気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日持の伝承。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて少し前に六老僧の関係のことを書きました。6人の中で私が実は一番興味深いと思っているのは甲斐公蓮華阿闍梨・日持という人物です。



日持(1250〜?)はもともとは天台宗四十九院で日興に弟子入りしました(ですから当時の日興の才覚の高さもここから推察できます)。
その後、日持は師匠の日興とともに四十九院を追放されます。ちなみに弘安元年に日興が日持と連署四十九院に対する訴えを幕府に提出しています。この時の訴状が『四十九院申状』です(創価学会版御書848〜849ページ)。
その後、日興とともに日蓮の弟子になっています。


日蓮入滅後、日持はなぜか日興と不和になります(どちらかというと日興の方から日持を義絶したようですが、日持は日興への敵対心がさほどなかったように思われます)。
彼はその後、静岡に1283年に蓮永寺を創建。後に池上本門寺に祖師像を安置。
やがて彼は新潟に赴き、そこから東北方面の布教活動に旅立つことになります。



彼の布教旅は止まりません。秋田から青森、そしてさらには北海道まで布教活動を展開します。



最初は津軽に安東氏を訪ね、この地で布教活動に励みます。青森蓮華寺、黒石法領院行寺、弘前法立寺などを創建。その後、津軽海峡を越えて北海道に渡ります。檜山郡法華寺松前郡法華寺、函館妙応寺・妙顕寺に日持の伝承が残されているようです。京都妙満寺の日尋は1521年に北海道を訪れ、この地でかつて日持が布教活動をしていたと記録していることが知られています。


日持は函館、松前江差まで行き、各地で布教活動を展開します。本当にバイタリティーのある人だと思います。
その後江差から、なんと樺太(サハリン)まで布教したと言われています。
江差郡には伝承が残されていまして、漁民たちが不漁を嘆いていた時、ちょうど樺太に向かって船に乗っていた日持は船上から豊漁祈願を行ったのだそうです。すると見たこともない魚が大量に取れるようになり、日持が唱えた法華経からとって、この魚を「ホッケ」と呼ぶようになったそうです(ホンマかいな・笑)。
ホッケはよく居酒屋で食べますけどね。



その後、1295年、日持は樺太の落石(おっちし、現在のアレクサンドロフスク=サハリンスキー)に到達します。樺太には日持が書いたとされる題目石があるそうですが、本当かどうか知りません(笑)。




さてこの後の日持の足取りはどこまでが本当なのかわかりません(笑)。蝦夷地で没したとも言われますし、満州に行ったとも言われますが、いちおう伝承をいくつか書いてみましょう。


日持が樺太に渡って2年後、1297年5月、津軽の安東氏は北方アイヌ人を率いて大陸の元に攻め入り、アムール川流域に侵攻、キジ湖付近で交戦に入ります。この時、日持が戦闘に加わったのかどうかは不詳ですが、この時に日持も大陸に渡ったと言われています。


その後、伝承によれば日持は中朝国境付近の白頭山を越えます。白頭山山頂の天池付近には日持が建てたとされる祠があったそうです(ホンマでっか?・笑)。一説ではこの地で元軍と高麗軍の分断と祖国の安泰を祈願したそうです(ホンマでっか!!!??・笑)。



この後、「ホンマかいな?!」の諸説紛々ですが(笑)、もう少しだけ書いてみましょう。


1、この後、日持はモンゴル帝国首都カラコルムにたどり着いた。
(ホンマでっか!!??)
2、イルハン朝ペルシアまでいった。
(ホンマでっか!!!???)
3、エルサレムを目指した。
(ホンマでっか!!!!????)


さらに興味深いのは中国、旧察哈爾(チャハル)省・宣化城内の立化寺に記録があり、ここからこの立化寺の祖師が実は日持ではないかという説が昭和8年に浮上しました(ホンマでっか!!!!!?????・笑)。


まあ話の真偽はともかくとして、日持という人物がかなりスケールの大きな方で、大陸布教の情熱を持っていたことは何となくわかります。



誰かこの日持のこと、映画にしてくれませんかね?(笑) きっとスケールの大きな大スペクタクル・ロマンな映画になるかと思います。







広宣部と大学校の衰退。




いつもみなさん、ありがとうございます。

さて私はかつて創価学会の活動家だった頃、広宣部・言論企画部のメンバーでした。


「広宣部と言論企画部」


上のような記事を書いた関係か、かつて広宣部だったという方からいくつかメールや連絡を頂きます。当時の勉強会の資料はやはり全国的に共通していたようですね(出所はやはり波田地克利さんの周辺とかなんでしょうね)。



