気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

数珠のこと。

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いつもみなさん、ありがとうございます。
たくさんの応援メッセージ、本当に感謝しています。Twitterアカウントもフォロワー数が2,000を越え、たくさんの方に読んで頂いていることに感謝の念しかありません。ありがとうございます。



さて今日のテーマは数珠についてです。
数珠は本来はバラモン教ヒンドゥーの文献にも見えるものでして、仏教に元からあったものとは言えなさそうです。他宗派でも多く用いられ真言や念仏では唱えた回数を数えるのに数珠を使っていたようですね(浄土真宗では念仏を唱える回数に意味はないとされていて、珠の個数は決められていません)。


ところで、日蓮の遺文中で「念珠」について言及されているものは、私の知る限り3箇所で、『当世念仏者無間地獄事』『種種御振舞御書』『妙法比丘尼御返事』の3編です(それぞれ学会版御書では104、918、1416ページ)。そのどれもが念仏者の使う「平形の念珠」について言及されていまして、日蓮がどんな形のものを用いていたかはあまり語られていません。


ただここで言及される「平形の念珠」は日蓮によって批判されていますので、大石寺ではそのことを踏襲しているようです。



さて本題ですが、大石寺ではもともと数珠の房の数は、左右に2本ずつでした。現在の「右3本・左2本」の形式は後世に成立したものかと思います。


冒頭1枚目の画像は、大石寺31世日因の『袈裟数珠の事』で、富士宗学要集1巻に掲載された画像を転載したものです。これを見ると数珠の房は左右ともに2本です。



また2枚目の画像は大石寺33世日元の『対俗三衣談』で同じく富士宗学要集1巻に掲載された画像です(対俗三衣談が著されたのは1751年で、法主登座前なので、当時の名は日芳)。これを見るとやはり2本ずつになっています。また先端は丸ではなく、毛を流した房になっていて、これに「一天四海へなびかす意味があるか」とされているのは興味深いです。


3枚目の画像は、同じく『対俗三衣談』の中の画像ですが、ここでは5本の指をなんと5大に配しています。五大とは覚鑁の五輪の思想であり、『総勘文抄』等に見られるものですが、それを指に配するのは面白いですね。












阿闍梨号について。





いつもみなさん、ありがとうございます。

さて今回は阿闍梨号についてです。


日蓮は自身の教義として、本門戒壇説を採っていましたが、本来「戒壇」とは授戒の場所です。戒壇とは授戒を行い、灌頂の儀式を行う場でした。


日蓮が自身のことを「日蓮阿闍梨」と書いているのは遺文中で3箇所ありまして『当世念仏者無間地獄事』『行敏御返事』『十住毘婆沙論尋出御書』です(学会版御書全集ではそれぞれ104、179、1288ページになります)。このうち『行敏御返事』は真蹟が鷲津本興寺に現存しますので、日蓮自身が「阿闍梨」号を名乗っていたことは真実であると思います。


問題になるのは、次の2点でしょう。


1、では日蓮はどこで灌頂を受けて阿闍梨号を得たのか。

2、六老僧などの弟子たちもまた阿闍梨号を得ているが、これは日蓮自身が授戒したのか。またその際になんらかの灌頂や授戒の儀式が存在したのか。



この2点ですが、確かなことはよくわかりません。もしも『不動愛染感見記』(真蹟:保田妙本寺蔵)を日蓮の真蹟と判断するなら、日蓮自身が建長6年の時点で、なんらかの密教の相承や灌頂を受けていた可能性が高いと思います。



そもそも日蓮の門下は、他宗で授戒を受け、修行してきた僧が日蓮に帰依する人が大多数です。日興も元々は四十九院の供僧で、天台宗で出家しています。


これについては、まだ私自身よくわからないところです。
ただ日蓮本人が誰からも戒を受けずに阿闍梨号を自称するとは私自身考えにくいと思っています。とすると、その受戒はどのようなものであったか、日興等に晩年、阿闍梨号を授与する際になんらかの儀式があったのかは興味深いテーマかと考えています。




日興の「本門寺」構想。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


さて今回のテーマは、日蓮の本門戒壇説が、日興にあっては「本門寺」と解釈されてきたのではないかという点です。


信憑性ある遺文から判断して、日興が「戒壇」という語を用いたことはありません。
日興が主張していたのは『富士一跡門徒存知事』や『三時弘経次第』に見られるように「本門寺」という思想です。


これは師匠である日蓮の「戒壇」構想を、日興が継承し、その結果生み出されたものが「本門寺」という構想であったのではないかと私は考えています。
日蓮自身が構想していた本門の寺は、本堂で授戒ができる戒壇としての機能を持っているものでしたから、その意味で考えれば日興が『三時弘経次第』で図示した富士山を本門寺とする考え方こそが、実は日蓮自身の純粋な戒壇説の継承であろうと思うんですね。


