気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大石寺33世日元の天台伝教と天照八幡等の書き方。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて以前、かつて大石寺の複数の法主静岡県沼津市浅間神社に御本尊を奉納した事実を紹介したことがあります。


「神社に奉納された御本尊」


このうち、大石寺33世日元が宝暦14年(1764年)に書写奉納した本尊について、一部の勧請で日元は非常に特殊な書き方をしています。
今回指摘したいのはまず天台と伝教を別勧請とせず、一行に2人分を纏めて書いてあることです。
冒頭の画像をみればわかるかと思いますが「南無天台伝教大師」と書かれていまして、この書き方は日蓮にも日興にも見られない、特殊な書き方です。



さらに指摘するなら、通常なら首題の下部で「経」の字の左右に配置されるべき「天照大神」と「八幡大菩薩」ですが、大石寺の日元氏はなんと「南無天照八幡等諸仏」と全部纏めて書いてしまっています。もちろんこの書き方は日蓮にも見られませんし、日興の本尊にも見られない形式です。


昨日の記事で『御本尊七箇相承』の「能く能く似せ奉るなり」という相伝を紹介しましたが、肝心の大石寺法主がきちんと似せて書写していないとすれば、そもそも大石寺に伝わったとする相伝大石寺法主が忠実ではないということになり、矛盾が生じるかと思います。
























能く能く似せ奉るなり。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私はこのブログで大石寺蔵の弘安2年戒壇本尊が後世に創作された贋作に過ぎないことを繰り返し述べていますが、論拠として『御本尊七箇相承』の指示と戒壇本尊の相貌が違うことを何度か指摘しています。


戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」

「『御本尊七箇相承』から考える」

「七箇相承の『書くべし』」


上記の「七箇相承の『書くべし』 」を読まれるとわかるかと思いますが、大石寺に伝わっている(と大石寺が主張する)相伝に「このように御本尊は書くべし」と具体的に書かれているにもかかわらず、根本の戒壇本尊本体がその通りに書かれていないとすれば、そもそも大石寺に伝わってきた相伝とは何だったのかという問題にさえなってくるはずです。


今回、ブログで紹介したいのは、この『御本尊七箇相承』の終わりの方に書かれている、ある一文についてです。
具体的にそのまま書いてみましょう。



「一、明星直見の本尊の事如何、師の曰く末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以つて本尊とす可きと・虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言はく汝等が身を以つて本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅云云、此の事を横川の俊範法印に御物語りありしを法印讃嘆して言く善哉々々・釈迦古僧に値ひ奉つて塔中に直授せるなり貴し貴しと讃め被れたり、日興は浪の上にゆられて見へ給ひつる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり、仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。」
(『御本尊七箇相承』富士宗学要集1-33ページ)


簡単に通解してみましょう。


「一、明星直見の本尊のこと
師匠日蓮が語るところによれば、末法の愚かな凡夫のために何物をもって本尊としたらよいのか、虚空蔵菩薩日蓮が祈っていた時のこと、ある老僧がその答えを示して次のようにいった。
『あなたの身をもって本尊とすべきである。明星(金星)の映る池を見てご覧なさい』
そう述べられたので、直ちにその池を見ると不思議なことに日蓮の映る影がまさに大曼荼羅であった。このことを日蓮が横川の俊範(比叡山修学時代の日蓮の師匠)に語ると、俊範はそれを讃嘆して『それは素晴らしい。釈迦老僧に会われて塔中で直接に教えを授かったのだ。貴いことだ』とお褒めになられた。
日興はその池の波に揺られて見えたところの本尊の影をよくよく似せて作らせて頂いている。したがって本尊書写のこと、これを日興がきちんと書写し奉るべきことは当然のことなのである。」


この話の信用性はともかくとして、ここで指摘したいのは、日蓮が感得した本尊について日興の見解として「能く能く似せ奉るなり」「日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ」と述べているということです。
つまり『御本尊七箇相承』を真蹟と考える大石寺圏の教義では、御本尊書写について「能く能く似せて書くべき」なのであり、その点について『七箇相承』の指示に背いて書かれている戒壇本尊や多くの日興書写本尊が存在することは、大いなる自己矛盾になってしまうということです。









日蓮自身の釈迦本仏説の傍証として。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私は日蓮が自身を「釈迦を越える本仏」であるとする自覚を述べたことはなく、日蓮自身は一貫して釈迦本仏説であったことをブログで何度か述べています。


