気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

仏教は生命論ではない。




いつも閲覧ありがとうございます。




「仏とは生命である」と主張したのは戸田会長以来の創価学会の考え方です。
別にそう考えるのは思想・信条の自由なんですけど、私はそうは思いません。
なんで「仏が生命」なんですか? 違うと思いますけどね。



以前にもブログで書きましたけど、仏を宇宙に偏在する生命とする考え方はウパニシャッド哲学におけるアートマンブラフマンとの合一という思想です。


「宇宙生命論って何ですか?」


周知のことですが(知らないのは創価学会日蓮正宗だけです・笑)、ウパニシャッド哲学は釈迦以前のインド思想であり、その後の仏教に影響を与えています。確かに真言密教にはウパニシャッド哲学の影響が看取されます。日蓮正宗お得意の「血脈」とか「師子相承」という概念も本来ウパニシャッド思想から密教を経て伝わって来たものです。




哲学思想としての「梵我一如」思想ですが、「梵」とはブラフマン brahman のことで宇宙の本体のことです。「我」とはアートマン atman と言って個人の本体として認識された概念です。ウパニシャッド哲学ではブラフマン側から教えを説いてもアートマン側から教えを説いても、結局は一元的世界観に究極されます。


ブラフマン(梵)とは本来中性名詞で、後に男性名詞としてのブラフマンが成立し、ヒンドゥー教の主神となりました。ブラフマンは後に仏教において「梵天」として擬人化されて説かれています。「大梵天王」とか「梵天様」としてご存知の方も多いでしょう。手塚治虫の『ブッダ』ではヒゲもじゃのおじさんとしてブラフマンが出てきますよね。
アートマン(我)とは本来「気息」を意味していまして(ドイツ語のAtem, atmen は同語源の語のようです)、生命の主体と見做されて「生気」を意味するようになります。その後、生活体の意味「身体」とか「胴体」の意味になり、また他人と区別された「自身」から、自己本質的な意味である「本体」とか「霊魂」とか「自我」を意味するようになっていきます。



ところでこの宇宙の本体ブラフマンと個人主体であるアートマンとの合一を説く一元的思想はすでに『リグ=ヴェーダ』中にも見られます。しかしながら理論的根拠が弱く、ウパニシャッドにおいてその同一視を理論づける一元的世界観が完成されました。



ですから自身の生命の中に宇宙に内在する仏の命があるとする考え方、また御本尊に祈ることでその生命と合一できるとするような考え方は、ウパニシャッドにおける梵我一如の考え方と変わりません。
したがってその考え方は、日寛の五重の相対で言えば内外相対の外、つまり"外道"の教えになります。



私は日寛教学の立場をとりませんから、ウパニシャッドを「外道」と貶めているとしか思えない「五重の相対」という教説は採用しませんけど、少なくとも戸田城聖の説く生命論というものはウパニシャッドの梵我一如の思想となんら変わるところはありません。それが仏法の究極だとするなら、その教義の再検証は喫緊の課題でしょう。




日蓮の言葉で大御本尊が「胸中の肉団に存在する」というものがありますが、果たしてこれは戸田会長の言う生命論ってことなんですかね? そういったことを無反省に教義として受け入れるのは如何なものかと思います。
日蓮はここで胸中の肉団に御本尊たる九識心王真如の都があるとしていますけど、それって日蓮の中で現代でも有効な教義なんですかね。
むしろここでは法華経を受け持つことで5種の修行を具足するという結論の方が重要かと思いますね。それにこの『日女御前御返事』には真蹟が存在しません。
もちろん日蓮自身の思想にも真言の影響がありますし、『日女御前御返事』中の言葉を生命論として考えるのも思想上の自由です。
けれどそれはウパニシャッドの思想と変わらないということであり、またそれをわかった上で教義として採用しているのか、それとも戸田城聖とか池田名誉会長とかが言っているから無反省に受け入れているのか、どっちなのかってことです。




