気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

神社に奉納された御本尊

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日蓮正宗は教義として神社への参詣を禁じています。だから以前の創価学会は神社の鳥居をくぐることさえ嫌がりました。今でも多くの古参の会員さんは神社の鳥居に忌避感を抱いたりしてますよね。


ところが、大石寺法主書写の本尊で静岡県沼津市浅間神社大石寺から奉納された本尊が実在しています。
具体的に言いますと、


①宝暦14年・大石寺33世日元書写本尊
文久2年9月・大石寺51世日英書写本尊


の2体です。両本尊ともに静岡県沼津市浅間神社に存在します。


①の脇書には「授与之    本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮」と書かれていまして(画像1枚目、左端)、裏面には「我此土安穏、天人常充満、駿河国駿東郡井出村総鎮守宮守小泉甚右衛門」と書かれています(画像2枚目)。

また②の日英書写本尊は右端に「鎮守社再興成就為氏子安全」と書かれ、また左端の脇書には「授与之、駿河国東井出村、氏子中」と書かれています(画像3枚目)。


そもそも大石寺の教義で神社参詣を禁じたのは9世の日有の『有師化儀抄』に由来するものです。「他宗の神社に参詣して一礼をもなし散供をも参する時は謗法の人の勧請に同する故に謗法の人なり」とされています(『富士宗学要集』第1巻71ページ)。
ですから日元・日英両氏の神社への書写本尊授与は、この日有の謗法厳戒の原則に抵触するものかと思います。


しかしこれらの神社への本尊奉納が日蓮正宗では普通にあり得て、ことさら問題になっていないとすれば、過去に神社への本尊奉納は普通にされていたことと考えられます。あるいは日有の化儀がこの時期の宗内で形骸化していたのかもしれませんね。
いずれにせよ、日蓮正宗という教団が過去の自分たちの間違いとか矛盾点については目をつぶり、反省とか総括をすることができないという体質であることはよくわかります。この点に関しては創価学会日蓮正宗は大して変わらないということなのでしょう。



追記:1
「神天上の法門」という語が示しているように、日蓮の思想では"神"概念は切り離せないものです。
日蓮の不思議なところなのですが、他宗を批判しつつもしっかり他宗を包摂して自身の教義中に取り込んでしまうところがあります。つまり日蓮の中では法華経を根本にさえすれば、八幡大菩薩の力用も認めるし、真言の即身成仏も法華経で可能だという理屈になります。
帝釈天梵天曼荼羅中に勧請されていますし、不動愛染さえ梵字で勧請されているのはとても不思議な点かと思います。

追記:2
まあ日蓮正宗の方はこういうことを言われると「それは随方毘尼の範疇なんだ」とか言い出す(笑)。都合の良い解釈ですよね。どうして矛盾を認めないのでしょうね?
どうして日蓮正宗の方って「確かに日有の化儀抄の精神と矛盾するから、日蓮正宗自身も過去を見直していくことが必要ですね」とか、そういう誠意ある総括ができないのでしょうか。








創価学会内部の教義的な分裂について。






前回、正木正明氏の血脈観について少し書きました。


正木正明の師弟観」


正木理事長はしばらくすると解任となり、参議会の副議長という事実上の更迭になります。
この伏線として、私は創価学会内部の教義上の対立がある気がしています。


今の原田・谷川執行部は東京大学出身で、いわゆる東大閥になります。それに対する正木氏は創価大学出身の創大閥。考え方も少し違うように感じます。


東大閥の原田さん、谷川さんの考えは創価学会から日蓮正宗の教義をできるだけ払拭しておきたいのでしょう。実際、国内の会員数はもはや頭打ちで、SGI組織を強めるという観点で考えれば、日蓮正宗の教義とりわけ日寛教学の見直しは喫緊の課題です。
だからこそ宮田幸一さんとかを前面に出して、日寛教学の見直しをはかり、教義的には身延山よりの汎用性の高いものにしておきたいと考えているのでしょうね。私の立場もどちらかといえば宮田幸一氏に近いので、それらは理解できます。


その一方であまりに急に組織を変えるのも問題であるというのもわかります。逆に組織の部員さんにきちんと教学を学ばせてこなかったツケがここに出ているとも言えますが、たぶん教学を急に変えても反発しか出てこないんですね。


