気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺64世、水谷日昇のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会大石寺から離れ、いわゆる弘安2年「戒壇本尊」(後世偽造説)を受持の対象から外しました。
現在の創価学会が根本としているのは、大石寺64世水谷日昇書写の本尊の模刻です。
これは創価学会の第2代会長、戸田城聖が昭和26年(1951年)5月12日、大石寺の水谷日昇氏に対して「創価学会常住の御本尊下賜」を願い出たことがきっかけで同年5月19日に書写されたものです。
池田大作会長時代、昭和40年代に池田氏の指示によりこの本尊の写真を撮って板に模刻し、昭和50年(1950年)1月1日、池田大作会長の導師で入仏式まで行いました。
このことが大石寺宗門から批判され、複数体の板本尊が本山に没収されますが、水谷日昇が書写した紙の本尊は傷みが激しかったことから、当時の大石寺66世細井日達が特別に許可をし、昭和52年(1977年)11月に日達本人が入仏開眼式を行いました。
このいわくつきの本尊が、現在の創価学会の常住本尊とされていまして、現在は信濃町の「広宣流布大誓堂」に安置されています。以下の画像は、創価学会の機関誌『大白蓮華』81号に掲載されたもので、当時はまだ板に模刻される前の紙の原本になります。

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ところで、この本尊を書写した水谷日昇という人物はどのような人物なのでしょうか。
私の知り得る情報の中で、なるべく主観が入らないように客観的に書いてみたいと思います。



大石寺64世の水谷日昇は、61世水谷日隆の「義弟」とされます。事実、Wikipediaで「日隆」を調べると日昇は日隆の「義弟」となっています。
「義弟」とはどういうことか。つまり水谷日隆と水谷日昇は本来の父親が異なっていまして、それが後に「水谷姓」で認知されたということです。

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水谷日隆(秀道)の父は、水谷慈秀といい、明治初年の頃、宮城県栗原郡宮野村の妙教寺の住職でした。
水谷慈秀は千田ソノという女性と関係を持ち、やがて彼女は妊娠します。ただ千田ソノはすでに別の男性と結婚していたため、二人は宮野村を離れることになります。そして明治7年8月10日に水谷秀道(後の日隆)が生まれます。生まれた場所は定かではありませんが、二人で転々と場所を変える中での出産であったようです。
その後、慈秀は日光に着き、宿屋の帳付けとして働き、妻となったソノは女中として働くこととなります。
ところが、しばらくするうちにソノが再び妊娠し、2番目の子を産むことになるのですが、青い目をしていて「ペルリ」と呼ばれるようになります。日光は外国人観光客が多く、その中でソノは関係を持ち、新たな子どもを授かったと言われています。この「ペルリ」こそ後の「水谷日昇」で、つまり水谷日隆と水谷日昇は実際の父親が異なる義兄弟の関係になります。
ペルリは日本名で「明」と名付けられますが、この子の扱いに関して夫婦間で議論が絶えなかったようです。やがて「水谷」籍に入れざるを得なくなるのですが、その後、水谷慈秀は息子の明を日光の宿屋から寺に小僧に出します。寺では「明」よりも「ペルリ」と呼ばれることが多かったと言われています。


水谷ペルリ明は栃木市下都賀郡豊田村字小薬の浄圓寺に小僧として出され、名を「秀円」と改めます。ちなみにこの栃木の浄圓寺は、現在の創価学会が授与している日寛本尊の原本があるところです。現在は日蓮正宗を脱退し、創価学会系として単立寺院になっています。
大正4年(1915年)12月2日、水谷秀円は正式に浄圓寺の住職になります。
この頃、水谷秀円は結婚していたようで、娘が生まれますが、その後、妻は家を出てしまいます。



この頃の水谷秀円には女性関係の話が絶えません。彼は昭和13年(1938年)に大石寺総監に就任するのですが、この頃、大石寺蓮成坊住職の川田利道の妻に会うために、蓮成坊に足繁く通い詰めるようになります。川田利道と妻との間にはそのため諍いも絶えなかったようです。住職の川田利道氏は急逝しますが、その後も水谷秀円は蓮成坊に通い続けます。当時の日蓮正宗では住職死去後、100日以内に妻子は寺を出る前例があったようですが、3年を過ぎても水谷秀円総監は彼女を囲って出そうとしなかったと言われます。



水谷秀円は義兄の水谷日隆の法主登座(昭和10年、1935年)後、兄の影響もあってか大石寺内で昇進し、総監の後、昭和17年(1942年)に兄の後を継いで東京・常泉寺の住職になります。
その後、大僧正になり、昭和22年(1947年)1月に大石寺第64世法主として水谷日昇は登座することとなります。先述しましたが「創価学会常住本尊」を戸田城聖の願い出から書写したのは、この4年後の昭和26年(1951年)のことになります。



ところが、その翌年の昭和27年(1952年)4月、創価学会の宗門に対する発言力を強める契機となった「狸祭り事件」が勃発します。「狸祭り事件」に関して詳しくは以下の記事を参照ください。



「狸祭り事件」


創価学会青年部から小笠原慈聞氏への示威行為」



この時の日蓮正宗側の法主こそ水谷日昇その人です。「狸祭り事件」での小笠原慈聞氏吊し上げに対し、水谷日昇並びに大石寺宗門は謝罪文提出、戸田城聖法華講大講頭罷免、登山停止という措置に出ます。



狸祭り事件から4年後、昭和31年(1956年)3月29日、水谷日昇は猊座を譲り、隠尊となります。この法主引退の経緯について溝口敦氏は次のように述べています。



「三十一年三月、大石寺では水谷日昇が退座し、堀米日淳が第六十五世法主になった。水谷日昇は池田[大作]の義父・白木薫次が大石寺大奥(大坊。法主が住み、宗務をとる)に勤めさせた女性と情を通じ、子までもうけたという。当時、水谷は夫人を亡くし、高齢ではあったものの『ネコにカツブシ』の状態だったと事情を知る元僧侶は語っている。このことを柏原ヤスが池田に知らせ、池田は『狸祭り事件』で、謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止の罰を戸田に課した水谷日昇に報復するため、この醜聞をもとに日昇に退座を迫ったとされる。
日昇は引退後、生まれた子を正式に認知したというが、創価学会による宗門支配の試みには、早くから謀略の臭いが漂う手法がとられていたことを知るのである。」
(溝口敦『池田大作「権力者」の構造』173ページ、講談社+α文庫、2005年)



水谷日昇は法主退座の翌年、昭和32年(1957年)10月14日に亡くなります。



池田大作の小説『人間革命』第2巻では「水谷日昇猊下の御登座は、戦後の宗門史にとって、重大な一大転機となった」とか、また「その淡麗な容貌と、清楚闊達なお姿は、新生日本の象徴とも言えた」等、歯の浮くような形容で絶賛しています。
しかし実際のところ、水谷日昇の実像はどうだったのかということです。果たして本当に彼は「清楚闊達なお姿」「新生日本の象徴」と言うべき人物であったのかという点をここでは問題提起しておきたいと思います。
現在の創価学会本部、信濃町の「広宣流布大誓堂」には、戸田城聖を登山停止措置とした張本人である大石寺第64世水谷日昇が書いた本尊が安置されています。


参考文献
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年
安永弁哲『板本尊偽作論 日蓮正宗創価学会の実態』多摩書房、1956年