気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

ブッダは一人ではない。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて『ダンマパダ』には次のような一節があります。


「諸の悪を作すことなく、衆の善を奉じ行い、自らその意を浄くすること、これは諸のブッダの教えなり。」
(『ダンマパダ』183節)


釈迦は確かに「ブッダ」と呼ばれましたが、ここで「諸のブッダ」とあるように、実は釈迦は自分以外にも「ブッダ」が存在していることを認めています。


仏教の興隆以降、歴史的にブッダはゴータマ・シッダルタ一人を指すようになりますが、実は「ブッダ」という語は「目覚めた人」という意味であり、釈迦以前にも「ブッダ」と呼ばれた人は存在していました。
例えばジャイナ教マハーヴィーラは仏教から見れば「六師」の一人ですが、「ブッダ」と呼ばれていました。つまり「ブッダ」はもともと仏教以前の諸宗教においても普通に用いられた尊称であったわけです。


それが釈迦の存在、そして仏教成立以降に「ブッダ」が「釈迦」一人を指すようになっていきます。


仏教において、「ブッダ」が再び釈迦以外のことを指すようになるのは、北伝仏教以降のことで、例えば『法華経』や『阿弥陀経』などで、この世界と別の世界に数多くの「ブッダ」が存在することが説かれるようになります。


ですから、本来「ブッダ」とか「仏」とか「仏性」と呼ばれるものも、本来釈迦の時代に使っていた概念から変容して、大乗以降に成立した概念なのかと思っています。