気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『本因妙抄』本文の改竄。

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(上の画像は日亨編『富士宗学要集』第1巻に掲載された大石寺6世日時による『本因妙抄』の写本です)





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は以前「日蓮本仏論について」という記事の中でも書いたことですが、『本因妙抄』の大石寺の改竄についてです。



多くの法華講さん、また創価学会員さんならご存知のことですが、大石寺では『本因妙抄』を『百六箇抄』と並んで、両巻血脈抄と称して大石寺に伝わる相伝だと主張しています。


さて『本因妙抄』には以下のような記述があります。


「予が外用の師伝教大師生歳四十二歳の御時、仏立寺の大和尚に値ひ奉り、義道を落居し生死一大事の秘法を決し給ふ。曰く、大唐貞元二十一年太歳乙酉五月三日、三大章疏を伝へ各七面七重の口決を以って治定し給えり。」
創価学会版御書全集、807ページ)


「大唐貞元二十一年」は西暦805年に当たりますが、これは本文の改竄です。


冒頭の画像をよく見比べて頂きたいのですが、ここの実際の日時写本は「大唐貞元二十四年(廾四年)」となっているのがわかるかと思います(画像本文の3行目下です)。また『三大章疏七面相承弘決』でも伝教は「大唐貞元二十四年」(西暦808年)に唐で相伝を受けたことになっているんですね。


この記述は学会版御書で「貞元二十一年」で、更には『富士宗学要集』第1巻でも同様「二十一年」となっています。つまり冒頭の画像を見比べれば一目瞭然で、大石寺はこの「二十四年」を「二十一年」に改竄しているんです。




なぜこのような改竄が行われたかというと理由は簡単で、実は実際の史実と記述が異なってしまうからなんです。
例えば『報恩抄』には以下のような記述が存在します。


延暦二十三年七月御入唐西明寺の道邃和尚仏滝寺の行満等に値い奉りて止観円頓の大戒を伝受し霊感寺の順暁和尚に値い奉りて真言相伝し同延暦二十四年六月に帰朝して」
(同304ページ)


延暦23〜24年は西暦にすると804〜805年にあたります。
『報恩抄』の記述によれば、伝教大師最澄は西暦805年に日本に帰ってきていることになります。これは「伝教大師伝」の記述とも一致します。
そうであれば「808年に唐で相伝を受けた」とする『本因妙抄』の記述は矛盾になってしまうんですね。そのため、大石寺ではこの記述をあえて改竄したと考えられます。


これが改竄である証拠はもう明快ですよね。上述の日時の写本では「二十四年」(廾四年)と書いてあるんですから(笑)。



これがもし仮に「大唐貞元二十一年」が事実であるとするなら伝教大師の年齢は「四十二歳」ではなく「三十九歳」でなければならないはずですし、干支も「乙酉」ではなく「壬午」でなければおかしいはずです。それがそのままになっているのは、改竄としては若干お粗末な印象を受けます。尻尾の見える猿芝居でしょう。


というわけで、『本因妙抄』もまた単なる偽書に過ぎないと私は思います。








戸田の個人授業。





みなさん、いつもありがとうございます。
たくさんのアクセスや応援メッセージを頂き、いつも感謝しています。


さて、今日は戸田城聖氏から池田氏にされたと言われる"個人教授"の件についてです。


創価学会の活動家さんなら多くはご存知のことですが、昭和24年秋頃、池田大作氏は戸田の事業失敗からその債務に追われて困窮の度を強めていました。その結果、池田は通っていた大世学院(後の富士短期大学)を中退することになります。これについて池田氏も「体が悪かったのも中退の原因でしたが、本当のところ、戸田先生がやめろ、といわれたんです。"おれが教えてやるから十分だ"というのです」と語っています(央忠邦『日本の潮流』)。


これ以降、池田氏は戸田から個人教授を受けたとされています。当初は毎週日曜でしたが、後に毎朝30分〜1時間ずつの授業になります。
この時の教材は以下のようなものだったようです(草柳大蔵「"手づくり人間"池田大作」『文藝春秋』昭和44年9月号)。


矢田俊隆『世界史』
熊谷幸次郎『日本史ー概説と問題点』
鵜飼信成『憲法
高田保馬『経済学原理』
ガモフ全集


戸田氏がこの教材を全て使ったのかどうかはわかりませんが、これらの本が教科書代わりに使われて授業がされていたようです。



ところで、この話、戸田と池田の二人だけの個人教授かと思っていたのですが、実はそうではないようです。
秋谷栄之助は昭和26年の入信ですが(当時は秋谷城栄)、池田とともにこの受講者の一人でした。事実、秋谷氏は「(八時半から)九時までの三十分、かならず博学の戸田会長から雑談風の講義を聞いた。池田現会長も仲間であった」と語っています(『文芸朝日』昭和38年8月号)。



以上から推察して、実態として毎朝30分から1時間程度の雑談風の講義を、教科書風の本を題材としつつ、戸田が行い、受講者は少なくとも池田と秋谷の二人がいたということでしょう。




参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年。





八品派と細草檀林。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて本ブログで最近『御義口伝』の信頼性の低さを何度となく指摘してきました。


