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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『富木殿御返事』にみる富木常忍と日蓮。


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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は中尾堯氏による日蓮紙背文書の研究を読んで、少し思ったことを要約してみたいと思います。



日蓮遺文紙背文書については以下の記事をご覧くださいませ。


ところで、中山法華経寺に現存する『天台肝要文』は全部で47枚から成る日蓮真蹟ですが、そのうち42枚の裏面に全く別の書状が使われています。これらは千葉介頼胤の被官で文書官僚だった富木常忍が、保存期間の終わった文書について、丁寧に裏処理を施した後に日蓮の執筆のために提供したものであると考えられています。



これら『天台肝要文』における紙背文書なのですが、これら紙背文書の中で一枚だけ28枚目に日蓮から富木常忍に宛てられた書状が裏紙になっていることが明治後期になって発見されました。


この『富木殿御返事』(冒頭画像)の全文を中尾堯氏の訓読で引用してみます。


「悦びて御殿人給わりて候。昼は見苦しう候えば、夜参り候わんと存じ候。夕去り鳥の時ばかりに給ぶべく候。又、御渡り候て、法門をも御談義あるべく候。
十二月九日
とき殿」


本文の意味を中尾氏の通解からとれば以下のようになります。


富木常忍日蓮を迎えるべく、供の人をわざわざ遣わしてきたことを、まず喜んでいます。ただ昼間に出歩くことは人目もあることなので避け、夕方暗くなってから参上いたしたく、その時に改めて供の者を迎えに来させてください。またこちらの方へ出向いて、仏法のことなどを話し合いましょう。」



迎えの者に口頭で伝えれば良いような内容を日蓮は折紙の書状にさらりと認め、使いの者に渡したことがわかります。


中尾氏はこの書状の執筆年代について、末尾の「とき殿」という記述と、紙背文書の富木常忍の宛名の書き方を対照し、建長5年12月9日のものであるとしています。



さてこの『富木殿御返事』の執筆が建長5年の立教開宗の年のものであると考えると、どういうことが考えられるでしょう。



多くの方もご存知のように、日蓮は建長5年4月28日、清澄寺の道善房持仏堂の前で立教開宗・浄土宗批判を行い、結果として地頭である東条景信らの圧力により清澄寺を退出するに至ります。このことは関東地方に浄土宗の勢力が強かったことを推察させます。日蓮が書状で「昼は見苦しく」と書き、明るい時間帯の行動を憚ったのはこのためでしょう。


中尾氏の推察をそのまま引用してみたいと思います。


富木常忍下総国八幡庄若宮(現在千葉県市川市)の館に住み、朝な夕なに主君千葉介頼胤の許に参勤していたことは、日蓮の遺文などによってよく窺われるところである。常忍の居住する館は現在は中山法華経寺の奥院あたりで、千葉介の守護所はかつて国府があった市川市国府台であったと思われ、この二つの場所は距離的に見て馬に乗って通勤にほどよい場所に位置している。守護の被官として敏腕を振った富木常忍は、管轄下の諸地方から届く書状を処理した後、その文書を反古紙として役立てるべく役所に集積していた。このような毎日を送っていた富木常忍は、建長五年十二月十九日の昼、にわかに日蓮を守護所に招いて法門を聴聞して安心を得たいものと、供の者を遣わした。やがて使いの者が『富木殿御返事』をもたらしたので、かれはこれを一読の後に、慣習に従って守護所の文書箱の中に置いたのだろう。後にこれらの書類を廃棄して冊子本に仕立てる時、反古紙の中にこの書状が混入したままで加工されたのである。」



ところで中尾氏もこの考察の中で述べていることですが、この推察が正しいと仮定すると、日蓮の足跡が少し変わってきます。日蓮は建長5年立教開宗の後、清澄寺を退出し、鎌倉に移って松葉谷に草庵を構えたと考えられていますが、清澄寺を出た後、八幡庄若宮を経由してから鎌倉に向かったことが可能性として考えられるでしょう。そしてその過程の中で富木常忍や太田乗明ら下総国に在住する武士たちが檀越となったのは、鎌倉のことなのではなく、下総国でのことであったのかと思います。



参考文献:
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年。