気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

ハンセン病患者を侮蔑する法華経。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は法華経普賢菩薩勧発品におけるハンセン病への差別的な表現を紹介します。



創価学会大石寺系教団が主張するところでは、法華経こそ"万人成仏"の経典であり、全ての人に遍く仏性があることを証する経典であるとかまことしやかに述べたりすることがあります。



法華経には即身成仏の義が全く説かれておらず、私はこれらの言説を全く信じないのですが、それ以上に私にとって疑問なのは法華経中にハンセン病患者に対する差別的な言及が存在することです。



その具体的な言及は最終章にあたる普賢菩薩勧発品第28に存在します。
引用してみましょう。



「若有人。軽毀之耳。汝狂人耳。空作是行。終無所獲。如是罪報。当世世界無眼。若有供養。讃歎之者。当於今世。得現果報。若復見受持。是経典者。出其過悪。若実若不実。此人現世。得白癩病。若有軽笑之者。当世世。牙歯疎缺。醜脣平鼻。手脚繚戻。眼目角『日來』(*1)。身体臭穢。悪瘡膿血。水腹短気。諸悪重病。」



サンスクリット原典の訳を対照してみましょう。


「このように最高の経典を護持する僧たちを迷わす者たちは、生まれながらの盲目となるであろう。また、このように最高の経典を護持する僧たちの悪口を言いふらす者たちは、この世において、身体に病斑が生じるであろう。このように最高の経典を書写する人を嘲笑したり怒鳴りつけたりする者たちは、歯が折れたり、歯が抜けたりするであろう。また、忌まわしい唇を持つようになるであろうし、低い鼻の持ち主となるであろう。また、手足が逆となり、眼が逆さとなるであろう。また、身体が悪臭を放ち、身体は水疱や腫物や痂(かさぶた)に被われ、癩病疥癬に罹るであろう。このような最高の経典を書写する者、読誦する者、護持する者、またそれを教示する者たちに、真実であると虚偽であるとを問わず、不快な言葉を聴かせる者たちにとって、このことは誠に重い罪を犯すものであると知るべきである。」
(『法華経』(下)岩波文庫版、335ページ)




公明党出身で元厚生労働大臣坂口力氏はハンセン病患者の名誉回復に尽力したことで知られています(私はこの判断については正しいことだったと今でも思っています)。しかしながら、肝心要の支持母体の宗教団体・創価学会が、依経とする法華経中においてあたかもハンセン病患者を罰と称して侮蔑するような表現があることについて、なんらかの総括があって然るべきなのではないでしょうか。



 ハンセン病患者は「法華経誹謗の故に」「罰として」「醜い姿になった」と法華経に書いてあるわけで、この記述は今でも創価学会総体が正しいと考え、今でも普遍性があると考えているのかを、ぜひ総括をしてほしいですね。
そうでなければ、法華経を根本にするゆえに、ハンセン病患者を罰と称して侮蔑するということを許容していると言われても仕方ないでしょう。またこのことに目を背ける大石寺等の法華経系・日蓮系教団も同罪かと思います。




追記:(注*1)
法華経普賢菩薩勧発品の引用部分で「日」へんに「來」という字が存在しますが、これをフォントで出すことができなかったので、「  」で別に表記したことをご承知ください。



青年時代、貧と病の池田大作。





いつもありがとうございます。
さて今回は私が創価学会批判のジャーナリストとして知られる溝口敦氏の著作を最初に読んだ時の率直な感想を書いてみたいと思います。



というのは私は、溝口敦という人物を「創価学会を単に非難中傷するだけの浅はかなライター」と思っていた時期があったからです。
その理由はもちろん私が元創価学会の活動家だったことが最大の原因で、先入観で氏を見ていたことになります。



溝口敦氏の著作で、池田氏の半生を描いていくシーンで私は図らずも思わず涙ぐんでしまったシーンがあります。
それは若き日の池田大作氏の貧しさ、病気、苦悩です。



溝口氏といえば創価学会に批判的なライターです。著作を読む前から溝口氏は池田に批判的な舌鋒を振るうものだと先入観を持っていました。
ところがそうではなく、池田氏の若き日の病気のこと、経済苦のこと、散々な有様について赤裸々に描いていくんですね。