その結果、今の執行部に反感を抱いて、やや原理主義的に日寛教学を堅持するグループ、そして昭和54年以前の池田会長を絶対視する池田思想グループ等が台頭してきているように思います。
彼らは原理主義的で、自分たちのように思考できないグループを内部の敵と見なします。例の内部告発の三人組も池田思想の原理主義的な考え方の持ち主でしょう。ほとんど52年路線そのままで「師匠の池田先生に信伏随従」とか言い出しかねませんものね。


私としてはどちらも一つの考え方や思想上の立場に過ぎません。だからこそ客観的な史料を冷静に分析することで、日蓮思想の実像を冷静に再構成することが大切かと考えています。宮田幸一氏を評価するのは学問的な観点で、客観的な史料を提示しているためです。
教義や解釈をぶつけ合うだけでは不毛な教義論争になるだけですので、「本来の日蓮の実像とは何か」という視点で客観的な史料を提示して解釈の普遍性を述べることでしか共通理解の土台は築けないのではないか、そんなことを考えているんですね。
私がこのブログ上で日寛教学の見直しや日蓮本仏論の廃棄を訴えているのは、客観的な史料を提示したらそう解釈するのが自然だと言うことです。
私の見解を覆すだけの史料や真蹟文献が存在するなら、その時は私の意見を変えればよいだけのことですから。


東大閥が強く出られる背景にあるものは史料の客観性と弘安2年戒壇本尊の信憑性の低さなのでしょうね。だからこそ正木氏を事実上の更迭に追いやっても遠藤氏と戦っても自分たちの方が真実であると言う自覚があるのでしょう。
逆に創大閥、日寛教学を絶対視し、師弟の血脈を絶対視する原理主義的な方々は、今までの創価学会の活動が正しかったのだから今までのものに帰るべきだと言う、やや感情論に陥りがちな感じがします。彼らには文証とか史料の提示ということにあまり関心がなく、あるのは過去の功徳の体験とか実感とかいった現証優先の、やや情緒論に走りがちな部分があるようです。事実、このように考えて池田氏を絶対視する原理主義者たちはツイッターアカウントの方々に多く見られます。ただ彼らには文献的に日蓮思想との整合性を証明しようとする意志がなく、あくまで池田氏との師弟の精神とか情緒論を主張するために、創価学会以外の外部の方からは客観性を持たず、狂信的に映る傾向があります。






正木正明の師弟観。




先日、阿部日顕氏の昭和62年の発言を載せました。
「『信心の血脈』のこと。」


つまりこの時期くらいまで、創価学会日蓮正宗というのはある程度良好な関係が保たれていまして、阿部日顕さんと創価学会とは教義的にさして相違はなかったのです。
で、ここでの阿部氏の「信心の血脈」観もその後の創価学会に特徴的な考え方になります。



で、創価学会の最高幹部たちの中でも、この「在家でも血脈が流れ通う」という考え方を強く打ち出していたのが、元理事長さんの正木正明さんだったように私は思います。


正木さんが入った会合でこんな幹部指導を聴いたことがあります。もちろん宗門問題以降のことです。指導の中で彼は「五重の相対」について言及し、五番目の「種脱相対」の上にもう一つ相対があるということを述べていました。
どういうことかというと「宗門問題創価学会宗教改革を果たしたんだ」と。で、「結局正しい教義もまた腐敗し、真実の血脈は創価学会の中にしかない」と。だからこそ「私たちは"宗創相対"あるいは"僧俗相対"とも呼ぶべき新しい発迹顕本を遂げなければならない」と、大要そんなことを述べていました。記憶を頼りに書いているので細部は違うかと思いますが、だいたいそんな感じです。


ですからこの時の正木さんは、昭和62年の阿部日顕さんの考える「信心の血脈」観とほぼ同様の見解に立ち、その在家中心主義ともいうべき血脈観を推し進めていった中心的な人物であったかと私は思っています。


