気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本尊書写は法主一人の権能ではない。

いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今日は昨日の続きみたいな記事です。
大石寺の教義では御本尊書写は「法主一人だけの権能」と考えられているみたいですけど、日興、日目の頃はそうではないよってことです。


日蓮在世中に日興も御本尊書写はしていました。
また日興在世中には、日目だけでなく日仙も書写をしています。
また大石寺5世日道の時にも、日仙は御本尊書写をしています。
さらに言えば6世日行の時にも日郷や日妙といった人がちゃんと御本尊書写をしています。


このことは堀日亨編『富士宗学要集』第8巻に「漫荼羅脇書」として載っています。そしてそのことについて、特に批判されたことはありません。つまり法主の在世中に別の僧侶が御本尊を書写することを日興も日目も日行も基本的に容認しています。


例えば日仙書写の漫荼羅については以下の4つが残されています。


元徳4年(1332年)2月、中之坊。
建武4年(1337年)5月、法華寺
建武4年(1337年)不詳、法華寺
建武5年(1338年)2月、中之坊。



特に1332年というのは、日興も日目も亡くなる前です。すでに日興は重須に引き、日目に譲られたと考えられます。
日目の在世中、また日道の在世中にも関わらず、日仙は普通に御本尊を書写して与えています。そしてそのことによって咎められたとか批判されたという文献は私の知る限り存在しないと思います。つまり容認です。



日代に付属したり、日仙に付属したり。




いつもみなさん、ありがとうございます。
ところで、堀日亨編集の『富士宗学要集』の8巻の僧俗譲状のところをパラパラ読んでたら、こんな譲状が出てきたので紹介します。



日蓮一期の弘法白蓮阿闍梨日興(中略)甲斐国波木井山中にて之を写す。
釈尊五十年の説法白蓮阿闍梨日興に相承す(中略)武州池上。
本門寺大堂本尊裏書に『日興上人に授く、此の本尊は日蓮が大事なり、日蓮在御判』と。
日興自筆の裏書に云く、『正中二年十月十三日、日妙に授与す、日興在判』
日蓮聖人の御仏法日興存知の分を日代に付属す、本門寺の三堂の本尊は式部阿闍梨日妙廿七箇年行学たるに依り之を付属す。
東国は法華の頭領卿阿闍梨日目に之を付属す。
西国三十一箇国は法華の頭領讃岐阿闍梨日仙に之を付属す。
北陸道七箇国は法花の別当日満阿闍梨に之を付属す、門徒の大事之に如かず。
正中二年十月十三日        白蓮阿闍梨日興在判。
駿河国富士山本門寺重須にて書写しんぬ、唯授一人の相伝秘すべきなり、日妙に譲り与ふる状、高祖已来の血脈日興慥に給ふ所なり、中ん就く本門寺奉行は日目日代たるべき中に日妙は三堂の本尊を警固申すべき仁なり、末代の為に日代を証人として書き畢んぬ、我門弟等已後に於いて諍ふこと有るべからず候、此の旨に背く輩は謗法の仁たるべし、依つて置き状件の如し。
正安元年十月十三日     白蓮阿闍梨日興在判。」
(富士宗学要集第8巻より96〜97ページ)



以前、ブログにも書きましたが、素直にこの日興の譲状を読めば、日興からの相伝は別に日目だけに限られたわけではないことになります。日代、日仙、日満にもきちんと付属されています。
これが日興の真蹟と仮定するなら「唯授一人」という語が出てくるので、すでに日興はこの語を用いていたことが考えられますが、事実として複数の弟子に血脈を相伝することがあり得たことになり、現在の大石寺の教学で言う「唯授一人」という教義とは若干が実態が異なることになると思います。


追記:
こんな記事を以前書きました。

「後継者は日目か日代か」

ここで「唯授一人」という教義が後世に創作されたと私は推論しています。ただ上述の譲状が日興による真蹟であると考えるなら、すでに日興や日目の代に「唯授一人」という語は存在していたことになります。ただ不思議なのがその実態が現在の大石寺の言う「唯授一人」とは異なることは言えそうです。ここでは事実として日目以外にもきちんと付属されています。