私が読んでいてなぜ涙ぐんだのかと言えば、それは「ああ、私たちと同じだったんだ」と思ったからです。
病気とか生活苦とか貧しさというものは、経験しないとわからないものです。
池田氏もまた生活に喘ぎ、藁をもすがるような思いで信仰にかじりつき、生きてきたのかと思ったら共感せずにはいられなかったんですね。


多くの会員さんと同様に私もまた池田氏から多くの激励を受けてきました。それは少しでも活動家の経験がある方ならわかることでしょう。
池田氏は貧しい人、苦しんでいる方に優しい人だったという印象をやはり拭い去ることができません。どこか氏には自身の生きてきた経験から、現世利益を強調し、苦しんでいる人を応援するようなところがあったのです。それこそが池田名誉会長が会員に対して絶対的なカリスマとして存在し得た最大の理由かと思います。
自身もまた若い頃から貧しく、戦争で、また病で苦しんだ、だからこそ池田氏には同じ苦しみに喘ぐ人の気持ちが共感することができたのだと思います。


私は数種類の大病に幼少時から苦しめられました。私の母は発作が起こって、動くのもやっとの小学生の私を連れ出して正本堂まで御開扉を受けさせたものです。当時の子どもの頃の写真が我が家に残っていますが(背景に大講堂が写っています)、普通に考えれば鬼のような母親でしょう。母は私に病気で他人の優しさにすがるのは何の解決にもならないことを直感的に知悉していたのかと思います。弱音を吐けば吐くほど母に叱られたものです。



そんなお陰で私は精神的に耐えることを覚えました。今となっては母に改めて感謝の思いでいっぱいです。母がこの世にいないことがただただ悲しいだけです。



私は以前、少し前に池田氏の実像と虚像について、率直に認める記事を書きました。


池田大作の虚像と実像」


私は庶民的で貧しく、病で苦しんできた池田氏の姿にとても共感します(私と私の家族がそうでしたから)。同時に日寛由来の教義から現世利益的な確信しか述べることができず、人情味に偏る江戸っ子な池田氏の弱さも同時に理解できる気がしています。
池田氏が当初から悪人であったとは思いませんし、彼は彼なりに必死に生きてきた青春時代があったことを私は決して否定しません。
しかし、それゆえに、池田氏は自身への虚像を作り上げてしまった、安易な現世利益主義から日蓮の教義を歪曲し、自身の虚像を膨らませてしまった、その責を免れることは決してできないと考えています。











『富木殿御返事』にみる富木常忍と日蓮。


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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は中尾堯氏による日蓮紙背文書の研究を読んで、少し思ったことを要約してみたいと思います。



日蓮遺文紙背文書については以下の記事をご覧くださいませ。


ところで、中山法華経寺に現存する『天台肝要文』は全部で47枚から成る日蓮真蹟ですが、そのうち42枚の裏面に全く別の書状が使われています。これらは千葉介頼胤の被官で文書官僚だった富木常忍が、保存期間の終わった文書について、丁寧に裏処理を施した後に日蓮の執筆のために提供したものであると考えられています。



これら『天台肝要文』における紙背文書なのですが、これら紙背文書の中で一枚だけ28枚目に日蓮から富木常忍に宛てられた書状が裏紙になっていることが明治後期になって発見されました。


この『富木殿御返事』(冒頭画像)の全文を中尾堯氏の訓読で引用してみます。


「悦びて御殿人給わりて候。昼は見苦しう候えば、夜参り候わんと存じ候。夕去り鳥の時ばかりに給ぶべく候。又、御渡り候て、法門をも御談義あるべく候。
十二月九日
とき殿」


本文の意味を中尾氏の通解からとれば以下のようになります。


富木常忍日蓮を迎えるべく、供の人をわざわざ遣わしてきたことを、まず喜んでいます。ただ昼間に出歩くことは人目もあることなので避け、夕方暗くなってから参上いたしたく、その時に改めて供の者を迎えに来させてください。またこちらの方へ出向いて、仏法のことなどを話し合いましょう。」



