いつもみなさん、ありがとうございます。
そこでメールやTwitterのDM等で頂く質問で主だったものを挙げ、私なりに答えてみたいと思います。
「気楽非活さんは朝晩の勤行はしているんですか?」
特に"勤行"というものはしていません。仏壇の前に座ることもありませんし、日寛書写曼荼羅も片付けました。ただ止観の修行として自身を見つめる、そのために題目や経典を読むことはあります。
「ご観念文はどうしたらいいですか?」
私などは"なんで観念して祈らなきゃいけないのか"さっぱりわかりません。ご自由にされたらよいのではないでしょうか。
「創価学会はなぜ功徳を失ったのですか?」
私は"功徳"という概念を信じていません。当時の人たちが功徳と思ったものは、高度経済成長下の恩恵とプラセボ効果であって、その思い込みが社会学的概念として"功徳"というものを共同幻想として生み出したのだと考えています。
ご自身が何をどう考えて行動するかは、あくまで個人の自由です。私のブログ記事に共感してくださる方の中にも大石寺の根檀家・旧信徒(伝統講)さんの方もいまして、まだ信徒を続けている方もいます。あくまでご自身で思索をされて、ご自身で一つの結論を出すべき問題なのではないでしょうか。私は狂信的な活動家さんを批判もしますけど、ただ単に大石寺とか創価学会とかどこかの教団に所属しているというだけでその人を否定することはしません。
私のところにはいろんな方からメールやメッセージが来ますが、単に教団から退会や離檀をして個人の信仰になる方、無宗教になる方、非活メンバーになる方など様々です。また日蓮宗系でも例えば日興門流の興統法縁会系とかに入られる方もいますし、多様な選択肢はあろうかと思います。
私自身はどこにも所属はしておらず、単に個人で信仰を深めておりますが、どこの寺に所属しても個人の自由かと思います。ただ私が願うのは、単に寺側の論理に盲従するような信徒ではなく、個人で自律し、信仰を深められるような一人一人になっていくべきだと言うことです。
「題目を唱える時はどこを見て唱えたらよいですか?」
私はどこも見ておりません(笑)。日蓮の曼荼羅を対象にして祈るのも個人の自由ですが、私はそのようなものとして題目を考えていません。私にとっては、一切が記号の差異の体系、六処・十二処・十八界の集積に過ぎないと考えていますから、題目はそのことを見つめ直す止観の修行として考えています。ただしそれをどう考えるかは個人の自由です。