気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

平成2年宗創問題の端緒。





いつもみなさん、ありがとうございます。
今日は平成2年頃から始まる、第2次宗創問題の端緒について考えてみたいと思います。


この件に関して、私はいくつかブログでも記事を書いていますが、昭和54年以降で、最初の両者の対立が鮮明化したのは平成2年7月17日の常泉寺での連絡会議の席上のことで、ここで創価学会側がなんらかの強い口調で大石寺側を批判。大石寺僧侶の綱紀自粛を申し入れたことだと考えています。


「宗創問題について①」


ところで、Twitterで以下のような趣旨の情報がありました。


大石寺創価学会に不信感を抱いたのは、正信会問題で多数の僧侶の脱退があり、その対価として池田名誉会長が宗門に200か寺建立寄進を申し入れたにも関わらず、それが遅々として進まず、自分たちの会館の建設ばかりを優先していたことではないか。」


私はこれについて可能性として確かにあり得ることだと思います。というのは平成2年11月14日の常泉寺での連絡会議の席上、大石寺側出席者の藤本日潤総監(当時)がこの200か寺建立について「東京は1か寺しかできていない。理由は何か」と学会側に質問しているからです。


ただこの発言は平成2年11月14日のもので、時系列で言えば、先の学会側が宗門に綱紀自粛を申し入れたとされる最初の対立の7月17日よりも後の発言になります。
個人的な推測ですが、大石寺はこの頃、藤本氏の発言にあるように学会側の200か寺建立が進んでいないことにも苛立ちを募らせており、それが平成2年11月の連絡会議での質問という形で表面化したとも考えることはできます。


恐らく大石寺側が創価学会と対立を明確にしようとしたのはこの平成2年11月14日以降のことです。というのはその一月前の10月6日、大石寺開創七百年慶讃大法要で阿部日顕氏は「特に近年、信徒団体創価学会の興出により、正法正義は日本乃至世界に弘まり、ここにその意義を込めて開創七百年の法要を盛大に修することは、誠に大慶至極であります」と発言しています。


実際、平成2年7月17日の学会側による綱紀自粛の申し入れを大石寺側は一時受け入れる姿勢を見せていました。
事実、平成2年8月29日、全国教師講習会(大石寺、〜30日)・全国教師指導会で、宗門側は21項目にわたる僧侶と寺族の「綱紀・自粛に関する基準」を発表し徹底しています(ただ翌日30日に阿部日顕氏、阿部信彰氏、石井信量氏は伊豆長岡の温泉旅館を訪れています)。


恐らく同年の秋以降、大石寺創価学会に対して教義的になんらかの牽制の必要を感じていたのでしょう。11月16日の本部幹部会での池田名誉会長のスピーチに対して「お尋ね」を12月16日に送付してきます。


では学会側はちゃんと200か寺建立をしたのかというと実際は明らかではありません。平成2年12月21日、創価学会三重県の仏徳寺を大石寺に建立寄進します。これは111か寺目の寄進になります。その意味で200か寺建立が進んでいなかったという大石寺側からの批判も理解できなくはありません。


平成2年7月17日の綱紀自粛申し入れ以降、例えば7月29日に阿部日顕氏は法華講連合会第27回総会で「平成6年を目指し、6万世帯の折伏達成と6万人の大結集」を呼びかけています。
これは先の開創七百年慶讃大法要より前のことですから、夏の時点でもしかしたら阿部日顕氏は創価学会に対するなんらかの政治的な牽制を考えていたのかもしれません。


私個人の推測では以下のように考えています。


1、平成2年7月17日の学会側の綱紀自粛の申し入れに対して、大石寺側は表面的に一度受け入れたが、苛立ちを募らせていた。

2、そこで創価学会を政治的に牽制・批判する必要が生じ、11月17日の連絡会議で約束だった200か寺建立寄進が進んでいないことを取り上げた。

3、加えて11月16日の本部幹部会での池田名誉会長のスピーチを教義逸脱として批判することで、大石寺側が政治的にイニシアチブを取ることを狙った。



とまあ、そんな感じで創価学会の昭和52年路線に対して大石寺宗門が採った学会批判の手法とさして変わらないところだったのではなかったかと私は考えています。
大石寺は教義解釈の主導権を握っていましたから、学会を与し易しと踏んでいたのかもしれません。ところが豈図らんや創価学会はこれに反発し「法主退座署名」まで突きつける始末。大石寺としてはそこで解散勧告、破門まで進んでしまったのでしょう。






