気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮における国家と宗教。






いつもみなさん、ありがとうございます。


さて以前ブログにも書きましたように、日蓮には民衆と交流した形跡が遺文中に見られないことから、日蓮を民衆仏法と定義するのは史実と甚だ相違すると私は考えています。


日蓮は民衆仏法ではない」


むろん『守護国家論』や『立正安国論』執筆の動機は正嘉の大地震による民衆の苦しむ惨状であったはずです。
日蓮は民の苦しむ惨状の原因を国家の持つ宗教と考えたことは多くの方が指摘されている通りです。そこで日蓮は宿屋入道を通じて最明寺時頼に『立正安国論』を提出します。
日蓮は公上対決をもって善悪を決したいと考えていました。そしてその決断を国主たる北条時頼に迫ったんですね。
日蓮の手法は一貫しています。すなわち自身は出家の身故に「覚徳比丘」の立場であり、北条時頼は在家故に「有徳王」の立場なんですね。



つまり日蓮は出家者ですから「法華経の敵」である僧侶たちを処罰する「折伏」行為はできない立場にあります。したがって日蓮自身はあくまで「摂受」の立場で法の正邪を為政者に諫言し、国主を動かして「折伏」を現じさせ、もって法華経を根本とした平和楽土を建設しようとしたんですね。



これは普通の人にはできないことでしょう。その意味で日蓮自身が民を救う情熱に溢れていたと言うことは可能かもしれません。
けれど私が着目しているのは、あくまで民を救う方法論が日蓮にあっては国家でしかなかったという点なのです。



日蓮在世中に結成された「大師講」は武家とその女房たちの組織です。天台智顗の命日に講を開き、弟子たちには図をもって教判を示しました。相手は文字の読めるものたちであり、日蓮は民衆など相手にしていません。日蓮自身が農民百姓などの最下層の民衆と交流していた形跡は遺文中に少しも見ることはできません。



今、必要な理解は、日蓮自身が民の救済のために国家の宗教を法華経とすることによって平和楽土を建設しようとしたこと、そして日蓮の方法論があくまで国家の法華経への帰伏にあったということです。
この日蓮の国家観は近代の国柱会や田中智学らに引き継がれ、国立戒壇として理解されました。


創価学会は昭和40年代に入り「民衆立の戒壇」ということを言い出します。それならそれでも別に構わないのですけど、それなら日蓮思想の時代的な制約や限界について率直に認め、その上で日蓮思想を補完するという名目で創価学会が独自に民衆仏法みたいなものを考えればよいのです。それをあたかも日蓮の思想中に「民衆仏法」のエレメントが最初から存在したかのように語るのは所詮欺瞞であり、自分たちの教義のために上手に日蓮を利用している浅ましい姿としか私の目には映じません。


素直に日蓮遺文を読めば、それは否が応でも必然的に国立戒壇のような思想になります。それこそが日蓮が目指した平和社会の理想の姿であり、その日蓮の方法論の誤りにきちんと目を向けて批判すべきは批判すべきなのだと私は思います。