特に真言宗批判を強く打ち出した『広本』を書きます。これは「建治の広本」として知られ、多くの遺文集で文応元年の『立正安国論』とは別にこの『広本』を併せて収録しています。そのため、ほとんどの創価学会信徒は『立正安国論』に文応元年の『略本』と建治の『広本』が存在することさえ知りません。
『略本』ではまだ日蓮が法華真言をともに並列して正法視する立場に立っているので、後年に日蓮が明確に真言批判の立場に移ったことを学ぶためにも、この『立正安国論』広本は収録されるべきと思います。なお『広本』日蓮真蹟は京都本圀寺に現存します。以下の写真はその京都本圀寺現存のものです。

 
 
……まだまだ日蓮真蹟で、創価学会信徒が知らない御書はたくさんあります。まずは残された真蹟をきちんと学び、何を日蓮は書いて残したのか、明確にすべきであると私は思います。真蹟の残らない、古写本も存在せず記録にも残らないのに、室町時代や戦国時代以降に突如現れた後年の偽作としか思えない文献を「日蓮の著作」として読むこと自体がそもそも大きな間違いなのです。
 
 
 
参考文献
山上弘道『日蓮遺文解題集成』興風談所、令和5年
小林正博『日蓮大聖人の「御書」を読む(上)法門編』第三文明社、平成8年
宮崎英修他編『第七百遠忌記念 日蓮聖人展』日蓮聖人門下連合会読売新聞社、昭和56年
 
 
 

 

『三大秘法抄』は『日常目録』『日祐目録』に記載されていない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は『三大秘法抄』(『三大秘法稟承事』)の偽作説について、以前の記事とは少し別の視点から書いてみたいと思います。以前の記事は以下になります。
 
「『三大秘法抄」は日蓮の著作ではない」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2023/12/30/102156
 
結論から言いますと、この『三大秘法抄』は中山日常(富木常忍)の『常修院本尊聖教録』(日常目録)にも、また中山3世日祐の『本尊聖教録』(日祐目録)にも全く記録されていないのです。
 
まず最初にこの『三大秘法抄』が与えられたとされる大田乗明という人が、どのような人物であったのか、少し確認してみましょう。
 
大田乗明は貞応元年(1222年)の生まれで、日蓮と同年と言われています。文応元年頃、富木常忍の縁によって日蓮に帰依したとされます。曾谷教信とともに早くから日蓮に帰依した一人です。乗明の妻が曾谷教信とともに日蓮本人と外戚関係(従兄妹)にあったようで、夫婦ともに信仰に入ったとされます。また日蓮の主著である『観心本尊抄』は最初に富木、大田、曾谷の3氏に与えられています。大田氏は単なる武勇のみならず、非常な学識があり、教義理解の素養、漢字の知識があったことがここからもわかります。建治元年に出家し、下総中山に本妙寺を建立、後に富木氏の若宮法華寺と合して本妙法華寺となり、現在の中山法華経寺になります。日蓮入滅の際には大田乗明本人も病褥にあったようですが、押して臨滅度時に立ち合い、身延の葬送の際は子息を連れて鐘と天蓋を捧じて参列しています。子息の帥公日高は日蓮在世中に既に弟子になっていまして、中山法華経寺2世帥阿闍梨日高として知られるようになります。
 
さて、それでは本題の『三大秘法抄』の問題に入っていきましょう。同抄の末文には以下のように記されています。
 
「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何とも悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。」
(『三大秘法抄』、創価学会旧版御書全集1022ページ)

 
つまりここだけを読むなら、この『三大秘法抄』は大田乗明に宛てられて書かれた書状ながら、大田氏を通じて後世に遺す目的で書かれた重書ということになります。
ところがこの大田乗明を通じて門下全体に与えられたとされる重要な遺文がなぜか『日祐目録』に全く見られないのです。
大田乗明は自身に宛てられた書状については連名も含めて大切に保管管理していたことが伺え、それらの遺文は子息である日高(中山2世)が大田氏の私邸を本妙寺とした際に本妙寺重宝として所蔵されたのです。その証拠に中山3世日祐の『日祐目録』には法華寺に所蔵された富木氏の所持分と、本妙寺所蔵の大田氏所持分とが列記されていて、その本妙寺分に大田氏への書状が記録されているのです。
この中には『曾谷入道殿御書』『乗明聖人御返事』『慈覚大師事』等、重要な御書が含まれます。法華寺所蔵分にしても大田乗明宛の『転重軽受法門』等が記録され、大田氏所持分として『一代五時図』(広本)や『小乗小仏要文』等の大田氏が所有したとされる御書が目録で書いて残されているのです。
 
であるのならば、大田乗明に宛てられながら、日蓮門下の全体のために「書き付けて留め置いた」『三大秘法抄』が、なぜ『日祐目録』の真蹟、また写本目録にも載っていないのでしょうか。
また富木常忍(中山日常)本人の『日常目録』にさえも『三大秘法抄』の書名は記されていません。
これに対して山川智應氏は「一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」とされた秘書である故に目録に載せられなかったと推測していますが、そもそも『観心本尊抄送状』(観心本尊抄副状)にも明確に「之を秘す、無二の志を見ば之を開袥せらる可きか」(同255ページ)と書かれ、秘書とされていますが、『日常目録』には記載されています。秘書であれ、それが重要な書物であれば尚更、それらが紛失しないように目録に記載することはむしろ当然のことのはずです。

