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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『百六箇抄』はどこに伝わったのか。





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さて今回は血脈抄とも呼ばれる『百六箇抄』の写本の問題です。果たしてこれが大石寺に伝わっている血脈の証拠と言えるのかということを検証してみたいと思います。



『百六箇抄』は後世の加筆が多く、どこまでが本来の『百六箇抄』なのか判然としませんが、加筆部分の末尾の内容を全面的に信用するならば次のように相伝されてきたと考えられます。


弘安3年1月11日、日蓮から日興へ。
正和元年10月13日、日興から日尊へ。
康永元年10月13日、日尊から日大・日頼へ。



要法寺日辰の『祖師伝』には「日尊伝」の項で、日尊から日大と日頼に付嘱したとされていますから、これは『祖師伝』の記述とも一致します。
さらに大石寺日精の『富士門家中見聞』で『百六箇抄』の血脈相伝が日興から日目、日大、日順、日尊の4人に付嘱されたと書かれています。
『百六箇抄』の実際の真蹟については『二箇相承』とともに北山本門寺にあったとされています。古写本については要法寺日辰、妙本寺日我、大石寺日俊のものが現存します。





上記の点を総合すると、以下の推論が成り立つかと思います。




1、『百六箇抄』は真蹟が北山本門寺に存在したとされており、また古写本は京都要法寺保田妙本寺、富士大石寺の複数に伝わっている。

2、従って真蹟がかつて現存した場所を基準にするなら、日興の血脈は北山本門寺に伝わっていることになる。

3、仮に『百六箇抄』の末尾の加筆部分を真蹟と判断するならば、日興の血脈は日尊以降、京都要法寺に伝わっていることになる。

4、大石寺17世日精『家中抄』と要法寺日辰『祖師伝』の記述を信用するならば、『百六箇抄』の相伝血脈は北山本門寺、富士大石寺、京都要法寺等の複数の寺に伝わっていることになる。



ということで、『百六箇抄』の相伝血脈というものがいかに対外的に信用性が低いかということがよくわかるかと思います。
大石寺ではなくて、京都要法寺とか北山本門寺相伝血脈が考えた方がまだ自然かなと私などは思います。