未来部にとっての魅力を失った池田氏。
いつもみなさん、ありがとうございます。
「本日付(2018.2.18)で投稿された『創価大学閥と池田絶対主義』について、
そもそも会内に『学閥』がある事実自体が、
まるで『そのことには触れてくれるな』と言わんばかりです。
聖教新聞に登場するいわゆる『最高幹部』とされる人々の経歴を見れば、『学歴など信仰には関係ない』と言い切った池田氏の発言と矛盾した現実は、
『人は、見たいと欲する現実しか見ようとしない』
といいますが、この件に限らず一事が万事で、『創価学会ムラ』という閉鎖的で、自身らの価値観・思考過程・
既知の事実でしたら、以下は読み飛ばして下さいませ。
私は、20代前半から30代前半にかけて少年少女部の担当をしていたことがありました。
10年以上も前の話なのですが、組織の上部から『創価学園に進路希望する少年少女部の子供達の数を増やして欲しい』という打ち出しがされたことがありました。
不審に思い、
創立者とは、言うまでもなく池田大作氏であり、
更に彼が言うには、年々この『創立者』が受験・
かく言う私も、大学在学中に折伏され入信した男で、
まだ子供だった私ですら、卒業生の進路実績はそれほど『凄いな』と思えるもので、
その実績は、
本来であれば、会の内外を問わず広く人材を糾合し、『平和のための要塞たれ』という創立者の意志を汲めたと外部からの入学増加を『実証』として喜ぶべきところを、
『むしろ"外"に打って出て現実社会を知り、
と決めて、打ち出しは一切無視しました。
その後、私が未来部担当から外れた後に、
どういった経緯で創大に行ったのかは不明ですが、彼女は卒業・
親御さんの話では、組織の活動には一切参加せず、
ただ、まあ…
先日、近所で買い物をしていた折に、
私はそれでいいと思います。
親の思いで生まれながらにして創価学会員となり、
池田体制における最大の過ちは、
ただの『信徒の再生産』でしかなく、
日蓮と釈迦は同体か別仏か。
下種仏法を広める教主としての仏と、末法の衆生との関係は、主師親の三徳から、以下のように拝察できる。仏が人々を成仏へと教え導く最初は、正法を説き聞かせて縁を結ばせ、成仏の種を心の田に下ろすことである(最初聞法下種・下種結縁)。日蓮大聖人の仏法は、成仏の根源の法である南無妙法蓮華経を直ちに説いて聞かせて、成仏の種を下ろすことができるので、下種仏法である。種を植えた人が植物の世話をして実りを得るように、仏は下種して縁を結んだ人々を、成仏まで責任をもって、守り教え導き育て、自らのもてるすべてを与える。それ故、仏は主であり師であり親である。そしてこの絆は過去・現在・未来と永遠に続く。大聖人は、南無妙法蓮華経を説き示して成仏への道を開いたことにより、御自身が末法の衆生に対して主師親の三徳をそなえていると、諸御抄で仰せである(237,355㌻など)。それ故、創価学会では、日蓮大聖人を末法下種の主師親の三徳をそなえた仏と仰ぎ、末法の御本仏として尊崇・帰依する。▷末法の教主/下種/本因妙」
人形劇団「ぴっかりこ」のこと。
公明党と北朝鮮。
弟子による師の補完。
「いつも楽しく拝見させていただいております。活動家だった頃、私は
『イケダセンセイの弟子として何をなすべきか』
ということを考えていました。
そもそも師弟関係自体が組織から押し付けられたものだったのです
そして、弟子として何をなすべきかを真剣に考えたものです。
ふと宮田氏の所感を読んでいたところ、
『真の弟子とはこういうものだろう』
とそれなりに納得できたところです。
結論から言えば、
(とはいえ、師弟論いっぱんに通用するものではなく、
宮田氏はこの点を宗教と哲学の相違点として考えています。
いわゆる理論の評価とそれを唱えた人物の人格的評価は、
例えば、
核反応によって別の物質に代わることが起こり得るからです。
だからと言って、
哲学や科学はこのように人物の評価と提唱した理論の評価は別に行
しかし、
『日蓮の末法観は間違っていた。
といえば、
『それは日蓮への冒涜だ。謗法だ。罰が当たる』
となりますよね。
人物の評価と理論の評価が不可分の関係にあるのが宗教の特徴の一
プラトンは師ソクラテスの限界を見極め、イデア論を構想し、
その考察と師への畏敬と評価は別物だったようです。
ということは、ブログで示している
『日寛教学と儒教思想が池田思想の本質であり、
という議論は本来的には池田大作の弟子と言われる人たちの仕事で
そんなことを言っていないで、
『イケダセンセイは素晴らしい』
『その思想は正しい。素晴らしいものだ』
というだけであれば、オウムか、質の悪いAIの仕事でしょうね。
宮田氏の引用をしておきます。
『さて哲学においては真理の探求という大義名分のもとで、
プラトンは師ソクラテスの説の不十分性を自覚していたから、
ところが哲学と同じような人間の営みの一種である宗教の場合は事
つまり理論は人格と必ずしも分離していないのである。
それは宗教が人格的救済を存在理由の一つにしており、
したがって創唱宗教の場合は創唱者の思想は絶対視され、
http://hw001.spaaqs.ne.jp/
非常に納得させられるメールでした。ありがとうございました。私はこのブログで池田氏の批判をして、彼の思想的な限界をきちんと見定めたいと考えていますが、その補完作業は本来池田氏の弟子を自称する方たちの仕事であるはずです。
牧口初代会長は価値論を根本に独自の教学体系を確立させましたが、次代の戸田会長はそれを発展的に解消させ、教団の名称まで変え、価値論を実質的に捨て、戸田独特の生命論を展開するに至りました。
池田氏もまたそうですが、弟子による師匠の解釈、また補完ということはあって当然のことであり、それがわからずに池田氏を批判することを安易に否定しているだけでは、返って池田門下というものが師を原理的に動かせないものと考え、教団の硬直化を招くだけかと私は思います。