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さて今回は『日興遺誡置文」(『二十六箇条』)についてです。
かつての創価学会は、この『二十六箇条』をよく引用して大石寺批判をしたものです。例えば「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」という文を引用し、大石寺の当時の法主であった阿部日顕を批判していました。
以前のブログ記事でも書いたように、この『日興遺誡置文』は、実は後世の偽作の可能性が高いと考えられます。
「日興遺誡置文のこと」
例えば次のような文があります。
「器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。」
(創価学会版御書全集1617ページ)
「学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。」
(同1618ページ)
「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。」
(同ページ)
『日興遺誡置文』には、真摯に教学を研鑽し、より知識が優れているものを尊敬すべきだと書かれています。それなのになぜ創価学会ではかつての教学部陣を窓際に追いやり、教学を軽視してきたのでしょうか。学ぶ者を大切にしない組織こそまさに創価学会と大石寺なのではないでしょうか。
「巧於難問答の行者に於ては、先師の如く賞翫す可き事」
(同ページ)
問答の巧みな者については、先師のように称賛すべきことが書かれています。それなのに、なぜ日蓮正宗の信徒たちは返答に詰まると、一方的にブロックして逃げるだけなのでしょうか。『日興遺誡置文』には「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」(同1619ページ)と書かれている筈です。
後世の偽書を真作として扱うのは教団の自由ですけど、それならせめて真剣に研鑽して、言行不一致にならないようにしてもらいたいものです。