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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

「血脈」ってもうやめません?




創価学会員によって外部の友人がいわゆる「折伏」をされる時、よく抱く疑問の一つに「お題目って別に創価学会に入らなくてもあげられるんじゃないの?」ってことです。



日蓮正宗から破門される前は「正しい血脈がないと同じ題目でも功徳はない」というロジックで反論していたでしょう。
けれど現在の創価学会はそのロジックを使うことができないですよね。
創価学会は宗門から離れた際に「信心の血脈」ということを言いだしましたから。おそらくその論拠は『生死一大事血脈抄』なのでしょうね。
創価学会のロジックに則るなら、正しい信心で題目をあげれば別に何のお寺につかなくてもよいということになります。
それなら別に創価学会につかなくても、個人で正しい信仰を貫くなら正しい題目になるという論理になってきませんか?



そんなわけで、現在の創価学会は、自分たちの教団を神聖視する方向にシフトしていっているのかもしれませんね。
いわく「創価学会広宣流布を遂行する、唯一の教団であり、日蓮直系の教団である」と言いたげです。
でもそのロジックの理由って、つまりは自分たちの教団の題目が他とは違って特別だって言いたいからなんでしょう?




私見ですが、そんな風に自分たちを特別視するのはもうやめにしましょうよ。
自分たちだけを特別視して、唯一の相伝があるなんて主張するのは日蓮正宗の専売特許にしておきませんか?(笑)
なんか創価学会は、日蓮正宗の一員だった時のことが記憶にあるのか、自分たちをどうしても特別な存在と祭り上げておきたいみたいなんですよね。




そもそも日蓮真蹟が存在する遺文中に「血脈」なる語は出てきません。
「血脈」という概念は本来密教で使われている概念であって、台密の影響下にある用語です。
日寛教学そのものが恵心流の中古天台口伝法門から換骨奪胎されて作られたということはもはや疑い得ないわけで、おそらくその影響下から台密の思想に則り、日蓮正宗なりの「血脈」なる教義が作られた可能性が高いわけです。
真蹟遺文中から考えても、血脈概念を日蓮の思想の根幹に置いてしまうのは、やや無理があります。



宗門から離れた今、創価学会は日寛教学とともに「血脈」概念からも離れるべきだと思うんですが、未だに『生死一大事血脈抄』を用いて「信心の血脈」という概念を使っています。
真蹟不存の同抄を依拠としてそう主張したいならまあそれでも構いませんけど、それなら創価学会だけが唯一正しい日蓮の教団とは言えないはずです。たとえ日蓮宗にいようと日蓮正宗の中にいようと、その人が正しい信心をしていれば正しい題目になるという論理になりますよね。
それを認めるならいいですけど、しかしながら現今の創価学会は未だに自分たちを特別視して、自分たちこそが唯一の正統な日蓮直系の教団であると自負しているようです。
思い込みが激しいというものです(笑)。