削除された英訳『御義口伝』の序文。

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いつもみなさん、ありがとうございます。

さて今回は先日、Twitterでも書いたことですが、池田名誉会長が書いたとされる英訳『御義口伝』の「序文」の編集の問題です。


2017年8月31日の聖教新聞2面に、英訳『御義口伝』に寄稿された池田氏の序文が掲載されました。
ところが、原文と見比べてみるとおよそ1ページ半ほど削除されています。
具体的に言いますと「序文」は(ix)〜(xvi)ページの8ページで構成されており、聖教新聞掲載文で削除されているのは冒頭の1ページ半、そして最後の4行です。
画像を載せたのでご覧頂きたいのですが、


最初の(ix)ページは全てカット。
次の(x)ページは前半15行をカット。
最後の(xvi)ページは末尾4行をカット。


となっています。
つまり聖教新聞掲載文は本書の(x)ページの16行目から訳されているということです。


聖教新聞掲載文の和訳と英文をたどって読んでみたのですが、忠実には訳されていると思います。
問題はなぜ冒頭の1ページ半をカットして、それについて言及が一切されていないのか、という点です。
ただここには訳者のバートン・ワトソン氏との出会いのこと等が語られていますが、ここを指導としては適切でないからカットしたと言うのは理解はできます。


まあ必要ないからカットしたということなんでしょう。そこに悪意はあまり感じませんでした。ただ聖教新聞の媒体に載せる以上、原文と異なっていることについて「抄録」等の言及がされて然るべきです。そういった事実を曖昧にする聖教新聞の姿勢に、私はあまり良い印象を受けませんでした。さらに言ってしまえば、本年2017年4月に訳者のバートン・ワトソン氏は千葉県の鎌ケ谷市で亡くなられています。訳者への敬意や感謝、弔意を持つのならば、それについても言及されて然るべきです。


カットされている前半部分の内容を簡単に書いてみると、

①訳者のバートン・ワトソン博士は中国文学の深い理解と司馬遷の『史記』等の英訳で広く知られる翻訳者である。

②1973年に初めてワトソン氏と会った時に鳩摩羅什訳『法華経』の英訳を池田氏から提案したこと。

③ワトソン氏による英訳された鳩摩羅什版の『法華経』は人類の未来を明るく照らす力強い指標になった。

④1992年にワトソン氏と再会した折、話題が『御義口伝』に及び、氏が深い興味を示したこと。


とまあ、そんなところになるでしょうか。

本年亡くなられたバートン・ワトソン氏に謝意と弔意を示すならば、きちんと削除された部分も紹介することが仏教者の姿勢として正しいのではないかと私は思います。





「新聞啓蒙」という言葉。





いつもありがとうございます。
さて聖教新聞の営業販売のことを創価学会の会員は「新聞啓蒙」と呼んでいます。
実は私はこの「新聞啓蒙」という言葉が好きではありません。特に活動をやめてからはほとんど使ったことがありません。


そもそも「啓蒙」ってどういう意味なのか、現場の会員はご存知なのでしょうか。
辞書で引くと「啓蒙」は


「無知の人を啓発して正しい知識に導くこと」


という意味です。


なんという上から目線(笑)。
ですから「啓蒙」という言葉を使う時点で、私は「あなたに教えてあげよう」という上から目線の意識をとても感じたものです。
私はそういう姿勢を好みません。だから非活になってから一番好きではない語になりました。今はあまり使わないようにしています。ただ会員には「新聞啓蒙」と言った方が話がすぐに通じるので使うこともありますが、できればこの「新聞啓蒙」という言葉を私は使いたくありません。