ところで、最近創価学会組織から漏れ聞く情報によりますと、すでに「広宣部」組織は実質的に各地域組織によって廃止されているようです。
少子化の影響で、青年部が実質的にいなくなっている地域の現状では広宣部を立ち上げる余裕もないのでしょう。
穿った見方をする私などの邪推からすれば、あまり勉強されると、退会者がまた増えてしまいそうな感じがするので、早めになくした方がよいという組織の判断もあるのかもしれませんね。



さて創価班や牙城会(これらのグループについてご存知ない方は上記の引用のブログ記事をご覧くださいませ)では、新しいメンバーを毎年輩出することになっていまして、その輩出の人数の目標まで立てて一年間の"研修"を行っていました。
これらの新メンバーの育成組織を「大学校」と創価学会では呼んでいました。



それぞれ

創価班大学校」
「牙城会大学校」

と呼びます。


その年に入ったメンバーは「大学校第〜期生」と呼ばれ(牙城会の場合、途中から年度を改め「新世紀大学校〜期生」に変わりましたが)。「入卒団式」に参加します(多くは巣鴨の戸田記念講堂での開催でした)。その後地域に戻り、小説『人間革命』12巻の読了と研修、聖教新聞の営業や布教活動に挺身、一年後の入卒団式を迎えることになるわけです。



ところが、この大学校組織も今では地域の実情に合わせて、すでに廃止されているところも出てきたようです。
よほど人材がいないのでしょう。都内の方ではまだ大学校組織も残っていますが、地域によって実情に合わせて廃止されてきているのかもしれません。私は非活メンバーになって久しくこの辺の事情がよくわかりませんので、詳しい現役メンバーがいらっしゃいましたら、ツイッターアカウントか、下記メール等にて教えてくださいませ。

気楽非活ブログ管理人
kirakuhikatsu(@)gmail.com
メールを送られる際は(  )を外して送信ください。







「五一の相対」を考える。








いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回はウィキペディアの記事から民部日向と白蓮阿闍梨日興、そして他の四老僧との関係を見てみたいと思います。



「民部日向」

この中の「門弟内での対立」の項から、コピペして引用してみます。





日蓮の入滅時、不在であった日向・日頂を除く四老僧と居合わせた中老僧とが合議した結果、日蓮墓所を守ることにつき輪番制が敷かれた。六老僧と中老僧12名の計18名による輪番であったが、各僧とも各地での布教伝道に多忙を極め、一年に一度(3,6,7,8,9,12月は2人)の墓所輪番は大変な負担になっていたと思われる。このため、合議して決定したはずの輪番を実施することは、日蓮没後の早い段階で事実上崩壊した。当時、何らかの理由で日興を除く五老僧と南部實長とが義絶していたのも一因であることは否めない。

日興が南部實長を弁護する為に五老僧に送った書簡が現存しているが、南部實長を教化したのがもともとは日興であったことや、日興が身延にほど近い富士地域一帯を本拠地としていたことから、次第に日興が身延に常住するようになった。当時の書簡によれば、出家して日円と名乗っていた南部實長は日興の身延常住を非常に喜び、日興に身延の別当職に就くよう要請している。しかし既に六老僧が輪番に合意して証文も作成したものの、他の五老僧は各地での布教に多忙であり、身延での輪番に消極的であったことから、日興は五老僧や中老僧に対し身延輪番に従事するよう盛んに呼びかけた。その呼びかけに漸く応じたのが日向であり、1285年に身延山久遠寺に登った。日向の身延登山を日興と日円は大変喜んでいる。他の老僧は輪番の証文を無視し続け、日興の呼びかけにも応じない状況の中、日向は日円の要請により学頭職に就いた。輪番制に拘る日興としては、日向が学頭職に就いたことに不満を抱いていた上に、その後、教義に軟風を持ち込んだとして日向と、また謗法行為に甘いとされる日向に影響を受けたとして日円と、それぞれ不仲が決定的となった。そしてついに、日興は身延を離れた。これが現在まで続く日向派と日興派の争いの元となっている。

