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ところで、京都要法寺日辰の『祖師伝』には以下のような記述が存在します。
(日辰『祖師伝』富士宗学要集5-34ページ)
つまり大石寺側の言い分としては、日目が京都に天奏に行く前に日目から日道に相承がされたとしているのですが、日郷創建の小泉久遠寺側からは異議が示され、そもそも日目から日道への相承は存在しなかったとされています。
ところで、大石寺を出て保田妙本寺を創建することになる宰相阿闍梨日郷の直弟子に日睿(にちえい、「日叡」とも書く)という人物がいまして、この人が遺した『類聚記』に日目から日郷に相承があったことが書かれています。この正本は保田妙本寺に現存しています(冒頭画像を参照)。
「日蓮聖人御出世御本懐御法門、日目聖人御相承は、弘安五年正月一日也。日目上人より日郷御相伝は元弘元年十月一日也。亦日睿此御法門日郷上人より相続は、貞和元三七日午時、京都七条坊門にして相伝、御奏聞之時なり。建武二年六月中旬、大石寺御仏前にして相伝、先後二度」
この文書は弟子の日睿が日郷から聞き取ったことを書いて遺したものでして、奥付の日付が貞和5年(1349年)6月13日となっています。1349年と言えば日目滅後からわずか16年であり、当然のことながら日郷存命中の文書です。
この文書の奥には「四重興廃」や「迹門方便品読三義」など相伝の内容が克明に記録されていることがわかっています。
大石寺文書では嘉暦2年(1327年)に日目から日道に与えられた『與日道書』が存在しますが、内容は日道に土地を与えるというものでして、相承について書かれた文書ではありませんし、また元弘3年(正慶2年、1333年)10月に日目から日道に相承が与えられたとされる富士年表の記述より6年も前のことです。
(つづき)
「日目の『法命を継ぐ』日郷」