世界青年部総会。





いつもありがとうございます。
さて今回は2018年3月11日に行われた、創価学会の青年部総会についてです。


会合の前から創価学会本部が会合の意義を強調し、さらには会員のみの参加しか許さない、友人の参加ができない、青年部のみの会合ということを強調するあたり、若干の違和感を感じていました。
今回の会合には池田大作名誉会長は参加せず、タブレットを通して同時中継で会場の様子を見るというもの。出てきたのは最後の勤行唱題の後、わずかに伝言を寄越しただけです。


会合の参加者の方からたくさんの情報提供を頂きました。ありがとうございました。画像や音源、内容等を頂き、ほぼ会合の様子はよくわかりました。




本会場は創価大学の池田記念講堂になります。
参加対象は男女青年部、
学生部、未来部ですが、壮年・婦人部の付き添いは参加できたとのこと。
時間は13:30~14:50でした。
 
13:30に
中継開始
 
 
冒頭、日本1,200会場 世界300会館の双方向同時中継を強調していました。
カウントダウンの後、双方向の通信開始、画面に小さく各会場が映し出されました(実際には小さすぎてほとんど見えないとの声も多かったようです・笑)。
 
続いて各会場の紹介
①沖縄、国際平和会館
②北海道、厚田会館
③韓国、池田記念講堂
④インド、ロータス会館、200名収容の個人会館
アメリカ、ハワイ文化会館(現地時間:3月10日、午後6時30分)
 
13:35、
司会の佐藤さんの掛け声で、勝ち鬨 エイエイオーを3回やります。
 
13:38、
グロリア吹奏楽団のファンファーレから開会宣言があります。
その後、3.16のPV、60年前の映像からのナレーションが入り、
そこから、体験ビデオレポートになります。
 
南アフリカの男子部の体験(映像付き)
アメリカ、ニューヨークの女子部長の体験(映像付き)
③日本・大阪、酒井健太郎さんの体験
※ここで音声が乱れたシーンがあり、酒井さんの音声が遠く拾えていない場面があったそうです。
本会場に切り替わり、酒井さんの息子のドラム演奏が入ります。

 
13:50、こので
3.16の60周年を記念して作った世界共通の歌「This is my name」を本会場のSGIの芸術部が歌われる。後半からは歌うSGIメンバーが国ごとに映し出されました。
 

13:55、
竹岡青年部長あいさつ。
内容は
目標6万人の折伏と60万人の結集に対して
結果は6万6千人以上の折伏、日本60万人、海外10万人の結集を強調。『御義口伝』の一節を引用。

 
14:00、「
誓いの青年(きみ)よ」の合唱。青年部合唱団が一番、未来部合唱団が二番、SGIメンバーが三番をそれぞれの国の歌詞で歌う。全員で三番をもう一度合唱するというもの。
 

14:10、
原田会長指導。
東日本大震災に言及し、3.11に青年総会が開かれる意義は深いことを強調。明日からは日常が始まるが、
毎日が3.16のつもりで。御書は『如説修行抄』の「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」(御書501ページ)を引用。五老僧の話から、池田先生の創価学会を守り抜くことが重要で、創価学会仏とは不惜身命の創価三代であり学会員一人一人であることを述べていました。

