日蓮正宗から破門される前は「正しい血脈がないと同じ題目でも功徳はない」というロジックで反論していたでしょう。
けれど現在の創価学会はそのロジックを使うことができないですよね。
創価学会のロジックに則るなら、正しい信心で題目をあげれば別に何のお寺につかなくてもよいということになります。
それなら別に創価学会につかなくても、個人で正しい信仰を貫くなら正しい題目になるという論理になってきませんか?
そんなわけで、現在の創価学会は、自分たちの教団を神聖視する方向にシフトしていっているのかもしれませんね。
でもそのロジックの理由って、つまりは自分たちの教団の題目が他とは違って特別だって言いたいからなんでしょう?
私見ですが、そんな風に自分たちを特別視するのはもうやめにしましょうよ。
そもそも日蓮真蹟が存在する遺文中に「血脈」なる語は出てきません。
日寛教学そのものが恵心流の中古天台口伝法門から剽窃されて作られたということはもはや疑い得ないわけで、おそらくその影響下から台密の思想に則り、日蓮正宗なりの「血脈」なる教義が作られた可能性が高いわけです。
真蹟遺文中から考えても、血脈概念を日蓮の思想の根幹に置いてしまうのは、やや無理があります。
真蹟不存の同抄を依拠としてそう主張したいならまあそれでも構いませんけど、それなら創価学会だけが唯一正しい日蓮の教団とは言えないはずです。たとえ日蓮宗にいようと日蓮正宗の中にいようと、その人が正しい信心をしていれば正しい題目になるという論理になりますよね。
思い込みが激しいというものです(笑)。