気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

わかりやすく書くこと。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
さて最近、改めて中村元訳の『真理のことば』(ダンマパダ)のあとがきを読んでいた時に、はっとさせられた一節がありました。
 
 
 
中村元氏はブッダの『ダンマパダ』を岩波文庫版で訳す際にこんなことを述べています。
 
 
「『ダンマパダ』の原文は極めて簡単明瞭である。その簡潔な風格を邦語によって表現したいと思った。
アジア諸国の人々は、この『ダンマパダ』の文章を唱えるが、それを聞いた人々は聞いただけで解るのである。だから、この邦訳も、耳で聞いただけでも解るような文章に訳出したつもりである。
わたくしが先年『スッタニパータ』を岩波文庫で邦訳したときに、その訳文が聖典としての荘重さが無い、という批評があった。しかし『聖典としての荘重さ』なるものは漢訳を用いたシナ・日本において教団としての権威が確立したのちに必要となったものであり、インドや南アジア諸国ではそれを目指していなかった。ただ人間の真理を端的に述べていただけである。だから、わたくしはこの書の原意を表現することにつとめたつもりである。」
(『ブッダの真理のことば・感興のことば』あとがき、岩波文庫版、374ページ)
 
 
 
確かに漢訳経典などを口唱した際に沸き起こる何とも言えない荘重さを私は理解できるつもりですし、漢訳経典のリズムの持つ厳粛な雰囲気は感じることができます。
しかしながら、中村元氏は『スッタニパータ』や『ダンマパダ』等の初期パーリ語仏典を訳出する際に、本来の仏典の「わかりやすさ」を重視し、それを表現することを優先させたというのはとても興味深いですし、またそれが本来の釈迦の本意だったのではないかと思います。
 
 
どんなことを考えても、どんなことを書いても、誰が何を言おうと私は自由だと思いますが、少なくとも私は「気楽に」「非活らしく」「わかりやすい」文章を書いていきたいです。
時々難解で自分勝手な文章を書いてしまうことの反省と自戒もこめつつ、わかりやすく書くことこそ釈迦の本意であることを確かめておきたいと思いました。