私個人の見解を述べれば生命論なんてのはどうでもよいことです(笑)。
どーでもいいんです。そんなの。
たとえば今の創価学会員にとって牧口価値論なんてハッキリ言っちゃえばどうでもいいでしょ。どーでもよくないならちゃんと価値論を勉強しなきゃダメなんじゃないっすか。
私にとって戸田会長の生命論なんてどーでもいいです。底の浅い思想だと思います。
題目をあげると宇宙に偏在する生命と合一できるんですって? そんなわけのわからないギャグはやめてくださいよ〜。
日蓮正宗の方が私のブログを見て「この人は何を根本にするのか、胸中の肉団の本尊か」なんてことをTwitterで言われているようですが、そんなわけないじゃないですか(笑)。ブログよーく読んで考えてくださいませ。わかんないなら大石寺の作りものの本尊で満足してくださいませ。信仰は自由ですから。
日蓮正宗の方も創価学会の方も思考停止してしまっていて、あまり私の論について理解しようしてもできないかもしれませんから。

















『一代聖教大意』から見る日蓮の一念三千説の理解。






いつもありがとうございます。
私がこのブログで「一念三千の日蓮の理解は天台智顗ではなく妙楽大師湛然の説に由来する」ということを以前書きましたが、そのように考えるのはなぜかと思う方もいらっしゃるでしょう。
日蓮の『一代聖教大意』という述作がありますが、そのことはここに書かれてあります(他にもあるんですけどね)。
『一代聖教大意』は真蹟が現存しませんが、保田妙本寺に日目の写本が現存していまして、録内にも入っていますので、比較的信用性の高い遺文かと思います。


この中で次のように日蓮は述べています。



「問うて曰く妙法を一念三千と言う事如何、答う天台大師・此の法門を覚り給うて後・玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説き給いしかども此の一念三千をば談義し給はず、但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしませしなり(中略)此れを妙楽大師末代の人に勧進して言く『並に三千を以て指南と為す◯請うらくは尋ね読まん者心に異縁無かれ』」

「止観の五に云く『夫れ一心に十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り』文、妙楽承け釈して云く『当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に偏し』文、」
日蓮『一代聖教大意』創価学会版御書全集、402ページ)



簡単にわかりやすく書きますと、

「天台大師はこの一念三千の法門を悟ってすぐに述べなかったんです。わずかに摩訶止観の中にちょっと出てくるだけなんですけど、その文を受けて妙楽大師は『まさに知るべきだ。これこそ身土不二の一念三千である』と解釈したんです」

ってことです。

要は天台智顗は明確に「一念三千」とは言ってないんです。言ったのは妙楽湛然です。
で、ここ読んでわかるように、日蓮の一念三千説の摂取は湛然の解釈を通じて得たものなんですね。
ですから智顗の思想とはやや温度差があるんです。ですから龍樹の思想とも当然温度差が出てくるわけです。


私の考える日蓮の限界は実はこのへんです。もちろん時代的な制約ということもありますけど、日蓮最澄の後継者として比叡山の法華一乗思想の再興を考えていたことはわかります。けれど日蓮法華経における即身成仏の根拠を湛然由来の一念三千としてしまったんですよ。


このため天台智顗の『摩訶止観』が思想的に持っていた一念と三千との絶えざる変転のような運動性は失われ、教義としての湛然の一念三千説が『開目抄』において即身成仏の法華経の原理として使われてしまったのです。悪く言ってしまえば即身成仏概念の"盗用"です。それを根拠づけるのに湛然の一念三千説を「文の底にある」とする考え方は私にはあまり説得力を感じないんですね。
まあ日蓮は『立正安国論』を読む限り、恐らく比叡山の凋落ぶりを見て法華経思想の再興を目指していました。ですから中国天台宗中興の祖とも言うべき湛然を根拠として立論することは故なきことでもありません。それらは日蓮自身の宗教的使命感からなされたものだと推察できます。


ですからそこの部分がまさに日蓮の思想的な限界なのだと言うことです。
現代における日蓮の思想の有効性がもしもあるとするなら、それは曼荼羅における諸教の包摂性であり、法華経の題目の下に一切経を位置付けようとした包摂性の根にある真言曼荼羅の理解にある気がします。





