いつもみなさん、ありがとうございます。
さて、私は「創価学会仏」の前提として主師親の三徳の再解釈が「平和・文化・教育」であるとして、こんな記事を書いたことがあります。
「平和・文化・教育の団体」
一年以上も前の記事ですが、創価学会が「主師親の三徳」を「平和・文化・教育」と捉え直そうとしていたことは、すでに90年代から私は学生部の幹部やらいろんな方から伝え聞いていたものです。
創価大学の山岡政紀氏はこんな記事も書いています。
山岡政紀「主師親の三徳の現代的意義」
最近の創価学会の教義の傾向なのですが、大石寺から離れて以降、独自に日蓮の文字一字一句を厳密に読むという考え方から離れて、次第に宗教的多元主義を認めて、日蓮思想からより普遍性のあるものをうまく融合させようとしているように感じられます。
「……現在の日本社会を考えると、日蓮系法華系の諸派は日本全体の宗教としても何分の一でしかない。ほかの宗派もあるし、キリスト教もイスラム教も、さまざまな宗教が入ってきている。そのようにグローバル化した社会になりつつある。現代日本は宗教的に多様な社会となったし、宗教的多元主義の社会にすでになっているのです。そのような現実をきちんと踏まえた上で、信仰していく必要がある。『ともかく宗祖の言うとおりにやればいいのだ』、『こう記されているから、その通りに戒壇を建てよう』、『やはり国立戒壇だ』などと言っているようでは、私は、日蓮系・法華系は、今後の発展性はないだろうと考えています。そのような意味で、私は創価学会に対しても厳しいことを言うべき時は言います。」
わかりやすく言ってしまえば、日蓮の教義の中で無効なものもあるから、それについては用いないで、より普遍性のあるものを取り上げ、現実にきちんとマッチした教義として日蓮を再認識していこうと言うことかと思います。
この発言に対して花野充道氏は日蓮の例えば「四箇格言はもうダメか」という質問をし、中野氏は「そうですね」と答えています。このことに花野氏は「日蓮聖人の思想をどこまで非日蓮化してよいのかという問題は慎重に考えるべき」と答えました。
この辺の両者の齟齬が、いわゆる日蓮系教団と創価学会の大きな齟齬という感じが私などはしてしまいます。つまり中野毅氏や山岡政紀氏に見られる日蓮解釈は「日蓮で無効な部分はどんどん見直して変えていけばよいのだ」という、非常に短絡的な発想に基づいているように思います。宮田幸一氏もまた然りで、日蓮真蹟が存在しなくても日興門流で考えられていた解釈なら積極的に一つの日蓮像として採用しようとする態度です。
創価学会は一宗教法人ですから、何をどう考えても別に自由ですが、二つの点で問題があると思います。
一つは日蓮真蹟に依拠することをやめ、実像を追う努力を事実上自ら放棄してしまっていることです。
日蓮を現代的に再解釈することは大切ですが、そのためには事実として史実として日蓮が何を考え、何をしようとしたのかを確定することなくして、その再解釈もあり得ないと思う故です。史実の確定なくしては、その実像の再解釈もあり得るはずもないと思います。
二つ目は、創価学会が過去にやってきたことへの総括と反省です。創価学会が今後日蓮から離れて、独自の普遍性のある教団を目指すことはなんら構わないのですが、それなら過去に日蓮の興門流的な解釈に固執し、戒壇思想に固執したこと。そして誤った過去を率直に認め、反省して、宗教界にきちんと謝罪をした上で、あらたな宗教間対話をする、その環境を整えるべきかと思います。自分たちがやってきたことは所詮大石寺教義の在家主義的な解釈でしたから、それがどの部分が無効なのか、またそれによって否定されてきた教団に対してどのように反省や謝罪の意を示すのか、その点について中野毅氏だけでなく、創価学会の今後の教義を策定しようと考える人たちはきちんと創価学会本体に厳しく発言して頂きたいと私は思います。