大石寺写本『御義口伝』の改竄」


ところで、以前から奇妙なことだと思っていたのですが、この『御義口伝』の伝えられる最古の写本は実は興門流のものではありません。
『御義口伝』最古の写本は天文8年(1539年、祖滅257年)5月14日、八品派日経によるものです。
これより以前の『御義口伝』の記録は私には見出せません。大石寺に伝わる写本は元亀2年(1571年)で、日経本より30年以上後代のものになります。



ところで、歴史上、大石寺の教義形成にあって、八品派の影響は否定できないところがあります。
その事実を示すのが「細草檀林」の存在です。


細草檀林は寛永18年(1641年)、八品派日隆門流と日興門流の学問所として設立されたものです。



『富士宗学要宗』8巻「細草檀林」の項で、編者の堀日亨は次のように述べています。




「此は隆門と興門との合同であつて林地は土地の八品の住本寺屋敷と市東内山等の村民の寄進に依り、経営は富士門なる法詔寺大石寺末の顕寿院日感此に当り大檀那蜂須賀敬台院を動かし物資の供給を受けて成れるもの、能化には鷲山の智泉院日達を請し、内部の庶務は伝了日崇後の信入院の手腕に待ちしものにて、資本家側の大石寺は始めには振はず松園日俊後の大石廿二世が漸く八代目の能化として本法院として出でしなり」
(『富士宗学要集』8巻267ページ)



つまり「細草檀林」は、大石寺の大檀那、敬台院がスポンサーになり、土地と講師は当初は八品派から提供されて設立されたことがわかるかと思います。


元来「日蓮正宗」という宗派は存在していません。大石寺は他の興門流の本山と並んで存在するただの一寺院に過ぎませんでした。
そして興門流と八品派とはともに教義的には勝劣派になります。その意味では相性が良い。


ですから大石寺の教義の形成は、17世紀以降、八品派の影響を受けたことが容易に推察できます。

そう考える時『御義口伝』の最古の写本が八品派のものである理由がなんとなくわかる気がします。八品派のどこかに伝えられていた『御義口伝』が、細草檀林を経由して大石寺流入した可能性も私は大いにあると考えています。




公明党の衰退





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回、衆議院選挙があり、公明党小選挙区・神奈川6区で落選。比例区ではなんと700万票を割り込んで697万という、久しぶりの敗北を喫しました。



かつて御大・池田名誉会長は目標を「1000万達成」と定め、戸田会長が「1000万人が信心する時代になったらすごいことになるぞ」と言ったということを仕切りに繰り返し、強調していました。現場の私たち活動家たちもその言葉を聞き「比例区全国1000万」を合言葉に戦ってきたものです。


ところが、豈図らんや、創価学会は都合が悪くなると過去の発言をなかったことにするのが得意技なのですが、池田氏もそうなのでしょうか。ことの是非はともかくとしても、現場では一切「1000万」という言葉は使われなくなります。


今回もう一度、公明党比例区の得票数の推移を載せてみましょう。


2003衆議院:約873万
2004参議院:約862万
2005衆議院:約898万 (郵政解散)
2007参議院:約776万
2009衆議院:約805万 (政権交代)
2010参議院:約763万
2012衆議院:約711万 (与党復帰)
2014衆議院:約731万
2016参議院:約757万
2017衆議院:約697万


いい加減活動家の方は気づいた方がよいかと思いますが、創価学会はもうこれ以上発展はしません。数十年後には少なくとも日本の創価学会組織は間違いなく崩壊します。未来部も青年部も現場幹部を支える数にまで増えず(2013年に小学校1年生になった全国の未来部員の数はすでに統監で1万人を割っています)、静かに緩慢な衰退と死を待つだけの状態です。いずれ壮年と婦人部の地区幹部さえも75歳以上の高齢者をあてがわなければ人が足りなくなります。現状ですでに後期高齢者の白ゆり長なんて普通に登用されているはずです。みなさんの周りを見渡してください。すでに後継の人材は枯渇してしまったのです。


「人材育成の失敗と総括」

「未来部に未来はない」


今回の衆議院の敗北は組織の衰退と高齢化を如実に表していると思います。組織票としてまだ足腰が残っていますが、いずれそれは消えていきます。大阪は以前から投票率が全国平均より低く、相対的に創価学会の組織票が強いという状況がありますが、それも時間の問題です。








日目の墓のこと。





いつもありがとうございます。


さて日目といえば、宗祖日蓮、第2祖開山日興につぐ、大石寺の第3祖になります。
ところで日目の墓ってどこにあるのでしょう。



大石寺の説明ですと、日目の御廟所は下之坊御廟所であるとしていますが、下之坊御廟所は後世に創建されたものであり、日目が埋葬されたとされる記録は存在しません。



実は日目の墓は鳥辺山延年寺に存在します。
日目は京都への天奏の途上、美濃の垂井で元弘3年(1333年)に亡くなりますが、その後、遺骨を持ち帰った日郷と日尊が京都東山の鳥辺野の延年寺に埋葬したとされます。