追記:
私は別に日蓮が正しいと思っていません。
もっと言ってしまうと、法華経の中に真実があるとも思いませんし、釈迦の中に真実があるとも思いません。
そうではないのです。龍樹が指摘したように絶対的な真実の法というものは存在しないのです。どこかに偉大な三大秘法みたいな法が存在するなんてそんなのは幻想に過ぎません。
釈迦の教えとはそういったことを全て否定し、自らを灯明とせよということだったのではありませんか?
創価学会から日蓮正宗に行っても、保田妙本寺に行っても京都要法寺に行っても真実の教えは存在しません。日蓮宗身延山にも別に真実の教えなんて存在しません。当たり前のことですが、比叡山に行っても別に真実の何かがあるわけでもありません。
真実の偉大な法が絶対的に存在するというのは説一切有部の考え方であり、その欺瞞性を徹底的に喝破したものこそ龍樹でした。
偉大な三大秘法が存在するというのは幻想です。そのことに早く気づき、自らを灯明とし、自らの信仰の道に生きることを選ぶべきだと私は思います。
私が考えるように考える必要は別にありません。私の考えが正しいなんて私自身思っていません。検証をし、批判を受け入れ、より深い解釈へ常に更新されるべきですし、思想の定点に止まるべきではありません。
思想は教理化して固定化した瞬間から既成の権威となりドグマ化するものです。
私が考えることを教えても構いませんが、それをただ単に受け入れるだけなら間違った教えになりかねません。単なるドグマと堕するからです。
創価学会の方も日蓮正宗の方も、何か絶対的なものを求めて安心したいのかとは思いますが、どこに行っても真実はありません。
真実を自らの内に求めて、自らの信仰を形成していかなければなりません。そのことに多くの方が早く気づいてほしいと私は願っています。











池田名誉会長の江戸弁。





池田名誉会長のスピーチを本部幹部会の同時放送でもよく聞いてましたが、とても聞きづらかったです。
なんでかっていうと、



名誉会長の言葉って「江戸弁」なんです。
そりゃ聞き取りづらいわけですよ。



江戸弁って何だかわかりますか?
いわゆる東京都中心部(以前の江戸)で使われていた日本語の方言なんです。
昭和3年生まれの御大・池田名誉会長のスピーチはまさに江戸弁の生きた史料みたいなものです。江戸弁の話者は昭和30年代くらいまでの生まれの方にしかいませんから、名誉会長のスピーチは江戸弁の特徴を聞き取るのに非常に貴重なものかと思います。


池田名誉会長のスピーチが「聞き取りにくい」と言う会員も多いのですが、その原因は多分に御大の"江戸弁"に原因があります。ま、一時期、歯の治療もしていたみたいなので、そのせいで聞きづらいという時もあったみたいですけど。



江戸弁の特徴を挙げてみます。
スピーチを聞いたことがある人なら「ああ、そうだそうだ」と頷けることと思います。名誉会長の言葉はかつての江戸弁の特徴を如実に伝えるものです。



「東」→「シガシ」
「羊」→「シツジ」
「執事」→「ヒツジ」
「大臣」→「デージン」
聖教新聞」→「セーキョースンブン」
「獅子身中」→「スススンチュウ」




宝島社から出ていた『となりの創価学会』の中で池田名誉会長のことを「フーテンの寅さん」と論じた論考がありましたけど、故なきことではなくて、確かに寅さんみたいな下町の日本語が池田氏にはあるんですよね。



「みんなコースンルフをめざすて、スススンチュウの敵とたたかおう。そすてさ、みんなデージンになって、セーキョースンブン読んでがんばろ! 賛成の人?」



まあ、そんな日本語だから聞き取りづらいのも当たり前ですよね(笑)。私は名誉会長の庶民的な江戸弁がほのぼのしていて好きでしたが、わかりにくい人がいても不思議ではないかと思います。実際、私も正直聞き取りにくかったことを思い出します。







他宗批判と諸教包摂ということ。

 
 
 
 
 
毎回多くの方に閲覧いただき、ありがとうございます。さて今日の投稿は「日蓮の他宗批判と諸教の包摂性について」です。
 
 
 