正木さんのような血脈観は、三代会長と会員の間に血脈が流れ通うとする、独自の教義になってきますよね。



創価学会日蓮正宗から離れながら、結局思想的に日蓮正宗の神秘的な血脈観から脱却できていないということを、ある意味で正木さんの発言は示していると思います。
そもそも相伝にしても血脈にしても、日蓮思想の中心的教義でも何でもありません。中古天台、また密教の思想です。「師子相承」とは密教で使われる言葉ですし。
そんなものを引っ張ってきて創価学会の正統性を主張しても、他宗から物笑いの種になるだけなんですけどね。



御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない。





いつもありがとうございます。
弘安2年戒壇本尊は後世の偽物なんですけど、それに対してなんかSNS上で以下のような反論にもならない反論がありました。


「1番分かりやすい証拠が石山に現存するのだ。客殿安置の二祖日興上人ご書写の譲り座御本尊だ。もし戒壇の大御本尊を日興上人が書写されたんでは無いのならいったい何を書写されたのだ? 答えてみろ」


ずいぶんと口調が乱暴です(笑)。日蓮正宗の方ってみんなこんな感じなんです。もう慣れましたけど。
この前後の言葉はあまりに口汚くてここには載せられません(笑)。どうもこの方は正応3年10月13日の日興による客殿本尊(通称:御座替本尊)が弘安2年戒壇本尊を書写したものだと勝手に信じ込んでいるようです。
そんなわけないじゃないですか(笑)。


まあ簡単に"破折"しておきましょう。
別に信じる信じないはご自由なので、あとはご自身で判断してくださいね。私を批判しても別に何も気にしませんが、口汚い言葉を使うのだけはご自身のためにもやめた方がいいと思いますよ。



弘安2年戒壇本尊と御座替本尊とでは相貌が全然違います。とても弘安2年戒壇本尊を書写したとは思えませんって。
相貌の違いを具体的に挙げてみましょうね。これじゃ「書き写した」なんて言えませんよ(笑)。


戒壇本尊には「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の文が存在しません。御座替本尊には同文は存在します。

戒壇本尊は「仏滅後二千二百二十余年」ですが、御座替本尊は「仏滅度後二千二百三十余年」です。

戒壇本尊には「提婆達多」が書かれています(中央やや右。転輪聖王鬼子母神の間です)が、御座替本尊に「提婆達多」は書かれていません。

④「南無天台大師」が戒壇本尊では主題の向かって右側下に書かれています(主題「華」の右)が、御座替本尊では「南無天台智者大師」となっていて、主題の左側に配されて位置が反対になっています(「十羅刹女」のすぐ左側です)。

戒壇本尊に書かれていない「南無章安大師」が御座替本尊には書かれています(妙楽大師のすぐ右側で天台と妙楽に挟まれる形になっています)。

戒壇本尊に書かれていない「南無天親菩薩」が御座替本尊には書かれています。

戒壇本尊では「南無迦葉尊者」となっていますが、御座替本尊では「南無迦葉尊者等」となっています。

戒壇本尊右下の「大広目天王」が御座替本尊では「大毘楼勒叉天王」(増長天の梵名)になっています。

戒壇本尊左下の「大増長天王」が御座替本尊では「大毘楼博叉天王」(広目天の梵名)になっています。


…………こんなに違うのに、本当に書写ですか? そんなわけないじゃないですか(笑)。


嘘だと思ったら客殿と奉安堂に行ってちゃんと見比べてみてください。百聞は一見にしかずと言いますし。
正応3年の御座替本尊は、弘安2年戒壇本尊を書写したものでもなんでもありませんよ。




追記:1
客殿に別体三宝形式で安置されている、通称「御座替本尊」とは正応3年10月13日に日興から日目に授与されたとされる本尊です。
もともとは紙幅の本尊ですが、現在客殿に安置されているものは宝永3年6月15日に大石寺24世日永によって板に模刻されたものです。
まあ、毎日「丑寅勤行」で拝んでいる御本尊ですが、戒壇本尊とは相貌が全く違いますので、書写とは言えません。当然のことながら戒壇本尊を証明する史料にもなり得ません。
御座替本尊の相貌については以下の記事を参照ください。