釈尊を本仏とする文証」

「釈迦一仏にかぎりたてまつる」

「釈迦如来のたましい我が身に入り」



上記の「釈尊を本仏とする文証」等でもいくつか日蓮自身の文を挙げてみましたが、他にも日蓮が釈迦を主師親の三徳を備えた仏であると述べた部分は多く散見されます。
そこで傍証として、遺文から日蓮が釈迦を本仏として認識していた文を他にもいろいろあることを紹介してみたいと思います。


法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにも・すぎたりと見えたり。教主釈尊は一代の教主・一切衆生の導師なり」
日蓮四条金吾殿御返事』創価学会版御書1121ページ)[文永9年、日興写本・北山本門寺蔵]



「選択をば・うちをきて先ず法華経の第二の巻の今此三界の文を開いて釈尊は我等が親父なり等定め了るべし(中略)釈尊は我等が父母なり一代の聖教は父母の子を教えたる教経なるべし」
日蓮『法門申さるべき様の事』[法門可被申様之事]同1265ページ)[文永6年、真蹟:中山法華経寺蔵)


「教と申すは師親のをしへ詔と申すは主上詔勅なるべし、仏は閻浮第一の賢主・聖師・賢父なり、されば四十余年の経経につきて法華経へうつらず、又うつれる人人も彼の経経をすてて・うつらざるは三徳備えたる親父の仰を用いざる人・天地の中に住むべき者にはあらず」
日蓮『法門申さるべき様の事』同1266ページ)


「此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、一には此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず釈迦仏は譬えば我が国の主上のごとし(中略)二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり(中略)三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師なり」
日蓮『善無畏三蔵抄』同884〜885ページ)[真蹟断簡:京都妙覚寺蔵]


「大学世尊入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ケ国之間、未有此大本尊、或知不弘之、或不知之、我慈父以仏智隠留之、為末代残之、後五百歳之時、上行菩薩出現於世、始弘宣之」
日蓮「万年救護本尊」讃文)[保田妙本寺蔵]



上記の日蓮の言葉からは、釈迦仏にこそ主師親の三徳が備わっているという日蓮自身の認識がよくわかろうかと思います。








自己正当化と他者を卑下する精神性。





いつもみなさん、ありがとうございます。



最近は本当にいろんな方から応援メッセージを頂きます。ありがとうございます。



度々、このブログで私が主張していることですが、私はすでに「どこかに絶対に正しい教えがある」とか「師匠は絶対に正しい」とか「法主は絶対に正しい」とか「どこかに日蓮の正統な血脈が必ずある」というドグマを卒業しています。


そんなものは存在しません。


例えば創価学会を退会して、ひたすら創価学会員に対して悪口雑言を浴びせるだけの人は、未だに自分が正しく、どこかに正しい信心の正統があると勘違いされている方かと思います。
要するに非難中傷をしているだけで、未だに精神的に教団に固執していることを自覚できない人たちなんですね。


これらは創価学会を罵る大石寺法華講さんも全く同じ、稚拙な精神構造かと思います。要するに「正しい教団に属している」という妄想・ドグマに囚われているからこそ、平気で元鞘の教団を罵倒できるんですね。
この精神構造は、例えば池田大作氏を絶対視して信濃町を罵倒する人たちの精神構造も所詮同じかと思います。
みな、何か正しい教えとか正しい師匠とかに固執してしまっていて、今更自分たちの信じてきたドグマを客観視できなくなっているのです。


だから早く離れることです。
早く忘れて自分の信じる信仰を確立し(別にそれらが無信仰でも他宗の信心でも構わないと私は思います)、他者を悪者にして自分だけを自己正当化する安易な思考法を捨て去ることです。


元の信仰の偽善に気付きながら、ドグマが捨てきれず不安になる人の原因は、そのような「どこかに正しい教えがある」という自身の盲信を捨てきれないからなのであって、そのような信徒さんが少なからず存在することを私たちはよく知っています。
絶対の法など存在しません。幻想を捨てましょう。余談ながら創価学会の退会者や法華講の離檀者に鬱病等の傾向が見られる遠因はその辺にあると私は考えています。自分が信じていたものが虚偽と気付きながら過去の自分の半生を否定できない故に何かを悪者にしたり、自己弁護したりする精神性から抜けられないのです。


私のブログを読んで、創価学会日蓮正宗など大石寺系教団から離れている人から多くメールやメッセージを頂きます。いつも本当にありがとうございます。
一部を紹介してみましょう。