文永11年11月20日の『曾谷入道殿御書』の時期から日蓮真言への批判から明確な台密批判を行うようになります。ここで日蓮は慈覚大師円仁への批判を強め、大日経等の真言比叡山に持ち込んだことにより、比叡山に悪義が生まれたとしています(注:実際は円仁らによる天台教学への密教の導入は正しく最澄の意志であったわけで、最澄密教を導入し、総合仏教の道場・戒壇として比叡山を構想していました。ですからここの日蓮の批判は的を逸していると言えます)。
つまりこの時期の日蓮の思想において一切の既成宗派は批判の対象になったということを意味します。
つまり日蓮は立宗宣言以降、天台教学の法華経最第一の思想を堅持していましたが、後年は天台宗そのもの、台密そのものさえも批判の対象となります。
 
 
 
曼荼羅を顕すようになるのがちょうど文永後期の頃です。日蓮はこの時期に密教を参考にしつつも、文字によって諸教、諸仏、諸神を法華経の題目の下に包摂させていく、日蓮独特の法華経の世界観を表現していくことになります。
 
 
 
修学時代の日蓮が見たものは比叡山の衰微する姿であって、真実の教えが荒廃し、釈迦の心が失われていくという姿だったのでしょう。そしてその原因を日蓮法然の『選択集』による念仏の影響だと考えました。
 
 
「而るに法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の経典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し」
日蓮立正安国論創価学会版御書全集、23ページ)
 
 
 
つまり仏教の正統であるはずの比叡山が凋落・形骸化してしまった「一凶」こそ法然の『選択集』の念仏であり、誰も彼も阿弥陀以外に仏はいないと思うまでになってしまったことをここで日蓮は指摘しているわけです。
 
 
 
比叡山の荒廃を目の当たりにした日蓮はまず法然の念仏批判から始め、教理として法華経の題目の口誦を進めていきます。
「念仏」ではなく「法華経の唱題」、そして「西方の極楽浄土」は「娑婆世界則浄土」であり、「阿弥陀仏教主」ではなく「釈迦仏教主」とするのは、批判をしつつも相当程度に念仏を意識した批判と教理の確立だったと考えられます。
ここから推測できるように、日蓮の思想形成には「批判しつつその宗派から摂取する」という傾向が見て取れるんですね。法華経の題目を唱えるという修行法は日蓮以前からすでに存在していましたが、それを修行の中心として確立し、ただ題目の一言に功徳が包摂されるという考えは口弥念仏の換言ともとれ、また『守護国家論』では浄土の意義を娑婆世界に見出しています。
つまり法華経の名の下にあらゆる宗派を批判しつつ、あらゆる宗派を包摂していく、そういう意志があるように感じられます。
 
 
 
たとえば真言に対する日蓮の態度もそうですね。
最初に書いた台密批判に戻りますが、『守護国家論』(正元元年)の時期の日蓮は明確に法華真言未分の立場でした。それが最初の真言批判に入るのが文永6年の『法門申さるべき様の事』です。台密批判に入るのは文永11年の『曾谷入道殿御書』以降になります。
しかしながら若き日の日蓮真言密教を学ぶ修行僧でした。覚鑁の『五輪九字明秘密義釈』を書写し、『戒体即身成仏義』を著した若き日蓮は明確に真言の徒でした。
そして後年、日蓮真言を批判する時期、文永後期から「曼荼羅」を顕すようになります。曼荼羅そのものが真言由来の語であり、しかも曼荼羅中には不動と愛染が梵字で勧請されています。曼荼羅の中には大日が勧請されて書かれているものも実存しますし(文永9年・平賀本土寺曼荼羅)、『報恩抄』では大日如来は多宝の「郎従」とされています(御書全集310ページ)。そもそも「即身成仏」という概念は空海の造語であり、空海の『即身成仏義』によって表された概念です。
つまり日蓮は他宗を批判しつつも、他宗の教理を積極的に自身の中へ包摂し、法華経の題目を論理武装して先鋭化していったと考えられます。
日蓮は『五輪九字明秘密義釈』を書写したことからわかるように台密の灌頂を受けていたはずですが、ところが日蓮は後年に真言を手厳しく批判します。
日蓮の思想形成には、手厳しく相手を批判しつつも、その相手の思想を法華経の名の下に自身の思想中に包摂してしまうという不思議な二重性が存在するのです。
 
 
 