日興が身延を離山した後、日向は日円の要請により身延山別当職に就いた。当時の日蓮遺弟達は日向が日円と懇意なのがよほど不快だったらしく、日昭と日朗とが遣り取りした書簡には、日昭から弟子を比叡山戒壇で得度させても良いか相談を受けた際に、日朗が富士の戒壇で日興を戒師として得度させるべきであると助言し、身延の日向の法門は禅念仏にも劣ると書かれてしまっている。 日朗は、日蓮入滅後に富士重須の日興のもとを訪問してはいるが、身延の日向を訪問した記録は残っていないので、日向にはそれなりに教義上の軟風があると映ったのであろう。 日頂も真間中山を離れた後、身延の日向ではなく、富士の日興のもとで重須談所設立に協力している。日頂の弟の日澄は日向の弟子だったにもかかわらず日向と義絶し、富士重須談所の初代学頭に就任している。 日持は六老僧の1人ではあるが、もともと日興の弟子である。日持は日興から義絶されるが、その後身延の日向を訪ねることなく大陸布教に出立したとされる。

一般に五一相対というと日興対五老僧であるが、文献によれば先ず「日円・日興対他の五老僧」の対立があり、その後に「日向対日興」の対立が起こり、日円と日向が懇意になったため日向は他の四老僧とも対立し、結果として「日向対五老僧」の対立になった。勿論、日興は日向以外の四老僧に対しても輪番の件や申し状の署名の件などで不満を募らせているので、「日興対五老僧」の五一相対も確かにあった。しかしそれは、日興から五老僧に対しての一方的な不満であり、日向を除く四老僧から日興への不満はなかったと思われる。日興は日向・日持・日昭以外の二老僧日朗・日頂とは和解し、むしろ頼られている。日昭・日持は日興に義絶されているが、日昭・日持が日興を批判している文献はないので、日昭・日持が日興に敵意を持っていたとは考えにくい。五老僧と和解できなかった日向は、身延山で日円と共に独自に弟子育成に励む。だが、朗門の九鳳や興門の本六新六に匹敵するような教線拡張に貢献した人物を輩出することができず、身延山興隆には行学院日朝や、もともと向門ではない重乾遠の三師など、傑僧の出現を待たねばならなかった。傑僧の出現により教団は成長し、それに伴い祖廟身延は日興派を除く日蓮門下すべての聖地となった。それでも江戸期までは、幕府の格付けによると京都六条本圀寺が日蓮法華宗各派まとめての筆頭寺院であり、身延山は次点に止まる。現在、身延山久遠寺日蓮宗の総本山であり、日蓮宗以外の門下連合会に属する各宗派・団体も身延山を祖山と認め、日向は身延山法主第二祖とされている。」


以上がウィキペディア記事の引用です(ウィキペディアの引用からわかるように今回の記事はかなり手抜きですが・笑)。ここから素直に読むと「五一の相対」というのは史実と少し事情の違うことがわかります。
もともとの対立は民部日向と白蓮日興との対立にありました。


当初は


第1ラウンド「日興 vs 日向」


だったものが、


第2ラウンド「日向 vs 四老僧+日興」


みたいな感じになっていたことがわかります。
もちろんこの記事の中で書かれているように、日興は墓所の輪番において他の四老僧にも不満があったようなので、日興の視点から見ればそれは「五一の相対」と言うべきものなのかもしれません。ただ史実として五老僧が一枚岩だったわけでもなさそうですし、また日興が日向以外の四老僧とも全面的に不仲だったというわけでもなさそうです。実際、伊予阿闍梨日頂は晩年に富木常忍と対立した後に日興のもとを訪れ、重須談所の設立に尽力。日頂の弟である寂仙房日澄は重須の初代学頭に就いています。また蓮華阿闍梨日持は元来天台宗四十九院で日興に師事していた人物であり、日蓮入滅まではともに活動をしていました。














曹洞宗は「不立文字」ではない。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は日蓮の禅批判についてです。



大石寺系信徒の方の多くがすでにご存知のように、日蓮は「教外別伝・不立文字」という禅の思想を批判します。



ところで、この「教外別伝・不立文字」とは多くが唐代の中国禅の教義なのであって、例えば日本曹洞宗道元に対する批判には当たりません。そもそも日蓮道元に関して一切言及をしていません。