「学会を辞めた時は半覚醒でしたが、気楽さんのブログで勉強させていただき、本当の問題に気がつきました。」


「気楽さんのブログには助けられました。こ」からも、読みます。また何かあれば相談や質問させてください。」


「貴ブログとの出会いにより、これまで信じていたことが実は真実ではない、ということも知った今、私の創価学会に対する忠誠心や信仰心、信心というものは薄れ、謙虚な姿勢で全ての人々、書物から学べるものは素直に学ぼうと思っています。これからも貴ブログで勉強させていただきたいと思っています。」


「いつも拝見させていただいてます。ほんとにいちいち頷いて読ませてもらってます」



他にも多数のメッセージ、連絡等を頂いています。本当にありがとうございます。
私が嬉しいのは、大石寺創価学会といった教団の論理から離れて、自身で思索を深められる方が少しずつ出てきていることです。
何を考えても自由です。ただ自分の論理を安易に正当化して他者を卑下する考え方から早く脱却することが大切であろうと思います。





SGI-USA青年文化祭2018について。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回は、アメリ創価学会で2018年9月23日に開催が予定されています、SGI-USAの青年文化祭についてです。


SGI-USA青年文化祭2018」は、正式な会合名は"50k Lions of Justice Festival"とされていまして、これは2018年9月23日、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス他での開催が予定されています。またこの前後、アメリカで教学講座が予定されているようです。


このアメリカでの文化祭はニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ他、全米9都市の会場をネット回線で繋ぎ、5万人の青年の参加を目標にしています。





なおこの結集目標5万人達成のため、日本でもアメリカに関係がある青年部メンバーはホームページから登録して参加することができます。ただしもちろん宿泊費や交通費は自腹になります。またSGI創価学会インターナショナル)メンバーでなくても友人での参加も可能で、非会員の友人参加も合わせて5万人の結集を目指しているとのことでした。


ところで、私がこの話を聞いた時に真っ先に受けた印象は「5万人って少なすぎません?」というものでした。


他のブログでも紹介されていますが、以下のデイヴィッド・マハチェク氏の調査によれば2000年当時のアメリ創価学会の活動家の数を36,000人としています。




1976年時点で、NSA日蓮正宗創価学会アカデミー)の会員数は23万人とされていまして、2000年に36,000人となったのはまさに激減と言ってよいかと思います。



そこから18年が経過した2018年、今回、全米9都市を会場として、さらには日本からの駆けつけ参加もOKで、友人参加もOKにしているのに、人口3億人を越えるアメリ創価学会青年部の結集目標が5万人って少なすぎませんか?
だいたい5万人って言ったら、1994年に九州ですでに「5万人の第9」をやってますよ。全米のメンバーをかき集めても、日本の一方面の結集にさえ至らないということでしょうか。


ここから推察できることは、1976年時点でのアメリカの創価学会メンバーもまた、信仰の継承が世代間でうまくいかず、結果として青年部の数はアメリカでも減っているということなのでしょう。


大石寺創価学会の海外組織が弱まっていることに着眼して、意図的に信徒獲得を図っていますが、どうやら創価学会大石寺も海外の信徒の奪い合いになっていまして、国内の信徒数の減少と高齢化はやはり避けられないのでしょうね。





家庭訪問のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて私が創価学会の活動家だった頃、一番好きな活動は実は"家庭訪問"でした。
くだらない会合があるくらいなら、さっさとすっぽかして家庭訪問をたくさんしていたくらいです。それくらい好きでした。


何が好きだったかというと、いろんな人に会うのが好きでしたし、いろんな人の力になることに妙な使命感を覚えていたのかと思います。今にして見れば単なる偽善で思い上がりに等しいんですけど(笑)、まあたくさんの人と会ってご飯食べに行く約束をしたり、一緒にお酒を飲みに行ったり、遊びに行く約束するのが好きでした。いきなり「会合に行こう」なんて言ったって、そんな非活のメンバーが行くわけないっすよね(笑)。私の家庭訪問の最大の目的は仲良くなって、いろんな人と知り合うことでした。