「日興の譲座本尊の相貌について」


追記:2
ここでの日興による御本尊書写に関して「増長天王」と「広目天王」を、それぞれ梵名の「毘楼勒叉天王」と「毘楼博叉天王」とする書き方は日蓮真筆本尊の例に倣ったものです。
例えば嘉元3年5月4日の日興書写本尊(東京・個人蔵)では「大広目天王」が右下に「大増長天王」が左下に書かれていますが、乾元4年8月13日の日興書写本尊(千葉真光寺蔵)では「毘楼勒叉天王」が右下に「毘楼博叉天王」は左下に書かれています。
つまり日興は御座替本尊を書いた際、日蓮真筆本尊の筆法を参考に「毘楼勒叉天王」「毘楼博叉天王」としたのでしょう。戒壇本尊などというものが当時存在していなかったことがここからもよくわかると思います。
なお「毘楼勒叉天王」(増長天)と「毘楼博叉天王」(広目天)を梵名で書く場合に左右が入れ替わるのは日蓮自身の筆法です。









「信心の血脈」のこと。




いつも閲覧いただき、本当にありがとうございます。


さて創価学会は自分たちの教団に「信心の血脈」なるものが流れ通っているから正統なんだそうです。で、日蓮正宗の方は創価学会の主張する「信心の血脈」なるものをよく否定します。

まあ私にとってはそんなもん現代では必要のない教義だと思っているんですけどね。


ところで大石寺67世の阿部日顕氏は昭和62年4月6日、御影堂にて行われた説法でこんな話をしています。
阿部日顕さん同様、昭和62年頃までは日蓮正宗創価学会と大して変わらない"信心の血脈"を主張していたのです。法華講の方は主張のコロコロ変わる日蓮正宗宗門の発言から早く目を覚ました方がよいでしょう。
文章としては少し長いです。読みにくい方は飛ばし読みして最後の結論部分を読まれてもよいでしょう。読める方はじっくりぜひ読んでいただきたいと思います。




「故に、血脈相承とは、信心の血脈がその基をなすのであり、その信心の血脈によって仏の本地甚深の境智に基づく法体法門の血脈が、一器より一器へ流れ通うのであります。(中略)しかるに、宗祖大聖人より日興上人への血脈相承を否定する者達の言として、宗祖の法門は一切に通ずる信心の血脈が大事であり、もし唯授一人血脈相承なるものが別にあるなら成仏の道は貫主一人だけに限ることになり、一般の僧俗に通じない偏狭なものであるとの批判がありますが、これは信心の血脈の何たるかに迷う偏見であります。
したがって、この主張は信心の血脈について明らかに二つの誤りを犯しております。法華大法の信心の血脈には、縦に甚深の義と、横に広大の義が同時に具わっております。甚深の義については、宗祖大聖人の甚深の寿量文底の法体に至るまでの一切の仏法を受けきるところの信心の血脈あって、初めて真実の仏道が伝承されるのであります。また、広大の義については、この信心の血脈はけっして法主一人ではなく、正義を伝承する僧俗一切が、その信条、法門について一体の信心を持ち、化儀の実践をなすところ、法水相通じて信解得道全く等しく、無量の民衆が即身成仏の本懐を得るのであります。
故に、大聖人より日興上人への唯授一人の血脈を否定する者は、信心の血脈における甚深の義に背く者であり、また、日興一人のみの偏狭な血脈と謗る者は、信心の血脈が一切を包容し、十界皆成する広大の義に盲目であることが指摘されます。(中略)
この唯授一人の血脈も、その基本的本質は前来述べる如く信心の血脈に存します。かの五老僧の人々は、この宗祖弘法の根本に対し而二不二の境地に至るべき信心の血脈が通じなかったために、宗祖本懐の法門について正理に契合せず、したがって、極意の相伝を受けられた日興上人に同心なしえなかったのであります。(中略)
いわゆる信解抜群にして宗祖二祖の信心の血脈を疑わず、勇猛精進するところ、僧にあれ、俗にあれ、僧から僧へ、また俗から俗へ、さらに広くその信心の血脈を伝えつつ展開して衆生を利益することが下種仏法の相であります。
その一大実証は、近年、正法の日本ないし世界広布の礎を開かれた、創価学会における初代、二代、三代等の会長の方々における信心の血脈の伝承であります。その指導による広布の大前進において、有智も無智も男女も嫌わず、妙法の実義をもって真の勝妙の境を得、仏国土の建設と、世界平和に貢献する活動の実証において、深く広くその意義と功徳が顕れております。この信心の血脈は、古来より法華講の信心の歴史においてもまた多く見ることができます。
要するに、日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずるのであり、かかる信心の血脈が正法の僧俗一切の行学の根底であります。故に、大聖人より日興上人への血脈が貫主一人しか解らぬ独断的、偏見的な仏法などというのは血脈の真義を解せぬ者の戯言であり、信心の一念に法水が流れるところ、有智、無智を問わず、万人のために即身成仏の功徳が実証として開かれているのであります。」
(阿部日顕氏の説法、霊宝虫払大法会、昭和62年4月6日、大石寺御影堂にて)