道元は経文を否定するどころか、法華経を高く評価していまして、それどころか彼は『正法眼蔵』で摩訶迦葉への教外別伝の考えを否定しています。その証拠に日本曹洞宗では法華経如来寿量品と観世音菩薩普門品を読誦することで知られています。
日蓮はこの点に関して道元を知らなかった可能性が高く、遺文での道元への言及が一切存在しないのです。



加えて『蓮盛抄』と『聖愚問答抄下』に『大梵天王問仏決疑経』の引用がありますが、ここでは摩訶迦葉への教外別伝があったと禅を理解していますので、道元の教外別伝批判に関しては日蓮は恐らく知らないはずです(ただし両抄はともに真蹟不存。該当箇所は創価学会版御書では150ページと487ページ)。


つまり日蓮が禅を批判したのは間違いないのですが、その禅批判は道元曹洞宗には当たらないということです。まして江戸時代に日本に来た黄檗宗などについては日蓮が知り得るはずがありません。


仏教を知った気になって、他宗批判を展開する大石寺系教団の信徒は、禅のことをろくに知りもせず、十把一絡げの乱暴な論理で禅系信徒を悪し様に否定することさえ平気でできるのですが、そろそろその暴論の酷さを自覚した方が良いかと私などは思います。



追記:2018.1.6
『蓮盛抄』と『聖愚問答抄下』に『大梵天王問仏決疑経』の引用があることはよく知られていますが、実はこの引用が存在する日蓮の遺文は真蹟中には他に存在しません。従いまして両抄は古来より偽書説の可能性の高い御書ではあります。









十界の成立について。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今日のテーマは「十界」の起源についてです。



「十界」と言うと、多くの創価学会員さんや大石寺の信徒さんがよくご存知の教義になりますけど、これ、別に日蓮の教義でも何でもありません。
本来天台宗で言われていたもので、天台教学における『仏祖統記』で出てくるものです。



ではこの起源はどこから来たものなのか、というのが最大の問題です。「十界」や「十法界」という用例は法華経には存在しないからです。



実は「十法界」の用例の初出は『法華経』ではなく『華厳経』です。華厳経漢訳のいわゆる『八十華厳』の入法界品で「了知十法界・一切差別門」という言葉が出てきます。



ところで、ここで最大の問題になるのは『八十華厳』の成立年代です。漢訳『八十華厳』は西暦695〜699年の成立で、ここから考えると天台智顗(538〜597)は『八十華厳』を見ていないことになります。西暦418〜420年に成立した旧訳『六十華厳』では「十法界」の語はなく、「分別深法界」と書かれているからです。


とすると、考えられるのは法華経です。
法華経に「十法界」の用例は存在しませんが、授記品には「四悪道・地獄・餓鬼・畜生・阿修羅」とありますし、随喜功徳品には「六趣衆生」とありますので、これらの語句を成立統括して、智顗として「十法界」の概念を生み出したと考えるのが自然かと思います。



ただ教義としての「十界」の概念は、やはり中国天台宗第6祖の妙楽大師湛然を待たなければならないでしょう。湛然(711〜782)の頃には既に『八十華厳』が成立していますから、湛然は十法界の概念から天台教学の整理を行ったことは想像に難くありません。








参考文献:
稲荷日宣「十界の成立」『印度学仏教学研究』第17号所収、1961年。




日蓮における他宗弾圧の正当化。





いつもみなさん、ありがとうございます。



以前、私はこのブログで今成元昭氏の論考を取り上げ、日蓮における「折伏」の用例が「国家の武力による宗教者への弾圧」の意味に近いのだということを書きました。


「摂受と折伏について」


この点については複数の識者も認めるところでして、創価大学の宮田幸一氏も論文で「鎌倉仏教の創始者は迫害を受けているが、その中で最も迫害を受けた日蓮が最も国家による宗教統制を主張していたのは歴史の皮肉だ」と述べています。


宮田幸一「日本仏教と平和主義の諸問題(1)」


宮田氏の論と重なりますが、日蓮の遺文からこの点について今日は見てみたいと思います。
まず初めに『守護国家論』です。


「而るに今の世は道俗を択ばず弓箭・刀杖を帯せり梵網経の文の如くならば必ず三悪道に堕せんこと疑無き者なり、涅槃経の文無くんば如何にしてか之を救わん亦涅槃経の先後の文の如くならば弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は先世の四重五逆を滅して必ず無上道を証せんと定め給う」
(『守護国家論創価学会版御書59ページ)


