気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

批判を受容する人、受容できない人。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私がここで日蓮正宗創価学会といった大石寺系教団の矛盾点を取り上げ、批判するのは自身のかつての信仰姿勢の反省でもあります。
口汚い誹謗中傷は否定されるべきですが、根拠のある批判は自由であるべきです。
ブログ記事について、読者から多く評価して頂いており、ありがたい限りですが、一部の誤りについては「X」旧TwitterのポストやDM、またメール等でご指摘頂き、一部は訂正し、自身の見解も改めたものも存在します。
このブログを開設したのは2016年で、もう8年目に入るくらい長く書かせて頂いていますが、その中で私の見解も少しずつ変化してきています。多岐に渡り煩瑣になるため、ここでは一つ一つを書き出すことをしませんが、日蓮における神道の影響、完器講の己心本尊説の見解等、少しずつ私は批判を受容し、いろんなことが見えてくるようになりました。
 
 
そして私が批判しているのは、自分たちの教団の正統性ばかりを主張して他宗派を根拠なく排撃する、一部の大石寺系教団信者の原理主義的・無謬主義的な姿勢なのです。
良心的な私のブログ読者の中には、創価学会日蓮正宗の教団改革を願い、教団内部に非活や未活として留まりつつ、私のブログを好意的に読んでくださる方も少なからず存在します。
その中には「気楽非活さんを決して認めるのではありませんが、気楽非活さんのブログを真摯に読まずに誹謗中傷して否定するだけの幹部たちは間違っています」とご意見をくださった方もあります。本当にありがとうございます。
 
私は、たとえ批判を受容しても、その信仰を続けるか否かは個人の判断、個人の自由であると考えます。事実、私のブログ読者にはそのような方が少なからずいらっしゃいます。
 
最大の問題は批判に対して真摯に受け止めることができず、屁理屈をつけて論点を逸らし、こちらに悪印象を与えるだけの原理主義的な狂信者が創価大石寺系教団内にまだ存在するということです。
彼らは自分たちが正統だと信じ込んでいます。そして批判を受容したら「負け」だと思っています。そんな筈はありません。
 
私は経文や日蓮真蹟、書かれたもの、確実な史料から批判をします。残された記録、史料の存在は否定することができないのです。私の方法は「動かせない史実や史料から教義的な矛盾を確定すること」です。そして「動かせない史実」を認めて受容しても、それは信仰の「負け」ではありません。
それらの批判を受容し、自身の信仰を深め考える一契機とすることこそが、真の信仰者の姿勢であると考えます。その思索の結果として教団に留まり、教団改革を内部から行うのも自由です。また退会したり、離檀・離宗するのも自由です。日本国憲法下で信教の自由は保障されています。
 
そして批判することも自由です。
私はこれからも自身の検証として、大いにブログを書いていきたいです。読者の方の声が今では私の支えになっていることが不思議です。
改めて感謝の思いを伝えたいと思います。読んでくださる方、本当にありがとうございます。
読んで反発される方に伝えたいことがあるとするなら、かつての私もそうだったのです。私もまた教団への批判を素直に受け止められない者だったのです。
しかし事実は事実です。書かれたものは否定できません。現実を受け止めてどう生きるのか、それとも事実を受け止められず、宗教的なフェティシズムの盲信を選ぶのかが問われているのかと思います。