いつもみなさん、ありがとうございます。
「自身の過去の告白と総括」
創価学会の欺瞞に気付きながら、日蓮正宗や顕正会等の大石寺系教団に入ってしまうのは、結局、自分たちの思想の虚像を客観視できておらず、どこかに真実の正しい教えが存在するというドグマに囚われているだけなのかと思います。
「真実を求める病」
むろん私はどこかの寺に所属して信仰を深める自由を否定したりはしません。ここで私が述べたいのは、自分で真実を「求める」という姿勢であり、それこそが本来の釈迦の思想、すなわち馬場紀寿氏が述べる「個の自律」であるということです。
日本に伝わっている経典群は基本漢訳経典であり、それは中国で形成された北伝仏教、すなわち大乗仏教です。
大乗仏教は上座部、説一切有部等への批判として生まれた独自の宗教的なムーヴメントとして私は一定の評価をするべきかとは思います。しかしそれはともすれば、釈迦への渇仰から釈迦の思想を権威化し、永遠化された偶像を提示し、本来の「自身を島とせよ」と"個の自律"を訴えた釈迦の思想を見えにくくしてしまった感は否めないでしょう。
教団に依拠して何かの信仰をする、そして教団が信徒に宗教的な権威の担保を与えるという考え方は、すでにその歴史的な意義を終えていると思います。
創価学会において、第2次宗創紛争の中、教義的な後ろ盾を失った創価学会の分裂を防ぐために、正木正明氏や谷川佳樹氏らは極端な池田大作絶対主義を主張しました。結果「何があっても池田先生についていこう」「池田先生がいれば間違いない」という名誉会長個人の無謬論しか会員は語れなくなりました。長谷川重夫氏も原田稔氏もそんなことしか語れなくなりました。
仏教は本来、誰かに教えの絶対性を担保してもらうものではありません。個の自律とは剥き出しの四聖諦と六処の束による自分を見つめることでしかあり得ないでしょう。
そのような「個の自律」を唱えた信仰者一人一人が増えることが大切なことだと思います。
大石寺系教団の論理にしがみついて生きるのではなく、その論理を検証した上で捨て、自分らしく生きたいと私は願っています。教団が衰退するかどうかは私には瑣末の問題かと思います。