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「他宗批判と諸教包摂ということ」
日蓮が若き日に真言の徒であったことは諸抄から明らかです。『聖愚問答抄』でも「予も始は大日に憑(たのみ)を懸けて密宗に志を寄す」(創価学会版御書484ページ)と説かれていますし、何よりも『守護国家論』では明快に「法華真言」と法華と真言とを一体のものとして論じていることからも明らかです。
日蓮の念仏批判は教義的にまだ理解できます。つまり法然の『選択集』において法華経を棄てて念仏のみとしたのは、これは恵心僧都源信の『往生要集』と異なりますから、本来の恵心僧都における称名念仏という視点から法然の選択念仏を批判するのもわかります。
ところが、日蓮の真言批判はどうにも私には説得力に欠けます。例えば大日への批判は要するに法報応三身不相即を挙げるのですけど、そもそも即身成仏という語そのものが真言の用語ですし、これだけ読むと日蓮はちゃんと空海の『秘蔵宝鑰』等を読んでいるのかやや疑問になります(ちなみに『清澄寺大衆中』で日蓮は『秘蔵宝鑰』と『弁顕密ニ教論』を手に入れるように依頼しています)。
つまり「善無畏一行の横難横死」とか「弘法・慈覚の死去の有様」とか「即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし」とか現証上の罰とか凶相をもって批判をするのが日蓮の真言批判の特徴なのです(『星名五郎太郎殿御返事』御書1208ページ)。
私は日蓮の他宗批判について、その現証上の凶相批判については否定されるべきだと考えています。不往生とか臨終の相とかを根拠に批判されても説得力に欠けるというものです。