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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

遺文紙背文書に見る庶民生活の実態。





いつもみなさん、ありがとうございます。
今日のテーマは「日蓮遺文紙背文書」についてです。




千葉の中山法華経寺には数多くの日蓮の真蹟が保管され、現存していますが、この日蓮の自筆文書の裏面に多くの文書が書かれていることが昭和37年に知られるようになります。


当時、紙は大変に貴重品であり、富木常忍は仕事で使った文書のうち、特に保管する必要がない反故紙について、日蓮の執筆のために提供したと考えられています。富木常忍は千葉介頼胤に仕えた家臣で、主に文書官僚でした。



その結果、偶然にも130通に及ぶ歴史的な史料が残ることになりました。これらは総称して「日蓮遺文紙背文書」と呼ばれます。



これらの紙背文書は、下総国守護千葉介を中心とし、それを取り巻く全国の所領内住人や家臣との往復文書であり、当時の社会情勢を知ることのできる、大変貴重な史料です。



紙背文書の中には「法橋長専」なる人物が富木常忍に与えた文書が数多く残されており、この人物が千葉氏の鎌倉屋敷に住み込んでおり、鎌倉幕府との折衝役を勤めていたことがわかっています。幕府から千葉氏に下る命令に対し、どう処理するかについて長専が心を砕いていることが伺われます。



幕府から千葉介に賦課された負担はその多くが、千葉一族や家臣、また彼らの居住する地域社会へ転嫁されることになります。紙背文書の中には富木常忍宛の手紙があり、その中で幕府御所で働く女性の衣装の費用が転嫁されたが、度々の富木常忍からの催促にも関わらず、それを払えない理由として旱魃と水害で田が荒れ果ててしまっていることが述べられています。


また紙背文書からは過酷な庶民の生活実態を看取することができます。文永6年とされる紙背文書によりますと、年貢を納められなかった人物が、自分の兄の娘を質に入れ、借金で負担し、それでも払えなかったので、その娘自身が売り飛ばされてしまったことなどが書かれています。書状はその窮状を富木常忍に訴えたものなのですが、当時の民衆の実態として人身売買が横行していたことがわかります。当然その背景には自然災害や飢饉があったことは想像に難くありません。



鎌倉時代は流通や交易が発展した時代でもありましたが、同時に奴隷や打ち捨てられた人たちが多く生まれた時代でもあったと考えられます。社会の発展が地域社会の生活向上には寄与しなかったと言えるでしょう。



日蓮もまたこうした現実を見て知っていたと思います。日蓮の方法は『立正安国論』を幕府に提出し、日蓮法華経を用いるように諌めることです。日蓮が民衆のために何か具体的に行ったような記述は遺文には少しも見られません。



仮にもし幕府が『立正安国論』を認め、日蓮が幕府に受け入れられたとしたら、その時は日蓮を何をしたでしょう?
私が推測するのは、国家の安寧を願って祈祷調伏をする日蓮の姿です。特になんらかの具体策があったとは私には思えません。日蓮は民衆を組織したこともありませんし、具体的な施設を作ったこともありません。






追記:
富木常忍は千葉介頼胤の家臣で文書官僚の執務に携わり、文書保管のノウハウ等を持っていたことは間違いなく、この点について文書保管の体制については日蓮と意見を一にしていたことは以前ブログでも書きました。


富木常忍と文書の管理体制」


参考文献:
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年。