まあ簡単に要約しますと、法主に伝わる「唯授一人の血脈」というものも結局本質は「信心の血脈」なのであって、僧から俗に伝わるだけでなく、俗から俗に伝わることもあり得ると(笑)。そして阿部日顕さんによれば、その一大実証こそが創価学会の「初代、二代、三代等の会長の方々における信心の血脈の伝承」なんだそうです(笑)。
唯授一人の血脈相承が法主一人にしかわからないという独断的な考え方は、およそ「血脈の真義を解せぬ者の戯言」なんですって!(笑)
法華講の方は早く目を覚ましましょう。





追記:
大石寺67世の阿部日顕さんは現在退座されて「御隠尊」となっています。90歳を越えて現在もお元気ですね。
阿部日顕さんはもともとの本名を「彦坂信夫」さんと言います。お父さんは60世の阿部日開さん、お母さんは彦坂スマさんです。で、後に日開さんが息子を認知して「阿部信雄」さんとなりました。
出家されてからは「阿部日慈」さんだったのですが、法主にあがられる時、早瀬日慈さんと名前が一緒なので「日顕」にご自身で改名されています。
66世の細井日達さんが急逝されてしまったので、実際に相承があったのかどうか真相は闇の中で誰もわかりません(笑)。相承箱は今は法道院にあるんでしょうか。大石寺にちゃんとあればよいんですが(まあ「相承箱」そのものも後世の偽作なのでしょうけど・笑)。ちなみに相承箱の中身は法主の系譜書きと御本尊書写のことと御秘符に関する書付とかみたいですね。
そんなわけで、日顕さんは、本当に血脈相承があったのかと当時正信会の人たちからやいのやいの騒がれてしまったんです(笑)。その時、阿部日顕さんを立てて守ったのが創価学会首脳部だったと言われています。このへんのことは秋谷栄之助さんとか原田稔さんとかは当事者でしたからよくご存知のはずかと思います。
まあ、そんなわけで、会長を"勇退"した池田氏に徐々に会員への指導を許し、創価学会の教学をある程度認めてきた人も、実は日顕さん本人だったということです。








自身の過去の告白と総括。


いつもみなさん、お読み頂いて、ありがとうございます。



私はもともとは創価学会の大変な活動家でした。そんなに偉い幹部でもありませんでしたが、まあそこそこの役職まで持ち上げられました。
私の家は貧しかったんです。




父は活動家でしたが、収入が激減し、とても貧しい生活を余儀なくされました。
子どもの頃、母と一緒に柏原ヤス先生の指導を聴いて「貧乏の"ぼう"なんて太い方がいいんです!」なんてわけのわからない指導に(笑)涙流しながら「頑張ろうね」って言い合ってました。今考えると不思議な親子でした。


私は小さい頃から病人でした。
身体も弱くて小学校に入る前から救急車で運ばれることなんて数知れないくらいです。たくさん入院もしました。入院治療とかで母にはお金の面でたくさん苦労かけてしまいました。
母さん、あの時はごめんね。ありがとう。