 
興風談所の山上弘道氏は以上の観点から『三大秘法抄』を1300年代後半から末頃にかけて成立した偽作遺文であると判断しています。
 
 
参考文献
山上弘道『日蓮遺文解題集成』興風談所、令和5年
宮崎英修編『日蓮辞典』東京堂出版、昭和53年
浅井要麟編『昭和新修日蓮聖人遺文全集別巻』平楽寺書店、昭和9年、第16刷・平成5年
 
 
 
 

 

雑乱信仰は焼き払うことを勧めた牧口常三郎。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は牧口常三郎氏の頃に創価学会(当時は創価教育学会)でいわゆる「謗法払い」、他宗派の神棚や御守り等を焼却することを推奨していた件について、当時の書簡から見ていきたいと思います。
昭和の戸田城聖池田大作会長時代に行っていた「謗法払い」の行為のルーツは、実は牧口常三郎時代から存在しており、雑乱信仰を否定して他宗派との共存を当時から否定していたことがわかります。
ある意味では「信仰の純粋さ」と肯定的に捉えることもできるのかもしれません。しかし他宗派の神棚や御守り等を「焼却」するように指導、推奨していたとするなら、やはりそれらは事実として明らかにし、批判の俎上に置かれるべきことだと私は思います。
 
そのような指導があったことは、牧口常三郎への尋問調書で牧口氏本人が認めていることは、既に一度記事にしているところです。
 
 
今回紹介するのは牧口常三郎から渡辺力(当時、創価教育学会の実験証明委員の一人)への昭和8年(推定)7月27日の書簡になります。
書簡を紹介する前に、この「渡辺力」氏について、私が知る範囲のことを書いておきましょう。
 
渡辺力明治42年(1909年)10月10日、新潟県出身の人物で、二松学舎専門学校を卒業した後、昭和7年4月から牧口常三郎の創設した私立時習学館に勤務し、牧口の助手となります。その後は牧口常三郎の提唱する創価教育学を実証するための「実験証明委員」の一人として国語科を担当します。昭和7年5月に日蓮正宗に入信。昭和11年3月28日、牧口常三郎の三女・牧口ツナと結婚、創価教育学会の発展に寄与した人物とされています(『牧口常三郎全集』第10巻、補注11、306ページより)。
 
「拝啓 本日御母さま御出被下(おいでくだされ)種々御土産ありがたく芽出度御受申置候 さて明後日御帰郷の由就ては此の際宗教の改革だけはきつぱりしておかずば品田のやうな魔が起りはせぬかと心配に不堪(たへず)候 よつて
一、貴下のおかたき御本尊を母上へ持たせやり御家へ安置し奉る事。就ては伝来の雑乱信仰になるやうなお守り、なとは一切焼き払ふことをおすゝめある事 身延流の本尊は一たん貴下の手に取もどして始末する事
一、信仰の作法を教へてやり朝、夜、如説の修行を母子ともにすることにする事、貴下の方は御守り御本尊による事
一、妙行寺の方は貴下より書面を出し「研究の結果 大石寺嫡流の御本尊によるにあらざれは、大聖人の御正意に背き謗法なるが故にその罪恐ろしく改宗するに就ては、これが間違ひないといふ証拠があらはともかく ない以上 人を救ひ日蓮聖人の御弟子としては寺に於ても速(すみやか)に改宗して今までの間違ひの罪をさんげして信徒をも早く救う処置をとるべき事。とりあへず、宗教に就ては自分が家督相続上一切引き受けるから盆くれの回向は断る事。委細は帰村の上」いふが如き趣旨を申やる事
右は与同罪(よどうざい)心配につきこれだけは断行可然(だんこうしてしかるべし)と為念(ねんのため)一言御注意申上候
七月廿七日         牧口常三郎
  渡辺力殿
お母さまへよろしく、委細今一度御面会の上前陳可申上候」
牧口常三郎・書簡集より、斎藤正二他編『牧口常三郎全集』第10巻所収、269〜270ページ、第三文明社、1987年)

ここではちゃんと牧口常三郎本人が「伝来の雑乱信仰」について「お守り」などは明確に「一切焼き払ふ」ことを勧めています。また牧口はここで日蓮宗曼荼羅本尊を「身延流の本尊」と呼び、大石寺の本尊を「嫡流の御本尊」とまで呼んでいます。
本文にある「妙行寺」は新潟県柏崎にある日蓮宗の由緒ある寺院で、渡辺家は代々檀家頭をしていました。牧口常三郎渡辺力に対して妙行寺宛に書面を出して寺自体に改宗することをすすめ、また盆暮の妙行寺からの追善回向も断るように述べています。
 
ここに見られる牧口常三郎は、明らかに他宗派の「雑乱信仰」の対象は「焼き払ふ」ことを勧め、身延山日蓮宗の本尊でさえも一度自身の手に取り戻してから「始末する」ことを示唆しています。そしてこれらの行動は、謗法との「与同罪」を心配する故であり、「断行すべし」と末文で示しているのです。
 
つまり創価学会の他宗派排斥、「謗法払い」と称されるような仏像や他宗派本尊の焼却処分等は、明らかに牧口常三郎本人が信徒に推奨しており、牧口初代会長時代の創価学会草創期から行われていた行為だったことになるでしょう。
 
 
追記
新潟県柏崎の日蓮宗妙行寺は、その創建が文永11年(1374年)の日蓮在世中にまで遡る由緒ある寺院です。佐渡流罪が許された日蓮は寺泊に戻るまでに暴風に遭い、番神に着岸。この時、日蓮はここにあった真言宗寺院の慈福法師と法論して、慈福が改宗。名を日心と改め、日蓮宗寺院になったのが由来だそうです。渡辺力氏の先祖は、代々がこの妙行寺の檀家頭でした。