気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

的場正順氏の身に起こったこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は昭和33年の大石寺大講堂落慶法要の際に、的場正順という僧侶に対して創価学会が何をしたのかという点を考えてみたいと思います。


このことに関して、小説『人間革命』第12巻では、的場正順氏が所化小僧を手下のように使い、それを創価学会青年部と山本伸一池田大作)がたしなめたという表現になっていますが、どうも事実は異なるようです。
的場氏が後に一僧侶に送った手記を元にして、溝口敦氏は以下のような記述をしています。当該の箇所をそのまま引用してみます。



「大講堂落慶法要の際、創価学会の青年部員三、四十名が大石寺の大坊に泊まりこんでいた。彼らは僧の卵ともいうべき所化を、タバコを買いにやらせるなどの私用に使い、チップがわりに菓子を与え、ソバ代を出すなどしていた。彼らには所化とはいえ、僧侶一般に対する畏敬の念はなかった。所化を指導する立場にあった的場はこれらのことを見聞きし、青年部責任者の土屋某に再三にわたって注意を促した。
三月二十二日の夜、的場は青年部員間で、『正宗の坊主も邪宗の坊主となんら変わりない。ものさえ与えれば、いうことを聞く』と話されているのを聞き、翌二十三日朝、大石寺内の一僧坊である六壺に所化と青年部員を集めて厳重な注意を与えた。
『大坊は一人前ではない僧が法主の指南で修行する場所であって、本来が青年部員の起居するところではない。教育にさわるような真似はやめてほしい』
的場は語をつぎ、前夜の青年部員の話を論難した。
邪宗の坊主と同じだというのは物を知らなすぎる。ではいうが、戸田は十六日、岸を迎えようとした際、宗教団体の王様は私だといったが、これはどういうことか』
宗門の立場からいえば、宗団の王者は、日蓮であり、また日蓮を体現する本尊、あるいは法主となろう。的場は創価学会の宗門支配を苦々しく思い、いわば法主にかわって、戸田の車駕による境内練り歩きなどを批判した。山門には下馬下乗とあって、法主でさえ山門を出るまでは乗り物を利用できない。
が、この三時間後、的場は池田に呼び出されて裸にされ、近くの御塔川原に放りこまれる。青年部員がかわるがわる的場に馬乗りになって的場の顔を水の中につけ、池田はポケットに手を入れて見下ろしながら、指揮したという。
的場は事件後、被害者にもかかわらず逆に約2週間の謹慎を命じられたうえ、北海道の新寺院に四年、その後、鳥取へと、地方回りの生活を余儀なくされた(『週刊文春』昭和五十二年九月一日号)。宗門は創価学会の組織と財力に制圧されつくして、的場の正義をバックアップすることも、その権利を回復することと長くできない状態にあった。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』183〜185ページ、講談社+α文庫、2005年)


私はこのブログで『狸祭り事件』についても書いていますが、狸祭り事件の本質は宗教法人格の取得のために創価学会大石寺宗門に対して企図した示威行為であり、これがきっかけで創価学会大石寺に対する影響力は高まったと考えています。


「狸祭り事件」

「小笠原慈聞氏の謝罪画像の新聞掲載」

創価学会青年部から小笠原慈聞氏への示威行為」


そして大講堂落慶の昭和33年3月16日もまた戸田は法主にさえ許されない「車駕」に乗って境内を練り歩き、宗教界の王者を宣言、そしてその数日後に上記のような私刑事件が大石寺内で起こっていたとすれば、看過しがたい問題であろうと思います。