だから創価学会の活動に頑張っていたんですね。確かに私は当時、学会活動をすると生き生きしていました。
そう思い込んでいただけなんでしょうね。今から考えれば。



私は活動家の頃、行者のような生活でした。正直に言えば出家したかったくらいです(笑)。
たくさんの人に選挙のお願いしたり、家庭訪問したり、布教活動したり、セミナー誘ったり、聖教新聞の営業(学会員は「新聞啓蒙」と言いますが)したり、失礼なこともたくさんしてきました。
私は活動家時代、血気盛んな性格でした。ですから顕正会さんや妙観講さんとの法論が性に合ったのでしょう。たくさんの顕正会さんや妙観講さんと法論をして、相手を仏敵扱いしてコテンパンにしてきました。本当に失礼なことを山ほどしてきました。



財務もたくさんしてきました。父も母もたくさん創価学会にお金を出してきました。私が子どもの頃、すでに我が家には聖教新聞が家に5部ほど入っていました。それに加えて公明新聞創価グラフ(今ならSGIグラフっていうのかな?・笑)やら大白蓮華やらとっていました。財務も毎年必ずやっていました。そうすることが当たり前の生活だったのです。



池田名誉会長からナポレオンの絵をもらったことがあります(正確に言うとジャック・ルイ=ダヴィッドの『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』の絵です。東京富士美術館に一枚あるやつですね)。もちろん複写ですけど、結構大きい立派な複写でした。額縁にいれて飾ってましたね。伝言があって「お母さんを大切に。しっかり勉強してえらくなりなさい」というものでした。
池田名誉会長という人は、こういう弱いものに対する優しさというか、そういう何かがある気がします。
それを人心掌握術だと呼んでも別に構いませんが、少なくとも創価学会の何百万人という人が池田名誉会長の言葉に奮い立ったわけで、私も例外ではなかったのです。



私と私の家族はたくさんの幹部やいろんな人にもお会いする機会がありました。
たとえば石田幸四郎さん、有島重武さん、柏原ヤスさん、秋谷栄之助さん、谷川佳樹さん、弓谷照彦さん、佐藤浩さん、杉野泰彦さん、川村深雪さん、久本雅美さん、竹入義勝さん…………私と私の父は本当にいろんな方とお会いする機会をいただきました。
最近では長井秀和さんでしょうか。いつも長井さんにはこのブログを閲覧頂いていて感謝にたえません。ありがとうございます。



私が創価学会の活動から遠ざかり出した頃、不思議と身体もだいぶ健康になり(笑)、経済的にも安定するようになりました。
山ほどやっていた財務もやめました。
母が心配になって「財務やらなくて大丈夫かなぁ」と私に言うんですね。母もずっと学会の活動家でしたから活動をやめることへと強迫観念のようなものがあったのでしょう。
私は「母さん、大丈夫だよ。財務なんて自由でしょ。別にやらないから罰が出るもんでもないし。大切なのは心なんだからさ」って確かそんなことを言いました。
母は安心して「よかった」って言いました。その年の財務は一口1万円だけにしました。翌年からはやらなくなりました。



母が亡くなってもうこの世にいないことは寂しいですが、少しでも母の助けになったかなあとは思っています。
創価学会には純粋な信仰者がたくさんいます。
当然のことですが、日蓮正宗にも純粋な信仰者はたくさんいます。純粋過ぎるゆえに狂信的になってしまうんですけどね。
自身の信仰の基盤を否定することはつらいことです。今までやってきたことの全否定になるからです。
私もかつては相当悩みました。
けれどそれをすることこそが大切なのだと思います。
創価学会日蓮正宗も純粋な信仰者に本当のことを教えず、ただ組織維持に躍起になっているだけの形骸化した教団に過ぎません。そこには日蓮の思想などかけらもありません。ただ日蓮の思想に似せた虚構があるだけで、本質でも何でもありません。



それらを信じることも信教の自由です。
だけどそうやって日蓮の教えとは似ても似つかないものを信じて、騙された人生を生きるのは自己責任です。
信じているものを全て否定するのはつらいことです。なかなかできません。私は経験したからわかります。
しかしそれをやらなければいけない。真実に目を向けなければいけない。本当のことに目を背けて嘘の世界に生きることが果たして本当の信仰者の道かということです。