だいたい「新聞啓蒙」をする側がどれだけ仏教を真摯に学んでいるのでしょうか。自身に学問的な蓄積があり、聖教新聞の内容に参考にすべき知見があれば、その説得力があるというものですが、現在の聖教新聞のどこにそんな魅力があるのでしょうか。
御書を紹介してもたかだか2行か3行の遺文の切り貼り(多くは真蹟不存で日蓮の真作なのかどうかさえわからないもの)で、せいぜい現場で使われている語の解釈に過ぎません。新しい発見も何もないのに、それで「世界一の生命哲学」なんて自画自賛


そもそも「啓蒙」という言葉の例文を考えると以下のような感じです。


「無知な人々を啓蒙する。」
「教え子は先生の指導に啓蒙された。」


さて現在の聖教新聞で、何か他人に「啓蒙できる」ことってあるのでしょうか。
私はその考え方そのものが好きではありません。簡単に言ってしまうと「啓蒙」とは「教えてやろう」という姿勢のことです。


私は誰かに「教えてやろう」なんて思いません。私がいつも考えているのは「教えてほしい」「学びたい」ということです。だから私は「新聞啓蒙」という言葉を使いたくないのです。けれど多くの創価学会の活動家は私の思いさえ推し量ることができないのかもしれませんね。





忘れ去られる池田思想。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて私は以前ブログに書いたのですが、池田名誉会長本人の持つ思想について、特にその内実が存在せず、基本的には日寛教学の敷衍かと考えています。


「池田哲学について」


ところで、これらに対する批判は大いにあって結構なのですが、最大の問題点は、池田門下を自称する人たちに池田思想の検討をする動きが全くみられないことです。


書籍代筆については例の元職員三人組が著作で暴露して広く知られることになりました。


池田氏の著作に代筆がされているとすれば、池田氏の思想はどこからどこまでなのか、そのへんの確定がなされればならないでしょう。


私としては池田氏の思想として「人間革命」思想を根本にするという発想が池田門下を自称する方たちの間にあってもよいかと思います。ただそれらが克服しなければならない問題は以下の点でしょう。


①そもそも「人間革命」という語は戸田城聖のオリジナルではなく、南原繁氏によって巷間に知られることになった概念であること。つまりこれは戸田のオリジナルでも池田のオリジナルでもない(この点については創価大学の伊藤貴雄氏が講義の中で指摘されています)。


②一人の人間の人間革命が世界を変革するという考え方の根幹として、一人一人が持つべき思想の本質は具体的に何であるのか。


③そもそも人間革命思想を根本に今まで創価学会が活動してきて、その結果、現在の信濃町、そして公明党の実態があるはずだが、その総括はどうするのか。信濃町公明党が形骸化したのだとすれば、根本とする思想の何が間違っていたのか。池田思想の持つ本質的な欠陥なのか、それとも門下たちの運用の問題なのか。 



これらの過去の総括と池田思想の再考をすべきなのは、自称「池田門下」を名乗る者たちであると思います。それがなければ、池田氏の死後に彼の思想など忘れ去られてしまうと思いますね。
要するに池田氏を批判する言説に対し、ヒステリックに反発し、罵詈雑言を繰り返して、池田批判を許さないような一部の狂信的な態度は、池田氏の思想を後世に残すことに少しも貢献しないのです。


池田大作はかつて日本中の人に知られていました。今では若い人など誰も池田氏のことなど知りませんよ。いずれ忘れ去られて消えていくと思います。評価されるべき内実がないのですから、忘れ去られるだけかと思います。




『二箇相承』のこと。

いつもありがとうございます。



さて今日は『二箇相承』について考えてみたいと思います。この『二箇相承』は大石寺日蓮日興の正統を示すものとして考えられていますけど、実際にはどうなのでしょう。



あまりご存知でない方のために書くと、『二箇相承』とは『池上相承書』と『一期弘法付嘱書』の二つからなる一連の文書です。1282年(弘安5年)に日蓮から日興に託されたとする2通の文書を『二箇相承』と呼んでいます。
創価学会版の御書ですと1600ページに掲載されています。