迎えの者に口頭で伝えれば良いような内容を日蓮は折紙の書状にさらりと認め、使いの者に渡したことがわかります。


中尾氏はこの書状の執筆年代について、末尾の「とき殿」という記述と、紙背文書の富木常忍の宛名の書き方を対照し、建長5年12月9日のものであるとしています。



さてこの『富木殿御返事』の執筆が建長5年の立教開宗の年のものであると考えると、どういうことが考えられるでしょう。



多くの方もご存知のように、日蓮は建長5年4月28日、清澄寺の道善房持仏堂の前で立教開宗・浄土宗批判を行い、結果として地頭である東条景信らの圧力により清澄寺を退出するに至ります。このことは関東地方に浄土宗の勢力が強かったことを推察させます。日蓮が書状で「昼は見苦しく」と書き、明るい時間帯の行動を憚ったのはこのためでしょう。


中尾氏の推察をそのまま引用してみたいと思います。


富木常忍下総国八幡庄若宮(現在千葉県市川市)の館に住み、朝な夕なに主君千葉介頼胤の許に参勤していたことは、日蓮の遺文などによってよく窺われるところである。常忍の居住する館は現在は中山法華経寺の奥院あたりで、千葉介の守護所はかつて国府があった市川市国府台であったと思われ、この二つの場所は距離的に見て馬に乗って通勤にほどよい場所に位置している。守護の被官として敏腕を振った富木常忍は、管轄下の諸地方から届く書状を処理した後、その文書を反古紙として役立てるべく役所に集積していた。このような毎日を送っていた富木常忍は、建長五年十二月十九日の昼、にわかに日蓮を守護所に招いて法門を聴聞して安心を得たいものと、供の者を遣わした。やがて使いの者が『富木殿御返事』をもたらしたので、かれはこれを一読の後に、慣習に従って守護所の文書箱の中に置いたのだろう。後にこれらの書類を廃棄して冊子本に仕立てる時、反古紙の中にこの書状が混入したままで加工されたのである。」



ところで中尾氏もこの考察の中で述べていることですが、この推察が正しいと仮定すると、日蓮の足跡が少し変わってきます。日蓮は建長5年立教開宗の後、清澄寺を退出し、鎌倉に移って松葉谷に草庵を構えたと考えられていますが、清澄寺を出た後、八幡庄若宮を経由してから鎌倉に向かったことが可能性として考えられるでしょう。そしてその過程の中で富木常忍や太田乗明ら下総国に在住する武士たちが檀越となったのは、鎌倉のことなのではなく、下総国でのことであったのかと思います。



参考文献:
中尾堯『日蓮真蹟遺文と寺院文書』吉川弘文館、2002年。




御書の「凡例」。






いつもみなさん、ありがとうございます。
ところで、日蓮の遺文集として、創価学会では堀日亨編とされる、いわゆる創価学会版御書全集を用いています。



私も活動家時代、これで遺文を読むことに慣れてしまったので、ブログに使う場合は散々ここから引用しているのですが、これは読めば読むほど編集に問題があることがわかります。


それがよくわかるのが実は「凡例」です。
戸田城聖の「発刊の辞」と堀日亨の「序」に続いて、目録の前に「凡例」が示されていますが、そこには編集方針として次のように書かれています。


「建長五年宗旨建立以前の戒体即身成仏義等数篇、現代教養に裨益なき十王讃歎抄・八大地獄抄等、純天台なる三八教・秀句十勝抄等の如き縦い御真書でも聖祖の御抄録分と見做して且らく文を除いた。」

「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る。」


この二つの方針は大きな問題かと思います。


つまり真蹟が残るものであったとしても収録しないことがあるし、また真偽が疑わしい、偽書の可能性が高いものについても「信行に資する」なら採用するということです。


簡単に言ってしまうと、編集者の方針で「都合のいいものは入れるし、都合の悪いものは省く」と言われているようにしか私には思えません。


私はこの「凡例」を活動家時代に読んだ時、若干の違和感を感じたと同時に、日蓮の御書に学会版に収録されてないものがまだ存在していることを知り、それを読んでみたいと思いました。


創価学会の活動家の多くは凡例の存在さえ気に留めず、学会版御書全集が全てだと勘違いされている人が多いです(というかほとんどそうです)。
自身の教義に都合の良い御書ばかり読んで信仰を形成するものですから、多くの会員が『生死一大事血脈抄』とか『御義口伝』とかそんなものばかりをありがたがり、肝心な真蹟を最初に読んで日蓮の実像に迫るということが全くできなくなっている現状なのだと思います。