以前ここで書いたように池田名誉会長が戸田城聖から折伏されたというのは嘘です。事実は教学部長の小平芳平さんに折伏されました。しかも御本尊を受けることを最後まで拒んで堀米日淳さんが呆れ果てていたというのが実態です。
大阪事件で池田氏が堂々と警察に出頭したという『人間革命』の記述も嘘です。事実は蒲田の自宅で逮捕されています。
牧口初代会長が戦争に反対したなんて嘘です。創価教育学会の実験証明座談会では会の初めに軍歌を歌い、戦勝祈願をしていました。
創価学会の歴史は嘘で固められています。



日蓮は少なくともあらゆる比叡山の権威にも幕府の権威にもよらなかったのだと思います。
孤立しても屹立して信仰をできる人でありたいし、そういう人と私は繋がりたい。
いつまでも組織にへばりついて、御僧侶様から与えられる功徳で満足する乞食のような信仰者に私はなりたくありません。
いつまでも組織にへばりついて、新聞の営業や選挙活動に挺身するような集票マシーンに私はなりたくありません。
私は一個の人間であり、私が信仰をすることに関してどんな教団もどんな宗派もどんな僧侶も担保を与えることはできないし、その必要もありません。


弘安2年の戒壇本尊は日禅授与本尊をもとに作成された後世の偽物です。相伝なんて存在しません。後世の創作に過ぎません。日蓮正宗の歴史もまた嘘で固められています。
創価学会日蓮正宗から離れながら未だに日寛教学に依拠し、教団自身を仏格扱いした自語相違の宗教です。
そんな教団によらなければ信仰ができない人たちは今の私にとってはどうでもよい人たちです。理性的に考えられない人たちです。
いつまでも乞食のように功徳をありがたがって罰を恐れて生きている、そんな信仰者でいることが果たして真の人間として生きることなのでしょうか。私にはとてもそんな風には思えません。
かつての私はそういう人間でした。醜い人間でした。御本尊からもらえる功徳をありがたがって失礼な折伏を展開しては傍迷惑になっていることにも気づかない愚かな活動家だったのです。


もしもそうやって功徳をもらってありがたがって生きていきたいのなら、偽物の板本尊の前に屈して幹部や僧侶の教えに沿って、地面に這いつくばっておすがりをして生きる道を選べばよいでしょう。私にはそんな嘘つきの教団なんてもう必要ありませんし、そんな功徳なんてもらおうと思いません。ありもしない相伝なんて信じません。



今の私には功徳など必要ありません。
寺は必要ありません。
嘘の世界は必要ありません。
功徳も罰も全て幻想です。
偽物の板曼荼羅など必要ありません。
大石寺など要りません。
創価学会など要りません。
すでに形骸化した過去の存在です。
龍樹の空観では一切の常住を否定しました。
どこにいっても真実の偉大な法なんて存在しません。
創価学会にも大石寺にも妙本寺にも要法寺にも久遠寺にも真実はありません。
法華経の中にも真実はありません。
日蓮の教えが正しいなんて幻想です。
それがわからない人に説明する理由はありません。必要ない人たちには伝えませんし、その必要を感じません。
常住の説一切有部とかアビダルマで満足したければそうすればよいのです。
日蓮を絶対と信じたければそうしてみればよいのです。
そんな人は地面を這いつくばって法主からもらえる功徳をありがたがって感謝していればよいのです。
そんなもの、ただの嘘に過ぎません。
今の私には功徳など必要ありません。



日蓮の中に真実はありません。
釈迦の中にも真実はありません。
そういった絶対の正しい法を"在る"と考えたのが説一切有部でした。
龍樹はその全て、その一切を論理的に否定しました。
あらゆる宗派や権威から釈迦の教えを切り離したことが大乗仏教運動の出発点です。
どこかに正しい法があるなんて幻想です。
自らの中に真実が存在しますし、自らの力で信仰の真実を選びとらなければならないのです。
日蓮は少なくともそれをしようとした人です。成功したとは思いませんが、少なくともあらゆる宗派を否定し、比叡山さえ否定し、自らの道を選びました。私はそこに日蓮という人間の屹立した信仰心を見る気がします。
それこそが本当の信仰なのではないでしょうか。
繰り返しますが、日蓮は絶対ではありません。
私も絶対なんかではあり得ません。