法華一乗思想をもとに総合仏教の道場として比叡山を構想していた最澄は、本格的な密教の摂取が叶わず、これを円仁と円珍に託します。
最澄法華経を中心とした総合仏教を構想していました。そして日蓮最澄の後継者たることを自称していました。
ただ諸教の包摂の方法が日蓮の場合、かなり特異です。批判しつつもその方法を摂取し、曼荼羅のもとにすべて生かしきっていく。つまりそれこそが「妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」(『日女御前御返事』)ということの意味なのかもしれませんね。
 
 
 
創価学会員や日蓮正宗の方は、日蓮の教えが純粋な法華経の純粋な唯一の法だと信じる方が多いようですが、自分たちの信じるものの中にも他宗の影響下にあるものが多く包摂されているということをきちんと知るべきであると私は思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

池田名誉会長の原子力についての考え方。






2012年、池田大作名誉会長はSGI提言の中で次のように書いています。


「私は30年ほど前から、原発で深刻な事故が起こればどれだけ甚大な被害を及ぼすか計り知れないだけでなく、仮に事故が生じなくても放射性廃棄物の最終処分という一点において、何百年や何千年以上にもわたる負の遺産を積み残していくことの問題性について警鐘を鳴らしてきました。」
池田大作、2012年SGI提言より)


ところが、アーノルド・トインビー氏との対談において池田会長は積極的な原子力推進派でした。
トインビー対談から池田会長の発言部分を引用しましょう。



「今後のエネルギー資源問題を考えるとき、原子力の平和利用が一つの重要な解決策になるものとみられています。(中略)
原子力といっても、むろん鉱物資源の一種である以上有限であり、将来いつかは枯渇する時がくるでしょう。しかし、世界的にはこれからといってよい分野であり、その単位当たりのエネルギー量からいっても、石油、石炭に代わる動力源として、大いに期待できると思います。
しかしよく知られているように、原子力は非常に危険な、諸刃の剣ともいうべきものです。一方では、人類の福祉増進に限りなく貢献できると同時に、他方では、その用途を誤れば、人類を地球上から抹殺してしまう危険性をもはらんでいます。(中略)したがって、原子力の平和利用それ自体には異存はないにしても、その困難、障害を除去するために、今後非常な研究と努力とが必要とされるでしょう。」
(A・トインビー/池田大作『二十一世紀への対話』(3)聖教文庫版、80〜81ページ、1980年)



確かにここで池田会長は原子力の「諸刃の剣」ともいうべき危険性については言及しています。しかしながら文の前後からも判断できるように池田氏は積極的な原子力利用論者であり、ここでいう危険性ということについても、むしろ原子力の軍事への転用の危険性についてここでは語られており、原子力そのものへの否定というニュアンスは感じられません。基本的に「原子力の平和利用それ自体には異存はない」のですからね。


トインビー氏と池田氏の序文からもわかるようにこの対談が完成したのは1974年(昭和49年)です。
2012年の提言によれば池田氏は「30年ほど前から」「警鐘を鳴らしてきた」そうですが、2012年の30年前というと1982年です。ということは池田氏はトインビー対談以降80年代に入ってから、このトインビー対談の考えを覆す思想的展開、または原子力政策についての考えの変化があったということなのでしょうか。
そんなものないと思いますよ(笑)。だってほとんどの論点について池田氏は「トインビーと共通の見解に達していた」と言っていたではありませんか。私が通読した限り、トインビー対談で両者が意見の一致をみていない項目は「自殺と安楽死の問題」の一点のみで、あとはほとんどの論点で両者はほぼ共通の見解に達しています。



創価学会は過去の総括ができない組織だと私は考えていますけど、ここまで来ると本当に大衆迎合というかポピュリズムとさえ言ってよいと思います。
池田名誉会長はかつて原子力推進派だったではありませんか。その発言の責任はないんですかね。それをすり替えて「私は30年以上前から警鐘を鳴らしていた」なんて嘘だと思いますよ。


まあトインビー対談を実質的に書いたのは第一庶務と書籍代筆チームだったかと思いますから、むしろ信濃町の責任や体質の問題が問われそうですね。



追記:
やや手厳しく書きましたけど、本当はこのトインビー対談はなかなか読んでいて面白いです。現代でも通用する問題が多く、これをもし信濃町の書籍代筆チームが作成したとすると、当時の原島嵩氏らの熱心さというか、思想的努力さえ感じられます。
間違いは別にあったっていいんだと思うんです。大切なことは「あの時はそう言ってしまったけど、今考えると間違っていました」って素直に過去を認めて総括・反省できればいいと思うんですよね。そういう真摯さって池田名誉会長や創価学会本部の方にはないんですかね。









