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さて昨日のブログ記事で「日目→日郷」の相承のことを記した日睿(日叡)の文書等を紹介しました。
「日目から日郷への相伝について」
「委細承海路之間無殊事云々。抑安房国者聖人御生国其上二親御墓候之間、我身も有度候へとも老体之間無其義候処、御辺居住候へは喜悦無極候。相構相構法門強可被立候。国人皆以聖人之御法門廃候由聞候。可被継法命候。恐々謹言。
五月二日
日目花押
進上 宰相阿闍梨御房」
読んでわかると思いますが、日目は「安房国者聖人御生国其上二親御墓候」と書き、安房への布教の重要性について深く認識していたと考えられます。日蓮もまた『別当御房御返事』(身延曽存)で「日蓮心ざす事は生処なり日本国よりも大切にをもひ候」(創価学会版御書901ページ)と書いており、日蓮が生まれた安房国への布教は日蓮と門弟たちの一つの悲願であったということです。
日郷が最終的に定めた布教拠点は吉浜でした。日目・日郷の理想を言えば、それは日蓮生誕の東条片海であったろうと考えられますが、日目もここで「国人皆以聖人之御法門廃候由聞候」と書くほどの状況からそれもできなかったということなのかと思います。
そして更に特筆されるべきは日目が日郷に対して「可被継法命候」と述べていることです。つまり日目は日郷を「法命を継ぐ者」として認識していたことになります。また末文には「進上」という語が見られますが、これは日興とこの日郷への書状にしか用いられない表現でして、日郷は大石寺を「退出」したどころか、日目の「法命を継ぐ者」として使命感に燃えて安房国布教に出たものと考えられます。またこの書状は年代が特定できませんが、日目自ら「老体」と述べているため、恐らくは日目晩年の書状であると推察できます。
ところが、日目から日道に相伝が授けられたという文書は存在していません。確かに『與日道書』という文書(大石寺蔵)はあるのですが、この書で日目が語っている内容は「田畑と上新田坊を日目から日道に譲る」というもの、そして上新田坊の講師職を日道に託すというものです。
"日道と日郷の間に論争があり、結果として日郷が大石寺を退出した"というのは、後世に作られた伝説以上のものではなく、史料から客観的にみれば日郷と日目は日蓮生誕の安房国布教に相当の使命感を持っていたことは明白です。そしてそのことに関して日目は日郷を「可被継法命候」とまで述べており、日郷は日目から安房国布教を託されて、保田妙本寺を創建したということになろうかと思います。