能く能く似せ奉るなり。
日蓮自身の釈迦本仏説の傍証として。
自己正当化と他者を卑下する精神性。
SGI-USA青年文化祭2018について。
家庭訪問のこと。
釈迦如来のたましい我が身に入り。
ところで、そう述べると一部の大石寺系信徒さんや創価学会員さんは「『開目抄』ではきちんと『日本国の諸人にしうし父母なり』と御本仏の宣言をしているではないか」と反論されるかもしれません。
しかしながら、それは単に大石寺圏の教義の受け売りでしかありません。
なぜかというと『開目抄』で日蓮が自身に主師親の三徳が備わると述べたのは、法華経を信じることで釈迦の徳の一分が備わると日蓮は考えていたことを示していまして、決して日蓮が釈迦を越える本仏であったという宣言ではないんです。
そのことは建治元年の『撰時抄』(真蹟:玉沢妙法華寺蔵)からも明らかです。具体的に述べてみましょう。
「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神(たましい)・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」
日蓮は自身に「三度のかうみよう(高名)」があると述べ、これは日蓮が身に釈迦如来が入り来たからなのであって、このことこそが一念三千の大事の法門であると日蓮は述べています。
また日蓮は法華経を持つ人には等しく「主師親の三徳」の一分が備わると考えていまして、例えば『四条金吾殿女房御返事』(真蹟:京都恵光寺、丹後妙圓寺蔵)には「法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(同1134ページ)とあります。
つまり日蓮のみならず法華経を信じる者も等しく「一切衆生のしう」すなわち「主徳」の一分が備わると考えているんですね。
このことを念頭に入れると、次の『撰時抄』の文の意味がよくわかってくると思います。
一読すると、後半では日蓮が自身を「父母」「師範」「主君」として自身に主師親の三徳があることを表現しています。ところが、この文の前半では日蓮が自身の立場を「仏の御使」と表現しています。
ここからわかることは、日蓮自身が釈迦如来の御使であるという自覚に立っていたこと、そしてそれ故に釈迦如来の主師親の三徳の一分が自身にも備わると考えており、決して自身が釈迦を越える本仏などとは考えていなかったということです。