『松野殿御返事』と浄土思想。

 

 
 
 
 
いつもありがとうございます。
「十四誹謗」についていろいろ考えていました。
これ、創価学会日蓮正宗でよく使われる言葉です。とりわけ最後の「軽善、憎善、嫉善、恨善」の四つを決して消えない謗法行為として、お互いに謗ったりしないように厳しく戒めています。
 
 
 
ところで、この「十四誹謗」なる言葉が出てくるのは日蓮述作では私の知る限り『松野殿御返事』(十四誹謗抄)と『念仏無間地獄抄』の二つです。しかも両方とも録外であって真蹟は存在していません。
そしてもっと重要なことですけど、この十四誹謗説って別に日蓮のオリジナルじゃないんですよ。
この「十四誹謗」は天台宗第6祖の妙楽大師湛然の『法華文句記』にある表現です。
 
 
 
もちろんそれだからといって、それが日蓮の発想ではないなんて結論づけるのは安直かなと思います。
ただ日蓮の思想形成に湛然の影響が大きいことはここから考えても疑い得ない気はするんですね。
 
 
 
そもそも「一念三千」という概念を最初に「無上の極説」として宣揚したのは湛然です。彼の『止観輔行伝弘決』は天台智顗の『摩訶止観』に対する現存最古の注釈書ですが、この中で明確になった概念でもあります。
湛然という存在は、唐代における中国の天台教学復興運動の一つとして現れた人物です。その中でどのように天台智顗を解釈するか、その一定の形を示したという意味で湛然は評価されるべき人なのかもしれませんね。
 
 
 
ただこの「一念三千」概念について天台智顗は『摩訶止観』中で一念と三千の関係性について一度述べただけです。ですからこれを智顗の湛然の言うような「極説」とすることは現代ではやや躊躇されるんですね。
そしてまた「十四誹謗」概念も、本来的には湛然に由来する天台教学における概念であるということです。日蓮の『松野殿御返事』では法華経の不軽菩薩の事例を引用して「互いに誹り合わないように」とされています。そして「十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし」とされています。
 
 
 
 
日蓮の思想形成にはいろんな影響が見られます。その具体的なヴェールを真蹟遺文から一枚一枚剥いでいって残るものを考えていかないと日蓮の実像にたどり着けない気がしています。
とりわけ私のようにもともと創価学会の活動家だった人間など、頭に余計な観念が洗脳の末に張り付いてしまっています(本当です・笑)。余計な固定概念を捨てて客観的に見ていくことが特に私には大事なのでしょう。むろん完全な客観性などというものは存在しませんけど、そのような自分を可能な限り客観視する姿勢こそ私の自分の過去への総括でもあるんですね。
 
 
 
この『松野殿御返事』の最後はとても印象的です。日蓮がここでは死後の世界のことを語っているんです。さながら浄土思想のようです。
まあ『松野殿御返事』は真蹟が存在しませんから、安易に日蓮述作とも言えません。ただここでの浄土思想のような発想も再考の余地がありそうです。
 
 
 
法華経と「阿弥陀仏」の関係は実は結構深いものです。
創価学会日蓮正宗は「阿弥陀仏」という名前を聞くだけで拒否反応を起こしたりしますが(他宗を無節操に批判・排撃してきた弊害でしょう)、実は法華経阿弥陀仏はちゃんと出てきます。薬王菩薩本事品第23には法華経を修行した功徳として阿弥陀仏の浄土に向かうという表現が出てきます。
ですから法華経の功徳は法華経薬王品によれば「阿弥陀仏の浄土に行けるという功徳」なのです。そう法華経に書いてあります。
 
 
また天台宗でも念仏は行われていたんですよね。9世紀に天台宗第3祖の円仁が常行三昧に念仏を導入します。ですから慈覚大師円仁は天台宗における浄土思想の出発点となっているんです。
そもそも龍樹は『十住毘婆沙論』において阿弥陀仏の浄土思想の功徳を強調していますから、比叡山を総合仏教の道場と考えた最澄の構想から見ても、念仏を天台教学に導入することは抵触しないと思います。
 
