気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

加持祈祷。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「加持祈祷」についてです。



私は自分の考えで、題目の五字七字に一念三千の観法があると捉え、観心の修行として題目を捉えようとしているのですが(これはあくまで私見です)、日蓮にはどこかそれとは別に加持祈祷の思想があるように思います。


例えば日蓮の『観心本尊抄』や『唱法華題目抄』を読むと、どこか題目が末法の観念観法の修行の代替として主張されているように思いますが、『祈禱抄』等を読むと明らかに加持祈祷を思わせるんですね。


『祈禱抄』(身延曽存)では、後鳥羽院承久の乱の挙兵に際して比叡山に戦勝のための調伏祈祷をさせたことが述べられています。


承久の乱について」


以前ブログで書いたように、この調伏が功を奏さず、なぜ上皇方が守られなかったのかということが日蓮の既成宗教への疑問になったわけなのですが、ここで日蓮真言の法によって祈祷したため、朝廷方が敗北したと考えています。
ところが、これに代わって主張される法華経の行者の祈りというのは、基本的に「加持祈祷」であり、「法華経を根本して祈れば叶う」とする考え方です。


加持祈祷は仏教伝来以降に行われるようになったものです。しかし天台智顗の『摩訶止観』等を読む限り、およそ加持祈祷の考え方は私には思えません。加持祈祷が広く行われるようになるのは密教伝来以降、平安時代からのことでしょう。


日蓮は恐らく法華経を根本とした加持祈祷を考えたでしょうし、もしも『立正安国論』が幕府に用いられていたならば、国家安寧の調伏祈祷をしたことと思います。極楽寺良観(忍性)と日蓮が祈雨の対決をしたことなど、まさに加持祈祷の考え方でしょうし。


私は創価学会大石寺の現世利益の考えが所詮加持祈祷の延長に過ぎないと考えています。また日蓮には加持祈祷の思想があったことと思いますが、それらを私は現代においても有効なものとは別段考えていません。