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気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

称名念仏としての唱題行。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて御本尊の前に端座するのは観心の修行ですけど、そこから祈祷師ばりに"願いを叶える"呪術のような題目を唱えることは、日蓮の『唱法華題目抄』の考え方とやや異なります。

一念三千の観とは、一念に三千が含まれていることを知ることではありません。三千に一念があることでもありません。このことは天台智顗が『摩訶止観』で指摘しています。
私たちの思考には思考を表現するための言語等の記号が必要で、それらを離れて思考の内容は存在できないということです。


つまり御本尊の前に端座するというのは、全ての意味を剥ぎ取られて、ありのままの自身に還るということであると私は考えています。
単に「幸福製造機」とか「何でも願いを叶える本尊」とか言って、戸田城聖氏とか日寛みたいに日蓮思想を矮小化してはいけません。
何でも願いが叶うとか、みんなが幸せになれるとか、そんなくだらないことが日蓮の思想だったんですかね?
本当にみなさん、そう思いますか?
私はそう思いませんけど。


日蓮の思想は、本来の仏教、本来の釈迦の思想、本来の法華経の思想、本来の最澄の思想の再構成にあったわけです。
曼荼羅とはそのためのものです。
日蓮の中で、曼荼羅において一切の諸教はまとめられ、収まってしまっています。
その根本の正業を日蓮は唱題としましたが、唱題は元来天台宗でも行われていた行法です。
日蓮は観心よりも先にまず法華経を根本にすることを先とし、その基礎的な修行を唱題としたわけです。それこそが『唱法華題目抄』の趣旨であるかと思います。


そもそも日蓮は『守護国家論』において、恵心僧都源信の念仏思想について自身の解釈を示しています。


「日本国の源信僧都は亦叡山第十八代の座主・慈慧大師の御弟子なり多くの書を造れることは皆法華を拡めんが為なり」
(『守護国家論創価学会版御書49ページ)

「爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり。」
(同50ページ)


日蓮にあっては批判の対象となるのは後の法然であって源信ではありません。なぜなら源信にあっては法華経の思想は捨て去られたわけではなく、法華経を根本とする考え方が源信には残っているからです。
だから裏を返すと、源信における法華経を根本とした称名念仏ならば、日蓮は認めていることになります。
そもそも源信は恵心流の開祖ですから、日蓮が批判するはずもないんですよね。


そうすると日蓮法然批判というのは、本来の天台における称名念仏の姿に教義を返すという意図があるのだと考えられます。 そして真の称名念仏こそが法華経の唱題行という論理になってくるのでしょう。
つまり日蓮にあっては、恵心僧都源信称名念仏の思想をさらに純化させ、唱題行の中に全てを収斂させていった、その本体こそが法華経の題目であり、その中に諸教の包摂性を見ることこそが真の日蓮の現代における有効性ではないかと考えています。