 
なんでこんなことを書いているかっていうと、日蓮の思想の中に「娑婆即浄土」とか「娑婆即寂光」というものがあると思うからなんです。
つまり浄土というものも本当は衆生の中にあって菩薩によって浄められた娑婆世界こそが実は寂光なのだと。
辛嶋静志氏の研究などを読むと、鳩摩羅什は大乗仏典漢訳の際、仏国土という視点から浄土という訳語を当てているようで、鳩摩羅什の中では浄土=仏国土というのは前提だったようです。
 
 
当然、薬王菩薩本事品にも阿弥陀仏の功徳がでてくるわけで、そこの整合性をどう保つのかということが日蓮の思想にはあったはずなんです。おそらくはそれこそが「娑婆即浄土」の考え方なのかもしれません。
上記の『松野殿御返事』(十四誹謗抄)の末尾の結論には死後の浄土世界の表現について(正直これはいかがなものかと思うんですけどね・笑)、少なくとも日蓮思想の中になんらかの娑婆即浄土思想があって、その淵源を辿りたいというのが今の私の課題です。
 
 
 
 
 
 
 
 

信仰と学問とは別とはどういうことか。





創価学会の方よりむしろ日蓮正宗の方に多いのですが、

「そんなこと言われても、学問的な研究と信仰は別の次元の話です。私は戒壇の本尊を信じますし、御法主上人猊下を信じます。」

と言われる方がいます。


別に信仰は自由です。
純粋な信仰心を持つことはまことに結構なことです。



しかしですね。私がここで書いていることはそういうことではないんですよ。
要するにどんなに取り繕っても偽物は偽物だし、偽作は偽作だし、嘘は嘘なんです。
嘘の教義とか偽物の本尊なんて信じるに足るんですか?ってことです。



例えば金メダルを勝手に偽造して「これが金メダルだ!」なんて騒いでいるようなものです。
金メダルは国際オリンピック委員会が作るから意味があるんでしょ。
要するに金で作られたらそりゃ金メダルは金メダルなんでしょうけど(笑)、それは本当に信頼性のおけるIOCのものなんですか?ってことです。




日蓮が作ったわけでもないものを日蓮真作と偽って、これこそが由緒ある「金メダル」だと言い張って果たしてその信仰は信頼性に足る日蓮の教えと言えるんですか?ってことです。



本来、教学というものはそれらを検証し、その確証を深めるためのものです。
ところが、教団が提示する教学と言うものが、真実を覆い隠し、信徒を騙し、嘘をついて、ただ信徒を隷属させるだけのものに過ぎないなら、いったい何のための教学なんですかね。


目を覚ましましょうよ。
教団に都合の良い教義なんて要りませんよね。
皆さん方は日蓮正宗のために信仰しているのですかね。
自身が幸せになるためだったり、より良い人生を生きるために信仰の道に入ったのではありませんか?



どこの誰が作ったのかわからない金メダルを金メダルだと信じて、創価学会正本堂まで建ててしまいました。
もうそういうのやめにしませんか?
嘘はどこまで言っても嘘です。
嘘をついている教団についていくのも自由ですけど、何の誰の教えを奉じているのでしょうね。
日蓮正宗は自分たちの教団を仏扱いするどこかの宗教法人とレベル的に同じであることをよく知るべきです。
自分たちの思想の浅はかさに自ら気づくこともできず、自分たちの思想を振り返ることもできない。そういう姿勢を「盲信」というのだと思いますよ。
嘘を平気でついて、日蓮真作だと偽る嘘つきに日蓮を語る資格などありません。日蓮を歪める否定行為だと知るべきです。


そして日蓮正宗のもっと罪深いことは、論理的矛盾を指摘されても「私は間違っているかもしれません」と誠実に答えることができないことです。
間違いはどこまでいっても間違いです。
嘘はどこまでいっても嘘です。
真摯に論理的矛盾に向き合い、自身の信仰の姿勢を省みることこそ、信仰の真実の敬虔さなのだと思いますよ。