 
14:17、
池田主任副会長からの池田名誉会長のメッセージ紹介。東日本大震災に言及して東北の友に全員で拍手。

 
14:25、
池田名誉会長とSGIのPV「信心とは会員を守ることだ」内容は1994年3月6日のスピーチの一部映像。
 

14:30、
世界青年部「出藍の誓い」。日本とSGI青年部の代表者が世界広布を宣誓しました。※一部会場では志賀男子部長で映像が止まったようです。
 

14:35、
原田会長を中心に世界同時の世界広宣流布を誓う勤行唱題。
この時、御大池田氏も同時に勤行唱題しているはずですが、特に言及も映像もありませんでした。
終了と同時に、池田氏から伝言「みんなありがとう」「くれぐれもよろしく」とのこと。
最後に原田会長がSGIメンバーに「
サンキュー・ソー・マッチ!」と言ってSGIメンバーが喜ぶ。
 

14:45、
中継終了 それぞれの会場で青年幹部の挨拶。


まず今回の青年部総会は、ことさらに全国の会場との同時中継を強調するものでした。
それだけ各方面の会場の会員さんから聞いた話では、同時中継の向こうと現実の会場との温度差が激しく、ついていけない若年層も多かったようです。


おそらく創価学会総体としての意図は、世界同時中継にすることで、数少ない青年部・未来部員の一体感と世界広宣流布の伸展を実感させるための同時中継だったのでしょう。ただ結果として温度差が酷く、未活動のメンバーは何のことかわからずに、若干引かれていました。感銘を受けていたのは、創価学会の熱心な活動家だけです。この日のために集められた若い会員は引いてしまう方が多かったです。


加えて音楽の演奏は鮮烈な印象を残したのですが(ここは素晴らしかったようですね)、その後の竹岡青年部長や原田会長の話がほとんど旧態依然で何も変わることがなく、さらには世界の同志との唱題も池田名誉会長と同時にやってるのかどうかさえ言及もなく、わからないという状態。


そして青年部が現実として60万人しか集まらなかったということです。
現実として今の創価学会の活動家数は200万人とか300万人とか言われていますが、それは行く行くは60万人以下になるということです。しかもその数は全てが活動家であるわけではありません。


信濃町としては青年部に元気になってもらいたい、あるいは皆との結びつきを感じてもらいたいと願った多元同時中継でしたが、結果として画像の向こうとこちらでの温度差が酷く、未活動家には引かれてしまい、彼らにとって魅力ある会合とは映らなかったようです。


今回の会合を通じてハッキリしたことですが、信濃町には青年層を糾合するための打つ手が特になく、自教団の正統性と池田氏の師弟を強調するくらいしかないということです。
みなさん、早めに組織活動から離れた方がよいかと思いますよ。

竹岡青年部長が引用したのは『御義口伝』、原田会長が引用したのは『如説修行抄』、どちらも真蹟不存。訴えていることは団結しよう、この組織を守り抜こう、そんなことしか語れない。真蹟遺文さえ語れない。それだから各会場の参加者が、本会場との温度差に引いてしまうんだと思いますね。













昭和52年路線の転轍。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回の記事は昭和52年路線についてです。


創価学会は昭和47年の正本堂建立以降から、次第に在家主義的な色彩を帯びるようになり、会長を「久遠の師」と呼んだり、「本門弘通の大導師」等と呼んだりしていました。
そして昭和52年1月15日、第9回教学部大会における池田大作会長(当時)の「仏教史観を語る」と題する講演が行われます。この講演の内容こそが当時の大石寺宗門が問題視した部分で、これらの創価学会の在家主義的な教義についての考え方は「昭和52年路線」と呼ばれます。


ところで、これら創価学会の昭和52年路線、在家主義的教義に対し、大石寺側は昭和53年6月19日に質問書を送ります。創価学会側は1週間程度で回答を送付。この中で創価学会は教義についての逸脱を率直に認めます。この創価学会の回答は6月29日に大石寺教師指導会(大講堂)の席上、参加者に配布・周知されました。


