いつもみなさん、ありがとうございます。
人が何を信ずるのも自由なのですが、私は検証に耐え得るものを信仰として考えたいと思っているだけなんですね。理性や文献的考証に耐え得ない信仰ならそれらは否定・更新されるべきかと思います。
人が何を信じても自由ですが、要するに「信ずるに足る」ものを信じたいということなのではないでしょうか。
そしてその「信ずるに足る」根拠が薄弱であることに気づいたら、その誤りについてはきちんと正すことが大切であると考えています。
また「弘安2年の戒壇本尊に繋がらなければ功徳はない」とまで言ってきました。
所詮それらは教団の教義の受け売りでしかなかったのですが、私自身がそのように他宗批判をしてきた自身の責任が回避し得るとは考えていません。
私はどんな信仰も否定しませんが、他の信仰者を悪し様に罵って自分たちの信仰だけを正義とする、独善的な態度は批判されて然るべきだと考えます。
私は「信ずるに足る」と人が信ずるものであれば、どんな信仰も尊重したいと思いますし、またその人自身が信仰の態度を改めて理性や文献的根拠に基づいて宗派を変えたり、信仰の対象を更新することはなんら問題ないと考えています。
「それは信ずるに足るのか」を検証するのは自由です。
そして「信ずるに足らない」と判断したら信仰の態度を改めるのも自由です。
信仰の態度を保留するのも自由です。
さらに思索を深めるのも自由です。
そして最終的に自身が選び取った信仰なのですから、その責任は自分自身に帰するということかと私は思います。