気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

創価大学閥と池田絶対主義。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さてここ数日は大木道惠さんとの会話で思ったこと、話したことを少しずつ思い出しながら書いています。



話の中で出たのが正木正明氏という人物についてです。


「正木さんの師弟観」

創価学会内部の教義的な分裂について」


これらブログでも書きましたが、正木氏という人物は異様なほどに在家主義を強調し、池田氏を絶対的な存在とする「池田絶対主義」のような考え方をしていました。
私は活動家時代に巣鴨の戸田記念講堂で彼の指導を聞いたこともあります。違和感もありましたが、当時創価大学出身の幹部たちの多くがこうした考え方に傾斜していましたので、それらの中の一人なんだろうなという認識でした。



創価大学というところは、あくまで大学であり、自由な雰囲気もありますが、学生の中には親からの二世会員も当然多く含まれています。
で、創大に入った学生たちは「自分にとっての池田大作とは何か」と延々と答えの出ない議論をしていく傾向が少なくともかつてはありました。これらの話し合いは多く男子寮や女子寮で行われることも多かったです。
とりわけ滝山祭という行事が存在していた平成6年頃までは、学生の間にそのような傾向が強く感じられたものです。現在はカリキュラム変更のため、滝山祭は廃止されています。


私の見方からすれば、正木氏のように池田氏を絶対視する考え方は、多くの創価大学生に見られる特徴でもあります。もちろんそうでない学生もいますが、少なくとも一定数の池田原理主義者を生み出していった事実はあると実感として考えています。


大木道惠さんのお話によりますと、正木正明氏が理事長職から降格、事実上の更迭となったのは、池田香峯子氏の意見によるところが大きいようです。
確かに正木氏の更迭以降、信濃町の執行部は東京大学閥が強まり、創価大学閥はどちらかといえば方面幹部や中間管理の役職につくような若干格下げの位置付けになっているように思います。



創価大学は学生たちがとても仲の良い大学です。創価学会員さんは世間から蔑まれ、疎んじられることも多いので、その中で創価大学という場所が学生にとって互いを認めることができる場になっていることも事実でしょう。そのため彼らは自由に伸び伸びと創価学会の信仰の問題を仲間と論じることも多いんですね。


創価学会以外の世界を知らず、仲間内の社会の中で信仰を認め合うにつれ、次第に自分たちにしか通用しない思考の枠を持つようになります。私はそういう学生たちをたくさん見てきました。ですから正木正明さんという人はある意味で創価大学が生み出した鬼子なのだと思います。そしてそのように池田氏を絶対視する学生たちも多く創価大学から輩出されてきました。



正木正明氏の理事長職解任、その後の信濃町執行部の創価大学閥排除の雰囲気の原因はその辺にあると私は考えています。多くネット上で創価学会執行部を批判して池田氏を絶対視する多くの原理主義的な会員もまた同じことで、彼らは自分たちの思考の陥穽に嵌まってしまい、池田氏を絶対視することでしかアイデンティティを保つことができなくなっているのかと思います。