最近、私のブログを評価して頂く方が増えまして、その中には「気楽非活さんの研究を楽しみにしています」とか面映ゆいことを述べられる方もいます。
褒められたら嬉しいのは人情ですけど、ただ私がこのブログで書いていることは「研究」なんて大それたものでもありません。ただ本を読んでわかったことをわかりやすく書く。そして文献をただ紹介しているだけです。
ですから私自身はとても俗っぽい人間かと思っています。皆で食事に行くのも好きだし、遊びに行くのも好き、本を読むのも好きだけど、みんなでワイワイ騒ぐのも好きでした。
だから私にとっては本を読むことと、人と話すことは同じことでした。いろんな人から学ぶことが好きでしたし、本を読むと自分の経験も広がるように思っていました。


思うに創価学会の活動家さんは(大石寺の信徒さんもそうですが)、非常に狭い世界の中で生きているように思います。かつて私もその世界の住人でしたからよくわかるのですが、非常に偏狭な基準だけを頼りに世界のあらゆる思想を軽視して「この仏法が最高なんです!」って言い張っているだけの子どものような感覚の持ち主が多いと思います。


御書を読むのが私は昔から好きで、若い頃はいろんな素朴な疑問、また理解したことなどを幹部に話したものです。けれど大抵の幹部に限って「いやぁ、僕は御書は苦手でね」とか「君がわかったことは凄い! 今度はそれを折伏の結果として出して師匠にお応えしていこう!」とか、わけのわからない(笑)リターンにあい、当惑することが多かったです。


閑話休題、私は家庭訪問で「他者に会うのが好きだった」のだと思います。いろんな考え方を聞いてみたかったし、友だちになりたかっただけなんですね。
ところが、現実の創価学会の活動家や幹部の方は、違う意見を受け付けない、偏狭な正義感だけしか提示できず、思考が停止している人が多かったですね。



家庭訪問に感じていた私自身の楽しさ、他者から学びたいと思っていたことと、幹部に感じた思想的な閉鎖性との違和感こそ、最初の非活になるきっかけとなった遠因なのかもしれないと思うこともしばしばです。












釈迦如来のたましい我が身に入り。







いつもみなさん、ありがとうございます。



日蓮が自身を「釈迦を越える本仏」であるとする自覚を述べたことはなく、日蓮自身が一貫して釈迦本仏説であったことは、遺文をきちんと読めば明らかなことかと思います。



釈尊を本仏とする文証」

「釈迦一仏にかぎりたてまつる」



ところで、そう述べると一部の大石寺系信徒さんや創価学会員さんは「『開目抄』ではきちんと『日本国の諸人にしうし父母なり』と御本仏の宣言をしているではないか」と反論されるかもしれません。

しかしながら、それは単に大石寺圏の教義の受け売りでしかありません。





なぜかというと『開目抄』で日蓮が自身に主師親の三徳が備わると述べたのは、法華経を信じることで釈迦の徳の一分が備わると日蓮は考えていたことを示していまして、決して日蓮が釈迦を越える本仏であったという宣言ではないんです。

そのことは建治元年の『撰時抄』(真蹟:玉沢妙法華寺蔵)からも明らかです。具体的に述べてみましょう。




「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神(たましい)・我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」

日蓮『撰時抄』創価学会版御書288ページ)




日蓮は自身に「三度のかうみよう(高名)」があると述べ、これは日蓮が身に釈迦如来が入り来たからなのであって、このことこそが一念三千の大事の法門であると日蓮は述べています。




また日蓮法華経を持つ人には等しく「主師親の三徳」の一分が備わると考えていまして、例えば四条金吾殿女房御返事』(真蹟:京都恵光寺、丹後妙圓寺蔵)には「法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ」(同1134ページ)とあります。

つまり日蓮のみならず法華経を信じる者も等しく「一切衆生のしう」すなわち「主徳」の一分が備わると考えているんですね。




このことを念頭に入れると、次の『撰時抄』の文の意味がよくわかってくると思います。




「此の事一定ならば闘諍堅固の時・日本国の王臣と並びに万民等が仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとするを或は罵詈し或は悪口し或は流罪し或は打擲し弟子眷属等を種種の難にあわする人人いかでか安穏にては候べき(中略)されば日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」
(『撰時抄』同265ページ)




一読すると、後半では日蓮が自身を「父母」「師範」「主君」として自身に主師親の三徳があることを表現しています。ところが、この文の前半では日蓮が自身の立場を「仏の御使」と表現しています。



ここからわかることは、日蓮自身が釈迦如来の御使であるという自覚に立っていたこと、そしてそれ故に釈迦如来の主師親の三徳の一分が自身にも備わると考えており、決して自身が釈迦を越える本仏などとは考えていなかったということです。