富士宗学要集に収められている日興の『三時弘経次第』では、日興自身の図が文章に置き換えられていますので、日興自身の真意がなかなか伝わりにくくなっているように思います。そこで実際の形に近い図を挙げてみます。記事冒頭画像はその図形です。


この図から考えると、日興の思想がよく見えると思います。
日興は「久成の釈迦仏」を根本とし、その付属の弟子を「上行菩薩日蓮」と位置付けています。そしてその根本となる場所を富士山の本門寺としたことになります。





参考文献:
菅原関道「富士日興門流の戒壇思想」、本化ネットワーク叢書『本門戒壇論の展開』所収、本化ネットワークセンター、2015年。

「作礼而去」について。





いつもみなさん、ありがとうございます。




さて本日は鳩摩羅什による法華経の改竄についてです。


ご存知のように原典の法華経『サッダルマ・プンダリーカ』は漢訳が複数存在していまして、全訳が存在するのは次の3つになります。


3、闍那崛多『添品妙法蓮華経


このうち鳩摩羅什法華経が巷間に流布されることになるのですが、実はこの鳩摩羅什訳、サンスクリット原典からかなり飛躍された訳になっていることは以前から指摘している通りです。
具体的には本来最期の章節であったはずの嘱累品が鳩摩羅什訳では22番目に配置され、普賢品が最後になり、いわゆる「二処三会」の原理が作り出されているという点は以前にブログで書きました。


「二処三会は存在しない」

「本来の法華経の構成」


つまり鳩摩羅什は末尾にあった嘱累品を「強引に」22番目に持ってきて、そこでいったん「虚空会の儀式」を終わりにさせる展開にしています。本来サンスクリット原典を読む限り、虚空会の儀式は最後まで続いていたはずなのですが、鳩摩羅什の訳ではそれが途中でいっぺん終わってしまい、地上での説法になるという不自然な構成になっています。



さて前置きが長くなりましたが、ここから今日のテーマです。
実は鳩摩羅什の構成では、最後の章節になるのは普賢品第28(普賢菩薩勧発品「サマンタ=バドラの鼓舞」)ですが、この末尾に鳩摩羅什が「作礼而去」(さらいにこ)等々の一節を恣意的に付加しているのです。


サンスクリット原典の末尾の文は以下のように終わります。


「この『サマンタ=バドラの鼓舞』という章が説かれている間に、ガンジス川の砂の数にもひとしい、幾千万億という偉大な志を持つ求法者たちは『幾千万億回も回転する』という記憶力を得た。」
(『法華経』下、岩波文庫版、335ページ)


これに対応する鳩摩羅什訳出部分は以下のようになります。


「説是普賢。勧発品時。恒河沙等。無量無辺菩薩。得百千万億。旋陀羅尼。三千大千世界。微塵等。諸菩薩。具普賢道。」
(同334ページ)


ところが、不思議なことに、この後、鳩摩羅什法華経普賢品はまだ続きます。次は原典にはない鳩摩羅什による付加部分です。


「仏説是経時。普賢等。諸菩薩。舎利弗等。諸声聞。及諸天龍。人非人等。一切大会。皆大歓喜。受持仏語。作礼而去。」
(同334〜336ページ)


簡単に訳すと

「仏がこの経を説かれた時、普賢等の諸々の菩薩、舎利弗、諸々の声聞、天龍、人、非人等の者たちは皆大いに歓喜して、仏の言葉を受持して礼をして去った。」


という部分が意図的に付加されているのです。
つまり、本来最終節ではない普賢品を強引に終わりに持ってきた結果、原典の文のみで終わるのが不自然になり、鳩摩羅什が意図的に「作礼而去」等々の一節を恣意的に書き加えてしまっているということです。


ですからサンスクリット原典には「作礼而去」の一節は存在しません。
ところで『御義口伝』には以下のような一節があります。


「然る間還つて己心の仏を礼す故に作礼而去とは説き給うなり、彼彼三千互遍亦爾の釈之を思う可し秘す可し秘す可し唯授一人の相承なり、口外す可らず然らば此の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すなり」
(学会版御書783ページ)


「作礼而去」の一節についての「唯授一人の相承」とまで言われる口伝があるとしているのですが、この一節は本来サンスクリット原典には存在しない、鳩摩羅什の恣意的な付加なのであって、教義の再考が必要になろうかと私は思います。





追記:
上記の法華経の漢訳鳩摩羅什版については、坂本幸男訳の岩波文庫版を参照しています。鳩摩羅什の普賢品については、いちおう創価学会版の『妙法蓮華経並開結』(聖教新聞社、2002年)も対照して見てみましたが、文節の区切り以外大きな相違は見られませんでした。当該の箇所は創価学会法華経開結では677〜678ページになります。