ではこの中で創価学会が何を認めたのか、一部を抜粋して書いてみたいと思います。



「一、昨年の一月十五日の第九回教学部大会における『仏教史観を語る』と題する講演については、仏教史を通して広宣流布をめざす学会の今日的意義を述べたものである。
今日、これだけの在家集団ができあがったことは仏法史上、画期的なことである。しかし、このことを強調したことが、出家仏教に対して在家仏教を立てるというような印象を与え、結果的に正宗の伝統及び御僧侶、寺院の軽視につながる論拠を与えたことは、まことに遺憾である。そうした考えはもとよりない。
一、この講演の文中『葬式だけを行い我が身の研鑽もしない……』とあるのは、日蓮正宗僧侶を目して述べたものではなく、日蓮正宗以外の一般仏教界の多くの姿を語ったものである。したがって『既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所ではなく、道場でもない』というのも、正宗の寺院を言ったものではないことをご了承願いたい。しかしそういう印象を与えたとすれば、まことに遺憾である。
一、維摩詰が供養を受けたことは法華経で観世音菩薩が受けたのと同じく仏に捧げる意味である。ことに維摩詰は在家であり、供養を受ける資格があるとは言えない。経文に応供とあるのは仏のことで、供養を受ける資格があるのは仏以外はない。したがって在家が供養を受ける資格があるという記述は改める。
一、寺院の存在についてであるが、日蓮大聖人は、お亡くなりになる前年の弘安四年には、身延に十間四面の堂宇を建てられ、これを久遠寺命名された。そして『池上相承書』においては『身延山久遠寺別当たるべきなり』と日興上人へ遺付されている。さらに日興上人は、身延離山の後、正応三年、南条時光の寄進を得て大石寺の基を築かれたことは、周知の事実である。
正宗寺院においては、正法をもって授戒、葬式、法事、結婚式等の衆生済度のための大切な行事を行なっている。寺院もまた、広宣流布のための活動の重要な拠点であることを認識したい。学会のみが広宣流布の場として、寺院がそうでないかのような表現は、明らかに言い過ぎである。
一、『僧宝』とは正宗においては第二祖日興上人のことであり、また会長も発言しているごとく、唯授一人の血脈をうけられた御法主上人猊下であらせられる。したがってこの正宗教義の根本となる僧宝と、信心実践面での和合僧ということについては、絶対に混同するようなことがあってはならない。
また広義においても学会を『僧宝』という言い方はしてはならない。
一、かって入信動機を語るに際し"正宗から学会へ入信"と記した表現があった。これは、それ以前も正宗であったが、学会に入って初めて正宗の真実の信仰に目覚めたとの意味であり、信仰のあり方の問題であったが、正宗と学会が別であるかのような印象を与える表現となってしまったことは遺憾である。」



すでに創価学会大石寺から破門され、別個の宗教法人となっていますから、創価学会が何を語っても別に自由なのですが、少なくともこの時点で創価学会側は「在家が供養を受けられるという考えは改める」としたわけですから、それが無反省に反故にされ、実質的に目的が特にあるわけではない財務が会員に続けられている実情があるとするなら、なんらかの自省が求められると思います。
またここで創価学会は自分たちを「僧宝と呼ぶことはしない」としていますが、現在の創価学会は自教団そのものを「創価学会仏」として仏格扱いまで引き上げました。これについてもなんらかの自省が求められると私などは思います。


まあ元鞘の大石寺の教義そのものが、その時その時で都合のよいことを述べてきたようにしか思えない私などは、所詮創価学会大石寺の鬼子のような存在なのだろうと考えています。





佐渡以前だから否定される?





いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで日蓮『唱法華題目抄』には以下のような一節があります。


「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし」
(『唱法華題目抄』創価学会版御書12ページ)


ところで、活動家時代の私はここの「その志がある者は必ず一念三千の観も学んでこれを観ずるべき」という文意を読んで、智顗の止観なども大いに学びたいと思ったものです。
ところが、創価学会の御書講義録刊行会編の同抄の解説によりますと、「本抄は文応元年(1260年)の述作であり、佐渡以前の御抄であるので、日蓮の御正意ではない」として退ける説明がされていました。


私はこの御書講義録刊行会の解説に得心しませんでした。「佐渡以前だから日蓮の正意ではない」とするなら『立正安国論』だって文応元年、同年の述作です。


私はここで何を根拠にして「『唱法華題目抄』は佐渡以前だから否定されるべき」としているのか、調べてみました。
そうしたらわかりました。
その根拠は大石寺26世の日寛だったんです。