追記:
富士宗学全集を書いた堀日亨が本当にこの創価学会版御書を編集したのか、私には非常に疑問が多いです。誤字や脱字があちこちに散見され、そのことはこのブログでも指摘させて頂いています。詳しくは米山士郎さんのブログでも指摘されていますが、推測するに学会版御書の編集はほぼ堀日亨は名義貸しの状態だったのではないかと推測します。そうでなければせめて訂正とかをしてもよさそうなものです。
ちなみに創価学会教学部は後に「編年体」を出版していますが、こちらの方は索引も付き、誤字も訂正されており、「編年体」の方が編集方針もよくわかり、読みやすいと私は思います。










日興は四老僧と敵対していない。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私は以前、このブログにおいて、日興の身延離山について、それが大石寺系教団の言う「五一の相対」というものではなく、むしろ身延の民部日向と対立していたのは「日昭・日朗・日興・日頂・日持」の五人で、日興は他の四老僧と決して対立しているわけではないことを述べました。


加えて今回引用する文献は日朗の『身延離出書』です。
画像を載せましたが、上の二枚の画像は日蓮宗宗学全書のホームページ上でも公開されています。


この中で六老僧の日朗は何と書いてあるかを簡単に引用します。


久遠寺の大檀那波木井殿に三つの謗法之れ有るに依って、日昭、日朗、日興、日頂、日持の五人は同心に山を出ずること一定なり」
(日朗『身延離出書』日蓮宗宗学全書1-13ページ)

「彼の波木井の謗法隠れ無きに、五人は同心に、彼の山を離出するところに、彼の日向は日蓮の御弘通の本意を背き、大謗法の波木井殿の施を受けて、彼の山に留まり給ふ事、師敵対なり。日向は禅念仏の宗旨にも劣れり。日蓮聖人は師子身中の虫を以て喩へば、我が弟子等の中にも邪義を云ひ出して、日蓮が弘通の本意を云ひ失ふ者あるべしと書かれたるは日向一人に定まれり。是れ師敵対なれば、堕地獄は一定せり。末代支証の為めに、之れを註し畢んぬ。」
(日朗『身延離出書』同13〜14ページ)




ここで日朗は日興のみならず、日頂、日昭、日持らの四人とともに、日向のいる身延から離山するのみならず、民部日向を明確に「師敵対」として「堕地獄は一定せり」としています。


この『身延離出書』が例え仮に日朗の手によるものではなく、後世の偽作であったと仮定しても、少なくとも日朗の門流もまた、日興その他の三老僧と同様に、身延の民部日向を日蓮への師敵対と考えていたことがわかるかと思います。


加えてここでは「日昭、日朗、日興、日頂、日持の五人は同心に山を出ずること一定なり」と述べているように、日興は他の四老僧となんら敵対関係にないことがわかるかと思います。















狂信的な法華講と静かな法華講。





いつもみなさん、ありがとうございます。





さて私はブログの内容もあり、最近は大石寺の狂信的な法華講さんからいろいろ議論をふっかけられることも増えてきました。
で、だいたい私は文献的な考証から矛盾点を指摘するのですが、狂信的な方はそれらの矛盾さえも決して認めようとせず、のらりくらりと話をはぐらかして、人格攻撃に終始したりします。


で、私のツイートを見て誤解されないよう書いておきたいのですが、実は本来の大石寺法華講さんのほとんどはとても温和で、他宗に対してさして敵意を持たれているような方ではありません(直接メール等で私が話した印象です)。ところが、一部狂信的で他宗批判に明け暮れる方がいて、そのイメージが先行してしまうんですね。


創価学会の非難中傷に明け暮れる妙観講さんとか一部の法華講さんは、所詮大石寺を口汚く罵っている創価学会の一部幹部とやってることが同じなんですね(笑)。それに対して現場の多くの法華講さんは何も言わずに醒めた目で見ています。


