気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

現実に生きること、真摯に学ぶこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、Twitter界隈では最近久しぶりに珍しく創価学会の活動家さんと思しき方から「嘘つき」「バカ」呼ばわりされ、散々絡まれてしまいました。その挙句、「具体的に何が嘘か述べてください」と繰り返し問い詰めると、あっという間に向こうからブロックをかけて逃げるという醜態を晒していました。



まあ、何でもいいんですけど、こんなTwitterみたいなSNSの世界で創価学会の正統性を述べていても何にもなりませんから、活動家でしたらいっぺん現実に戻って、布教の現場で頑張ってみたらいかがかなぁと思います。
先日の聖教新聞(R3.11.25)の「寸鉄」には、「御書P1099『面にあらずば申し尽くしがたし』。直接会えば心が通う。団結の要」と書かれていましたよね。そうやって書いてあるのに、聖教新聞に書いてある通りの活動をしていないとはどういうことなんでしょうね。



私はかつて創価学会大石寺の活動家でしたから、活動家さんの気持ちはよくわかります。今は創価学会日蓮正宗大石寺の欺瞞性がよくわかりましたので、退会してどちらの組織からも離れました。心は爽やかなものです。



以前、ブログでも書き、また読者から質問されたことでもありますが、「ここのブログに書いてある事実はいつから知っていたのか」と言う点で言えば、私は活動家の頃から知っていました。
ただ活動家で、当時それなりの幹部になり、組織を動揺させてはいけないと思い、大きな声では言わないことにしていました。
そして両親が亡くなり、知ることになった事実が一定の総量を超えた時に、私は創価学会から一歩距離を置くようになりました。
つまり事実の総量なのです。



Twitterで書いたことですが、私は創価学会日蓮正宗の信徒が教団の現実を知った後も、それらの信仰を続けるというのは自由であると考えています。思想信条はどこまでも自由であるべきです。
私が問題視するのは、信仰上で信じていたいドグマや妄説を信じるあまり、実際の事実や史料を真摯に認めようとしない、原理主義的な態度の方なのです。
事実を認めた上で、それが正されるべきなら正していく姿勢を持つべきでしょう。
しかし史料を見せつけられて現実を見ただけで、信仰が揺らいでしまうなら、その信仰は非常に危ういものだと思います。



だからこそ教学を持たなければならない。教団や周囲に流されないために、教学を学ぶべきなのです。それをさせずに来たのが創価学会日蓮正宗です。
事実を認めること、そして真摯に学ぶことが、事実に蓋をせず受け入れること、その総量が一定量を超過した時、初めて信仰者の質が試されるのだと私は思います。