気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

執着しない心。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、少し前でTwitterでも書きましたが、ブログの総アクセス数がわずか一年半程度で100万アクセスを越えました!
みなさん、本当にありがとうございます!


ブログを書き始めた当初は、孤立すると思っていて、アクセス数もほとんどなかったのに、あっという間にたくさんのアクセスがあるブログに変わりました。一頃より少し落ち着いたはずなのに、それでも毎日数千件のアクセスがあることには、本当に感謝の言葉しかありません。


私のブログを読んだ方が次々といろんな方に私のブログを紹介している事案がどんどん増えていまして、方法はいろいろ(ブログで紹介、口伝えで紹介、Twitterで呟く、Facebookで知った等々、いろんな人がいろんな形でご紹介頂いています)ですが、どんどん読者が広がっている印象を受けます。


また読者の方からメールやTwitterのDM等で情報提供や質問、ご意見等を頂ける方も増えていまして、一般会員・信徒さん以外に信濃町関連の方々、また幹部、大石寺関係者の方、また法華講さん等々、さまざまな方が増えていまして、本当に嬉しいです。ありがとうございます。


さて、私はかつての創価学会員で、活動家でしたが、別に今は創価学会大石寺の教義に固執はしていません。
私の個人的な願いは、あらゆる形式に執着しない、自由な心でありたいということです。


ですから私は、仏が生命であるとも思いませんし、別段自分が成仏したいなんて思っていません。そもそも私に仏性があるなんて信じていませんし、そんなものはなくて構いません(笑)。


功徳や利益を求める心は信仰の本質であると考える方がいます。その方たちの信仰は別に否定しませんが、私には必要ないものです。私は功徳も利益も要りませんし、そんな信仰を持ちたいとは思いません。


私が願うのは一切に執着しない心であって、その姿勢があればどんな信仰であっても私は構わないと思います。
逆に自身の教えに執着し、自分が考えるように他者も考えるべきだとする信仰者がいるなら、その思想はどんな素晴らしい信仰であっても間違っていると思います。


私は法華経が唯一絶対的に正しいと思っていません。
私見ですが、私は止観の真の意義は、一切の形式に執着しないことを知ることだと考えています。


かつて正本堂の前には「久遠の灯」という火がありました。覚えておられる方もいるでしょう。
昭和47年に正本堂が建立され、創価学会員、日蓮正宗信徒なら誰もが熱に浮かされたように歓喜して、永遠に教えが続いていくと考えていました。
創価学会が考えた「永遠」はわずか四半世紀で終わりを告げました。あの当時、800万信徒と言われた信徒数から創価学会は現在まで全く信徒数を増やすことができていません。大石寺も同じです。
正本堂の地下には供養者の名簿が埋納され、1万年後まで保管されるとしていました。
今はそんなことなど、まるでなかったようになってますよね。


誰かが永遠を語ったり、どこかの教団の正統性を語ったりすることは自由ですが、永遠に続くものなど私にとっては存在しませんし、そのような執着から私は離れたいと願っています。


創価学会大石寺も、自分たちの教団組織から離れたり、退会したりするなら「地獄に落ちる」とか「謗法」であると脅しますが、私はそんなことを全く信じません。
むしろ組織から離れて、今が一番人生で幸せです。


自分で仏教を学ぶのに、別に師匠など要りません。自分が教わりたい人に教わり、あとは自分で学べばよいだけです。


自分の論理の外側を見ることができない信徒たちを、創価学会大石寺はたくさん生み出してきました。
思考の型があれば、そこに嵌らない考え方もあるはずですが、大石寺系の信徒さんの多くはそこに盲目です。
私にはそんな人たちは必要ありません。


まあそんなわけで、私は信濃町の大誓堂にも行きたいなど思いませんし、奉安堂にも別に行こうとは思いません。


私が行きたいと思う場所は、ありのままの私に会いたいと願う人がいるところ、そしてありのままの私が会いたいと願う人がいるところです。