つまりここで日蓮は「正法の比丘」を守護するために「弓箭・刀杖を帯して」と積極的に武力の行使を容認しているんですね。


これが『立正安国論』になると少しトーンが変わってきます。



「全く仏子を禁むるには非ず唯偏に謗法を悪むなり、夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は即ち其の施を止む」
(『立正安国論』同30ページ)



つまり釈迦以前の仏教なら謗法者は斬罪なのですが、釈迦以降の仏教では謗法者への布施を禁じることで、謗法禁断の柔軟な方法をここで日蓮は提案しているように見えます。



ところが、晩年に至り、日蓮は再び積極的に武力による宗教統制、宗教弾圧を主張するようになります。それは『撰時抄』です。



建長寺寿福寺極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」
(『撰時抄』同287ページ)


日蓮が謗法を禁じたのは、謗法者を放置すると自界反逆難と他国侵逼難が起こり、国内外での争乱が起こるという、護国経典を由来とする危機意識からです。それは裏を返すと、国家が正しい教え=法華経を信奉するならば平和楽土が建設できると日蓮自身が信じていたからに他なりません。
そしてその理想の仏国土の実現のためなら、武力による宗教弾圧も正当化できるというのが日蓮の思想なのです。





法華真言の用例。





みなさん、いつもありがとうございます。
さて今回は法華真言未分の時期の日蓮についてです。



以前、ブログでも指摘したように、立宗の建長5年から文永中頃まで、日蓮法華経真言とが未分の立場でした。日蓮が明確に真言を批判するようになるのは、文永後期以降のことになります。また修学時代の蓮長、若き日の日蓮真言の徒であったことは『五輪九字明秘密義釈』や『不動愛染感見記』からも伺うことができます。



日蓮真言批判の問題点」



その証拠として、日蓮遺文中には「法華真言」と、法華経真言とを同格に併記する用例が多く散見されます。
具体的に「法華真言」の用例が見られる遺文は、私が確認した限りでは以下の通りです。


立正安国論』(真蹟中山)1箇所
『安国論御勘由来』(真蹟中山)1箇所
守護国家論』(身延曽存)14箇所
『災難対治抄』(真蹟中山)1箇所
『当世念仏者無間地獄事』(真蹟不存)3箇所
『本尊問答抄』(日興写本)1箇所
『頼基陳状』(日興写本)1箇所
真蹟断簡・京都本圀寺蔵、1箇所
真蹟断簡・京都本禅寺蔵、1箇所


なお『法華真言勝劣事』の題号は、明確に「法華と真言の勝劣」であり、比較の意味なので除きました。また後年の真言批判に至る『撰時抄』にも「法華真言等」という用例が見えますが、これは法華真言等の諸宗の意味で用いられており、これも用例からは外しました。


とはいえ、上記のこれらの諸抄に、とりわけ『立正安国論』と『守護国家論』に「法華真言」と並列して書かれていることは非常に興味深いところです。


例えば上記のうち、『立正安国論』の当該の箇所を引用してみましょう。


「之に就いて之を見るに曇鸞道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし」
創価学会版御書23ページ)


簡単に通解しますと、


「これ(法然の『選択集』)を見てみると、念仏の祖の曇鸞らの誤った釈を引いて、聖道・浄土・難行・易行の旨を立て、法華真言をはじめとする一切の釈迦の経典を『捨てよ』『閉じよ』『閣け』『抛て』の四字をもって一切衆生を迷わしている。」



となります。ここから考えれば『守護国家論』や『立正安国論』執筆の頃の日蓮は、法華と真言をまだ明確に区別しておらず、法華も真言もともに正しい教えであると考えていました。


『安国論御勘由来』はもっと明確です。
引用してみましょう。


「然るに後鳥羽院の御宇・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の身に入つて国中の上下を誑惑し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く、存の外に山門の御帰依浅薄なり国中の法華真言の学者棄て置かれ了んぬ」
(同34ページ)


簡単に通解してみましょう。


「然るに82代後鳥羽院の時代、建仁年中に法然房、大日房という二人の増上慢の者があり、悪鬼がその身に入って国中の上下万民を誑かし、人々は全て念仏者となり、或いは禅宗の信者となってしまった。そのため思いの外、比叡山に対する帰依の心が浅薄になってしまい、国中の法華真言の学者たちは捨て置かれてしまったのである。」


ここでも日蓮は明快に「法華」と「真言」をともに正しい教えであるとしています。