具体的に言いますと、日寛の『観心本尊抄文段』(観心本尊抄愚記)です。


「問ふ若し爾らば唱法華題目抄に云く愚者多き世なれば一念三千の観を先とせず其の志有らん人は必ず習学して之を観ず可し等云云、此の文如何、答ふ是れ宗祖の御本意に非ず(中略)、唱法華題目抄は一往天台附順の釈也佐渡已前文応元年の御抄也」
(日寛『観心本尊抄文段』富士宗学要集4-223ページ)


創価学会大石寺日蓮解釈は相当程度に日寛釈が入り込んでいまして、一度思考がスポイルされるとなかなかその思考法から抜け出せなくなります。日寛流に読む癖ができてしまいまして、なぜそう読まなければならないのかと云うことに思いを致せなくなってしまうんですね。


そんなわけで、今の私は日寛の解釈に依らず、書いてある通りに『唱法華題目抄』を読みたいと考えています。




法華経観音品の阿弥陀仏。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて何度となくこのブログでは法華経阿弥陀仏が説かれることを紹介しています。


法華経阿弥陀仏って」


法華経の化城喩品では阿弥陀仏が出てきますし、薬王品では法華経を信じる女性は功徳として「阿弥陀世界へ直行する」ことが説かれます。


加えて曹洞宗で重要視される観音品(観世音菩薩普門品第25、いわゆる「観音経」)でもサンスクリット原典の部分に阿弥陀仏が出てきます。周知のように曹洞宗法華経を重要視することで知られ、如来寿量品と観音品を読誦することで知られます。



以下に観音品で「アミターバ仏」が描かれている部分を引用してみます。この部分は鳩摩羅什訳の妙法蓮華経では訳出されていません。



「あらゆる苦悩と恐怖と憂いを滅すアヴァローキテーシュヴァラ(観世音)を、わたしは礼拝する。
ローケーシュヴァラ=ラージャ(世自在王)を指導者とした僧の
ダルマーカラ(法蔵)は、世間から供養されて、幾百劫という多年のあいだ修行して、
汚れない最上の『さとり』に到達してアミターバ如来となった。
アヴァローキテーシュヴァラはアミターバ仏の右側あるいは左側に立ち、
かの仏を扇ぎつつ、幻にひとしい一切の国土において、仏に香を供養した。
西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)世界がある。
そこに、いま、アミターバ仏は人間の御者として住む。
そして、そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。
汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に坐る。
かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、
獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
彼はまたはこの世の指導者として三界に匹敵する者はない。わたしはかの仏を讃歎して、
『速かに福徳を積んで汝のように最も勝れた人間(仏)となりたい』と祈念する。」
(『法華経』下、岩波文庫版、269ページ)



法華経にはさまざまな仏が出てくるのですが、阿弥陀如来の功徳もまた法華経の中できちんと説かれているということになります。




御本尊の写真撮影。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は御本尊の写真撮影についてです。



大石寺系教団は「御本尊を写真に撮るのは謗法」と教えられます。
ですから私も活動家時代、御本尊の写真集などを見るのを忌避したものです。私の場合、広宣部のメンバーとして活躍する中で、様々な御本尊写真を見る必要に迫られ、少しずつ固定観念がとれていきました。


もともとは大石寺では御本尊を写真に撮ることを「謗法」とはしていませんでした。
例えば冒頭の画像を見てほしいのですが、これは柳澤宏道の『石山本尊の研究』(はちす文庫)に載る写真で、これは『大白蓮華』81号(昭和33年2月)の転載です。


御本尊の前で講義をしているのは紛れもなく戸田城聖であり、左で下向きの横顔で映っているのが池田大作氏でしょう(ちなみに池田氏の右にいる人物は龍年光氏かと思います)。
この写真に載る御本尊は大石寺64世水谷日昇によって書かれた「学会常住本尊」です。まだこの時は板に模刻されていません。