この文書はもともと重須本門寺(北山本門寺)に伝えられていまして、1581年(天正9年)3月に武田勝頼の軍によって『二箇相承』が奪われ、紛失したと記録されています(富士宗学要集第9巻参照)。


内容を少し書いてみましょう。

①『日蓮一期弘法付嘱書』(身延相承書)
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。
国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月 日
日蓮花押
血脈の次第日蓮日興」


②『身延山付嘱書』(池上相承書)
釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。
弘安五年壬午十月十三日
武州池上、日蓮花押」


日蓮から日興に教えが相承されたとする内容になっていますが、その内容から多くの疑義が提出されています。
例えば日付の問題です。『池上相承書』の写本には日付は「九月  日」とあり、日付が記載されておりません。
ところで、この『二箇相承』に言及した最古の文献は左京日教の『類聚翰集私』(1488年)ですが、ここで日付は「弘安5年9月13日」になっています。
ところが『元祖化導記』によれば、日蓮が身延を出発する日が「9月8日」となっています。つまり『元祖化導記』の日付と前後が矛盾してしまい、9月13日にはすでに日蓮は身延にはいないことになってしまいます。


そしてさらに根本的な問題は、この書が北山本門寺に伝わっていたという歴史的な事実の方です。
つまり『二箇相承』を日興真撰とする立場に立つならば、この相伝血脈は大石寺ではなく、北山本門寺に伝わってきたことになるはずです。
ですから私が理解できないのは、大石寺がなぜ他山の相伝書を、あたかもそれが自山に伝わっているかのように偽装しているのかという点です。


そもそも日興は日目に法を付嘱して後に重須に移りますが(1298年2月15日)、この時に『二箇相承』を日興がなぜ大石寺に残さず、日目に与えていかなかったのかが不自然です。
とすれば、この『二箇相承』が仮に現存したのだとすれば、それは北山本門寺に伝わっていたと考える方が自然であり、本来血脈は大石寺ではなく北山本門寺に流れていると考えた方が筋が通っていると私は思います。






『日興跡条条事』の「弘安2年本尊」とは何か。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は以前に書いたことなのですが、『日興跡条条事』に書いてある「大御本尊」が、果たして本当に弘安2年・戒壇本尊のことを指しているのかという検証です。


よく大石寺法華講さんが言われるのは、「日興跡条条事』という書であり、日興から日目に相伝されたと言われています。この中で「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に◯◯◯◯之を授与す、本門寺に懸け奉るべし」(宗学全書2-134)と書かれています。


まずこの書については多くの疑念がついています。真蹟は大石寺に存在するとのことですが、大石寺側が公開を拒否しているため鑑定がそもそもできないんですね。


次に問題点をあげます。
大石寺17世日精の『家中抄』の見解です。
大石寺17世日精の『富士門家中見聞』(よく『家中抄』と略されます)には次のように書かれています。


「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此ノ年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云フは是レなり、日興より又日目に付属して今房州に在り」
(富士宗学要集第5巻、154ページ)


つまり大石寺17世日精の記録によれば「弘安2年」に日興に与えられた「御本尊」とは保田妙本寺にある「万年救護本尊」のことであるということです。大石寺戒壇本尊とはどこにも書いてありません。
で、このことは実は『富士年表』にも記載されていまして、大石寺側も記録として「弘安2年に日興に万年救護本尊が与えられた」ということを公式に認めています。


※「富士年表」
(弘安2年の項目を見るとを日興に文永12年12月の本尊(万年救護本尊)を賜う」と書かれているのがわかります。



そもそも大石寺法主たる人物が、宗旨の根幹たる本尊について、その説明を誤るということが起こることでしょうか。私はあり得ないと思います。
仮に『日興跡条条事』を日興真蹟であることを認めても、そこに書かれた「大御本尊」とは17世日精の見解では戒壇本尊ではなくて、「万年救護本尊」ということになるのです。


つまり戒壇本尊が日興や日蓮の在世中に造立された根拠に『日興跡条条事』はなり得ないということです。




追記:
参考に
「万年救護本尊について」