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そもそも「承久の乱」とは何か。
承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が二代執権北条義時を朝敵と宣言。挙兵して倒幕しようとしました。義時の姉である北条政子は動揺する御家人たちに頼朝の恩顧を訴え、返って御家人たちの団結を深め、結果として幕府軍が京都の上皇方の軍を打ち破ることになります。
後鳥羽上皇は敗北したことで隠岐へ、順徳天皇(後鳥羽上皇の第3皇子)は佐渡に流されます。土御門天皇(後鳥羽上皇の第1皇子)は関与していなかったので無罪だったのですが、自ら土佐に赴きます。後鳥羽上皇方に属した武士たちは多くが死罪となり、荘園を没収の上、六波羅探題を設けて、京都の朝廷を監視することになります。
「されば神武天皇より已来百王にいたるまでは・いかなる事有りとも玉体はつつがあるべからず・王位を傾くる者も有るべからず、一生補処の菩薩は中夭なし・聖人は横死せずと申す、いかにとして彼れ彼の四王は王位ををいをとされ国をうばはるるのみならず・命を海にすて身を島島に入れ給いけるやらむ、天照大神は玉体に入りかわり給はざりけるか・八幡大菩薩の百王の誓は・いかにとなりぬるぞ」
(創価学会版御書全集1519〜1520ページ)
『真言見聞』には以下のように記されています。
「承久の兵乱の時・関東には其の用意もなし国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる、其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行わる七日に満ぜし日・京方負け畢んぬ亡国の現証に非ずや」
(同142ページ)
日蓮は「承久の乱」において自身が尊崇する天皇が守られないという事態に疑問を抱きました。そして天皇が敗退したことに関して、既成宗派の仏教に疑問を抱くことになります。日蓮の他宗批判の意識はそこから出発しているのだと思います。