気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

真蹟遺文に「血脈」の語はない。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて昨日の聖教新聞(2017年6月15日)の紙面座談会で『生死一大事血脈抄』が引用され、団結の重要性を指摘されていました。
「血脈」とは「水魚の思い」をなすことが大切なんだそうです。私もかつてそう教わりました。


けれど考えてみると「血脈」という語は日蓮の真蹟遺文には全く出てこない語であります。


「血脈ってやめません?」


「血脈」という語が大切なら、日蓮の真蹟遺文や曾存遺文中に一つでも出てきてよさそうなものです。ところが『開目抄』にも『観心本尊抄』にも出てこない。


「血脈」という語が使われる御書をあげると、以下のようになります。


『立正観抄』
『立正観抄送状』
『百六箇抄』
『本因妙抄』
『身延相承書』


全て見事に真蹟が存在しません。
つまりここから考えるに「血脈」なる語が日蓮の思想中にあったとしてもそれらは傍系の思想に過ぎず、信仰上さして重要性があったとは言い難いということかと思います。


つまり日蓮門流を名乗るのであれば、やはり真蹟遺文中にそれがあるのかないのか、それが果たして日蓮の思想と言えるのかということをきちんと検証して語ることが大切なのだと思うんですね。
創価学会大石寺の誤りは「真蹟がなくても信仰上の利点があるのだから問題ない」と信仰上の現世利益を優先し、それが日蓮の思想であるかどうかという検証は二の次にしてきたということだと思います。


どっかの宗派の言っている日蓮解釈でもまあ構いませんけど、少なくとも私は日蓮門流を名乗る以上、日蓮真蹟遺文に即してそれが果たして本当に日蓮の思想と言えるのかという検証をきちんとしなければいけないと考えます。それこそが信仰者としての誠実な態度ですし、そもそもそういう過去の検証を怠ってきたのが創価学会大石寺の偽らざる歴史なのではないでしょうか。