その証拠として、延年寺に対し、日郷並びに日郷門下の日叡等が日目の御廟所としての土地を四度にわたり買い求めていまして、その売券が記録として残されています(富士宗学要集8-69〜71ページ)。


日亨氏の『富士宗学要集』8巻での売券の記録を時系列に書き出すと以下のようになります。

1、暦応3年(1341年)7月15日、日郷
2、康永3年(1344年)2月28日、日叡
3、貞和3年(1347年)7月18日、日郷
4、貞治4年(1365年)3月15日、日伝


日亨もこのことをきちんと書いて記してあります。


「延年寺墓地売券、祖滅五十九年、目師垂井に御帰寂後八年に郷師始めて京都東山延年寺大墓域の一小部分を買得して御遺骨を葬るを得しも、地域頗る狭小なるを以つて追々に買収して拡張したるなり」
(同69〜70ページ)


日目の御遺骨を分骨にして大石寺に持ち帰ったとか、そんな記録はどこにも存在しません。
したがって大石寺には日目の墓すら存在しないということになります。



無量義経は偽経である。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて以前、私は『無量義経』が偽経の疑いが強いことを述べました。


無量義経への疑念」


以下に主に6点にわたり、『無量義経』が偽経であると考えられる理由を書いてみます。


1、『無量義経』の訳者とされる曇摩伽陀耶舎なる人物は中天竺沙門と伝えられるだけで、その他伝記が一切不明。また曇摩伽陀耶舎が『無量義経』以外にどんな経典を訳したのかも全く伝わっていない。

2、仏典中、他の経典に類例のない「菩提樹下端座六年」の記述が見られること。

3、初説四諦、中説十二因縁、次説方等という三時配当は、後世の教判者の説であり、矛盾すること。

4、内容が『法華経』の内容を再録したような印象があること。

5、大通3年(529年)没の法雲の『法華経義記』中でも『無量義経』を真説として認めていないこと。

6、法華経序品第一に説かれる「大乗経名無量義教菩薩法仏所護念」の訳語「無量義」の原語 Maha-nir-desa は「無量に分別されるもの」を意味していて、文脈に即せば、これは「無量義経を説いた」のではなく「教と理とは一実相の発露であり、無量である」ということを説いているということ。



以上の6点から、私は『無量義経』を偽撰と判断することが自然なことであると思います。
とりわけ6点目の無量義の訳語マハー・ニルデーシャの原語の意味については、岩波版の訳者である坂本幸男氏も萩原雲来氏と同意見に立たれており、この字義について注で以下のように説明しています。

「世親の法華論に、法華経の十七名が出ているが、その中の三名に当る。第一の『無量義』とは、教と理との無量を指し、法華経の諸法実相の一から無量の法を出生する意味。」
岩波文庫版『法華経』上、327ページ)。


現在でもこれらの論点を覆す研究は出ておらず、現況では『無量義経』は中国撰述の偽経であるとすることが妥当な判断であると私は考えています。






参考文献:

横超慧日『無量義経について』印度学仏教学研究第4号、1954年。


『三師御伝土代』と戒壇本尊との矛盾。




いつも皆さん、ありがとうございます。


さて大石寺4世日道による『三師御伝土代』は最古の日蓮伝の一つで、他山からも信頼性の高いものとして評価されています。
以前この『三師御伝土代』についてはブログにも書きましたが、これを読むと日道の時代にはまだ日蓮を本仏とする説も存在せず、また戒壇本尊も存在していなかったことがわかります。


「日道『三師御伝土代』を読む」



例えば熱原の法難について、日道は以下のように御伝土代に記しています。



「さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず、日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給フ」
(富士宗学要集第5巻8ページ)



熱原の法難が契機になって日蓮が御本尊を書写したことが伺えますが、ここで日道は「日興上人と御本尊に遊ばす」としています。
周知のことですが、大石寺奉安堂の戒壇本尊には「日興上人」という文字は書かれていません。この時点で矛盾です。
また仮に大石寺が言うように「熱原の法難を契機として戒壇本尊が表された」とするなら、大石寺法主である日道がここでそのことに触れていないのはあまりに不自然です。
つまり日道在世中には戒壇本尊と称されるものはまだ存在しなかったと考える方が自然です。
また奇妙なことですが、熱原の法難によって首を切られた者の数を日道はここで「三人」ではなく「二人」であると書いています。




「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大漫荼羅なりと図シ給フ御本尊に背ク意は罪ヲ無間に開く云云、」
(同12ページ)



しかも「背けば罪を無間に開く」とされる本尊を説明する際、日道は「二千二百三十余年」としています。言うまでもありませんが、戒壇本尊の讃文の記述は「二千二百二十余年」です。



大石寺は史実を大事にしないことがよくわかりますが、ここまで矛盾しているともはや噴飯もので、あたかも宗史や教義を捏造して作ってきた事実を糊塗して、信徒に隠しているように思えてなりません。
戒壇本尊の存在を根拠づける史料は、大石寺14世日主より以前に遡ることができません。つまりそれを裏付ける文が一切なく、上記に見たように日道の『三師御伝土代』の記述と矛盾します。したがって弘安2年戒壇本尊は単なる後世の贋作と考える方が自然です。