その証拠に、私にたくさんの激励のメールやツイッター、DM等を頂くのは、法華講さんの方も多いです。


以下に紹介してみます。



Twitterのツイートに感心しました」

「まさにそうです。一部の過激な方が目立つからそのイメージが先行してしまっています」

「確かに法華講は一枚岩でありません」

法華講に謗法がないわけでもありません」

「自分が所属している教団が、こんなに非常識なのかと嫌になります」

「本山に近ければ尚更で、他宗の僧侶の知り合いとか普通にいます」

創価を嫌悪しているのにやってることが創価そっくり」

「世間知らずな講員には辟易します」

「酷い悪口でツイートで見るのも嫌です」

「高飛車な言い方で、人を見下してます」

創価新報をもっと陳腐にした感じです」

「学会が元凶だというカルトじみたやり方には賛同できません」

「被害者がまた被害者を作るやり方は頂けません」

「罰や功徳論に振り回される講員を見ていると疑問に思います」

妙観講は大百法も読まず、暁鐘出版の本ばかり読んで皆から引かれています」



彼らとメール等で話をさせていただくうちに、サイレントマジョリティとしての法華講員さんが多く大石寺内部に存在することはなんとなくわかってきました。
多くの方はたまに御開扉を受けに本山行ったりする程度で、それ以上の活動をしない人も多くいます。御講さえも「おもしろくない」と言われる方がいることはなかなか興味深かったです。


私はこのブログで、大石寺の教義を批判しますが、物事の理解には個人差があってもよいと思っています。矛盾を見つめても、それでもなかなか自分のやってきた信仰を根幹から否定することはすぐにできないことでしょう。
そういった方たちと話す時、私は基本ご自身の考えにお任せすることにしています。
矛盾がある、けれど今すぐにこの御本尊を捨てられない、そういう人がいれば、それはそのままでもよいかと思います。矛盾の克服はその方の個人の課題かと思いますし。


宗教にはどこかに非合理性が存在します。
大切なことは自分のやってことがどこまで非合理的で非理性的なのかという自覚を持つことであり、それらの非理性的なものに対して他者の批判に耳を閉ざすことなく、自分とも他者とも誠実に向き合う、その姿勢の方なのではないかと私は考えています。







『富士一跡門徒存知事』について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『富士一跡門徒存知事』についてです。



創価学会大石寺は『富士一跡門徒存知事』について、これを日興の著作として考えています。
ところが創価学会版が出典・底本としたのは堀日亨の『富士宗学要集』第1巻相伝部からで、実はこの著作に日興の真蹟は存在しません。また古写本も存在していません。
重須本門寺の日誉の写本が現存しますが、これは日蓮滅後240年に書かれたものであり、しかも書写をしているのは大石寺の僧侶でさえなく北山本門寺の僧侶です。


そんなわけで『富士一跡門徒存知事』は後世の日興門流に伝わる文書であり、これを日興真蹟とするのは私には躊躇されるところです。


ところで、この『富士一跡門徒存知事』を日興の著作として一定の評価をされる方の一人に宮田幸一氏がいます。
宮田幸一氏はいくつかの論拠を示していますが、その中の一つは高橋粛道氏の論考から日道『三師御伝土台』中に見える「十七条の御遺告」が『富士一跡門徒存知事』の条文と一致するのか検証をしているところです。



確かに条文を整理すると、17の条目に分けることができますが、問題となるのは追加の8カ条が添加されていることと、そしてこの追加8カ条中に「天目」に関する記述が見えることなんですね。
そもそも高橋粛道氏、宮田幸一氏、堀日亨氏らでこの条文の立て分け方がすでに異なっていますので、これが果たして本当に『御伝土台』の17条の御遺告と一致するのかという疑問もありますし、そもそも『御伝土台』における「十七条」の記述から『富士一跡門徒存知事』が後世に創作された可能性も決して否定できないと思うんですね。


また「十七条の御遺告をもって天目を難破する」と『御伝土台』では述べられていますが、そもそも天目に関する記述はこの前半17条には存在せず、後記の付加部分8カ条に出てくるのみです。


思うに『富士一跡門徒存知事』は日興門流によって後世に作られた文書であって、その中には日興の思想を伝えるものもあるのかもしれませんが、この文書の内容はきちんと他の真蹟と対照して読まれるべきものかと考えます。