こんな風に普通に学会の機関誌に御本尊の写真は掲載されていました。他にも聖教新聞61号には貞明皇后授与の本尊の写真が掲載されたことなどもありました。大石寺からこれらの写真撮影について少なくとも当時は何も問題視されていません。



例えば明治44年発刊の熊田葦城『日蓮上人』には戒壇本尊の写真が掲載されていますが、これについて細井精道(後の大石寺66世細井日達)氏は次のように述べています。



「熊田葦城氏の『日蓮上人』の初版に掲載されているというが、此れは某信徒が葦城氏と相談して写真を出したならば世間に知らしめて非常に効果があると考えて大石寺に願ってやったことである。
しかるに効果どころか甚だ面白くない結果となったので、その掲載を禁止したのである。」
日蓮正宗布教会編『悪書板本尊偽作論を粉砕す』11ページ、大日蓮編集室、昭和31年9月30日)


ちなみにこの中の「某信徒」とは後に法華講総講頭となった由井一乗氏とされています。
ここでの細井日達氏の言葉によるなら、戒壇本尊の写真撮影の許可も禁止も大石寺の判断で行なっていたことになります。



つまり大石寺では御本尊を写真に撮ることは最初から禁じられていたわけでもなかったのです。少なくとも昭和30年代くらいまでは本尊の写真撮影に関して全く問題がありませんでした。とすると、なぜ後年になって突然「本尊を写真に撮ることは謗法」などと言い出したのか、何かの意図を私などは感じます。












念仏思想について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は念仏思想についてです。



創価学会大石寺系教団の人たちは失礼な話ですが、念仏を非常に嫌います。ほとんど生理的な嫌悪感に近いものさえあります。教団の提示する教義にすっかり染まってしまい、「浄土宗は生きる気力を奪う」とか「自殺する人が多い」とか昔の『折伏教典』のような表現で罵ることもあるほどです。



ところで、このブログでも指摘していますが、法華経にはちゃんと阿弥陀仏が出てきます。具体的には法華経の化城喩品第7、薬王菩薩本事品第23です。


法華経阿弥陀仏って」


薬王品では法華経を信じる信徒の功徳は「阿弥陀仏の安楽世界に往生すること」とされています。ですから法華経を信じれば阿弥陀仏のいる極楽浄土に往生できることが法華経に説かれているんですね。



また日本天台宗比叡山では常行堂があり、この本尊は阿弥陀仏です。
比叡山恵心流の開祖である恵心僧都源信は、称名念仏と観想念仏を立てた人です。平安時代はこの念仏思想が貴族に流行して、華やかな極楽浄土や阿弥陀を表現する建築が多く建てられたことは有名でしょう。
ですから法華経を根本にしていた比叡山でもきちんと念仏は唱えられており、日蓮も『守護国家論』で源信の念仏思想については認めています。


日本国の源信僧都は亦叡山第十八代の座主・慈慧大師の御弟子なり多くの書を造れることは皆法華を拡めんが為なり」
(『守護国家論創価学会版御書49ページ)


爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり。」
(同50ページ)


つまり法華経を根本にしている故に、源信称名念仏思想は肯定されているということです。日蓮の念仏批判のポイントは「法華経否定」ということであり、だからこそ法華経を否定した法然を批判しますが、法華経を認める源信日蓮の批判対象となっていません。



称名念仏としての唱題行」

「法華を依拠とする融通念仏」



教団の教義に染まるとなかなか浄土思想とか念仏とかを肯定的に見られなくなることは元活動家としてわからなくはありませんが、そもそも法華経阿弥陀仏は説かれていますし、平安時代比叡山で題目とともに念仏も唱えられていたことも事実です。そして日蓮比叡山に入山する際に源信の流れを汲む恵心流の俊範に師事しているんですね。



日蓮門流を名乗るものが、法然法華経否定ゆえに浄土宗を否定するのはまだ理解できますが、そもそも阿弥陀仏法華経に説かれており、念仏思想も比叡山に存在していたのですから、十把一絡げに念仏や阿弥陀仏というだけで拒否感や嫌悪感を示すのは乱暴な議論かと思います。