財務にたかる職業幹部。




いつもみなさん、ありがとうございます。
毎日たくさんのアクセスを頂いていることに本当に感謝しています。



さて池田大作氏が亡くなった後に、創価学会は果たして分裂するのかというと、これは難しい問題があります。
最大の問題は財務だと思います。


なぜかといえば、本部職員、執行部の給料の出所は間違いなく会員からの"財務"だからです。言い方悪く言ってしまえば、本部職員は会員の浄財とも言える"財務"にたかって、それらを食い扶持にして生活していると言えます。
分裂や分派活動をすることで、財務の金額が増える、あるいは少なくとも維持できるのであれば、分派活動をするメリットもあるのでしょうけど、現状で職業幹部である創価学会の本部職員には、その気骨がある人は恐らくいないでしょう。


件の元職員3人組を見ればいやでもわかりますが、彼らのように分派活動をすれば、所詮孤立して、お金が入らない中で資金として支援者のカンパをあてにするくらいしかできなくなることでしょう。本部職員はそのことを彼らを見ていやでも痛感しているかと思いますし。



例えば善意から、執行部の不正を暴いたり、あるいは池田氏の実態を暴露することも今後あるかもしれません。しかしながら、それをすることは、会員からの財務を否定することになります。ですから多くの本部職員の同調を得ることは難しいのではないかと私は考えています。


そんなわけで、厳しい言い方をしてしまえば、創価学会の本部職員は、所詮「財務」という、会員からの浄財を餌にして飯を食べている職業貴族に過ぎず、それを否定して生きていくことが事実上できなくなっているということかと私は思います。




弥四郎国重は誰か。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「弥四郎国重」についてです。




大石寺の奉安堂にある、いわゆる「戒壇本尊」には「本門戒壇之願主弥四郎国重」と書かれています。
ところで、この「弥四郎国重」という人物が何者なのかという見解が大石寺の歴史では一貫していないんです。


「弥四郎国重」に言及した、遡れる中で最も古い文献は大石寺17世日精の『日蓮聖人年譜』です。これと同48世日量の『富士大石寺明細誌』での見解は実は一致しています。
日精と日量の見解では「弥四郎国重」は「波木井三郎実長の嫡男」とされています。
以下に引用してみましょう。


「南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」
(日精『日蓮聖人年譜』富士宗学要集5-127ページ)


「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり、霊瑞に感じて良材を得以て蓮祖に献ず」
(日量『富士大石寺明細誌』富士宗学要集5-320ページ)


日量の『富士大石寺明細誌』が書かれたのは文政6年(1823年)ですから、時代的には明治以前、江戸時代くらいまで、大石寺では「弥四郎国重」を「波木井三郎の嫡男」と捉えていました。


この大石寺の見解が変化するのは明治に入ってからで、明治11〜12年(1878〜1879年)にかけて行われた問答で、北山本門寺34世玉野日志の問いに対して大石寺52世鈴木日霑がその答えに窮して以降のことです。



その後、どういうわけだか「弥四郎国重=波木井実長嫡男」説は言われなくなってしまい、次に浮上したのが「弥四郎国重=熱原の神四郎」説です。
昭和31年にも大石寺66世の細井日達は「弥四郎国重」について「熱原の神四郎」であるとする見解を述べています。



どうでも良いことですが、付言すると創価学会戸田城聖第2代会長は、この「弥四郎国重」について「己心中の弥四郎国重」(聖教新聞、昭和33年2月21日付)という、わけのわからない説明をしています(笑)。


そもそも「弥四郎国重」とは誰なのか、なぜ「本門戒壇の御本尊」が相伝されて伝わっていると言いながら、その願主の素性について、年代によって法主の見解が変わるのか、正しく伝わっていないのか、正しく伝わっていないとすればそれはどういうことなのか、それらを説明する義務が大石寺にはあるかと思います。
「弥四郎国重」の素性が法主によって、時代によって言っていることが変わっているとするなら、大石寺相伝というものは私にはまるで伝言ゲームくらいのレベルなのか?と穿った見方をしてしまいます(笑)。


日興から日代への相承。

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いつもみなさん、ありがとうございます。


ところで日興の新六の弟子の筆頭に重須養運坊日代という人がいます。
日代は日興より重須管長の継承があったのですが、このことを示す証拠が西山本門寺の本尊に遺されています。


具体的には「康王2年6月8日」とされる本尊の中に「日興上人、伝燈日代」と書かれています(画像参照)。


また大石寺17世日精は『家中見聞中』において、日目書写本尊の中に「日興上人、伝燈日代」(永徳3年10月)、「日興上人、遺弟日代」(貞治4年7月)と書かれてあったことを記録で残しています(富士宗学要集5-204ページ)。


ということは、歴史的に日興からの相承は複数存在し、大石寺は日目に譲られ、重須北山は日代に譲られたと考えるのが自然でしょう。大石寺が主張する唯授一人の相承などというものは、基本的に後世の創作であるかと私は思います。




参考文献:
柳沢宏道『石山本尊の研究』はちす文庫、増補版、2013年。