私が自分の実践している信仰の実際を今はあまり書きません。なぜなら私がやっていることを真実とか絶対とか思ってもらっても困るからです。
このブログの中の真実は私の中の真実にしか過ぎません。
参考にすることは自由です。読んで頂いていつも感謝しています。
けれど、自らの力で信仰の道を選び取ることをしなければ、いつまで経っても創価学会員は日蓮正宗とか京都要法寺とかあちこちの団体の間を彷徨することになりかねません。
どこに行っても真実はありません。
どこかに真実があるというのは、釈迦の説いた仏教の考えと違います。
どこにも真実など存在しないのです。
そのことがわからない方は龍樹の『中論』をぜひ読んで考えてほしいです。
そのことがわからない方は龍樹に始まる大乗仏教運動の真の意義を理解していないということを意味するのです。
全ては自分の中にしか存在しません。
大般涅槃経における釈迦の最後の指導は「自らを灯明とせよ、怠りなく修行を完成させよ」というものだったはずです。








境智行位のこと。

 

いつも閲覧ありがとうございます。

 

 
 
さて2017年2月21日付聖教新聞によると、各部代表者会議が本部第二別館内で行われたそうです。
その際に池田名誉会長よりメッセージがあり、「境智行位」の法門について言及があったそうです。それによると「境」とは創価学会の役職に託された使命にあたり、その広宣流布の責任を果たすために真剣に祈り「智慧」を尽くし、「行動」を貫いていく中で生命の「位」が輝いていくんだそうです。
 
 
どーゆーことですか?(笑)
 
 
まず論点を整理しましょうね。
「境智行位」というのは法華経迹門における十妙の最初の4つのことです。これは天台智顗の『法華玄義』において説かれたもので、如来寿量品の「我本行菩薩道所成寿命」の「我本行」を行妙、「菩薩道」を位妙、「所成寿命」を智妙と配しています。
で、この説について妙楽湛然は『法華玄義釈籤』において智には必ず境があるゆえに「本因の四義を結す」としています。このことは日寛の『依義判文抄』に出てきます。
 
 
 
むしろ池田名誉会長のメッセージの趣旨は日寛の六巻抄から『依義判文抄』の解釈をそのまま創価学会と読み替えただけなのだと思います。
どういうことかというと日寛の『依義判文抄』では「我本行菩薩道所成寿命」の文を境智行位の四妙に配した後にこれを三大秘法に配当しています。「智は必ず境あり」は「本門の本尊」であり、「智行の二妙」は「本門の題目」であり、「位妙」は「戒壇を顕す」のだそうです。
それで日寛の結論は「本因の四義は即三大秘法なり」と結論づけています(『富士宗学要集』第3巻宗義部[2]より128〜129ページ)。
 
 
 
つまり天台の法門も三大秘法の中に収まるとしたのが日寛の教学なんですけど、それを単純に創価学会の活動の中に迹門の十妙の最初の4つの徳が収まっていると拡大解釈したに過ぎません。
ここからわかることは創価学会の教学も、池田名誉会長の教学も六巻抄をはじめとする日寛の教学の二番煎じに過ぎないということです。
 
 
 
日寛の教学は基本、恵心流の中古天台口伝法門の焼き直しに過ぎません。そんな天台口伝法門を引用してまた今度は創価学会に読み替えただけなら、天台恵心流、そして日寛とやってることが何も変わらないではありませんか(笑)。
ただ問題は昨今の創価学会日蓮正宗信徒の教学力の低下は目に余るものがあって、これだけ書いてもきっと何も理解できない方がほとんどだろうということです(笑)。あまりの教学力の低さに他宗から失笑の的になっていることさえも理解できないのは困ったものですが。
 
 
 
六巻抄をもとにしつつ指導したのでしょうが、六巻抄ということを聖教新聞紙上に載せない、そして六巻抄由来、日寛由来ということも伏せて、あたかも創価学会独自の教学であるかのように語るとすれば、それは日蓮正宗が恵心流の中古天台口伝法門を盗用して教義を成立させた教義の偽装と大して変わらないですね。
 
 
 
ただここから予想される最も重大な問題は、日寛の「境智行位は三大秘法の中に収まる」という解釈から、あたかも「創価学会の中にこそ本当の三大秘法がある」という風な独自説を暗に学会員に浸透させようとしているように私には思えてならないという点です。