気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

「創革連」のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さてTwitterで図らずも呟いた「創革連」について、思いの外、いろんな方からご質問を頂いたので、記憶の許す限りで簡単に書いてみようかと思います。


創価大学に90年代に突如現れた「創価革新学生連合」(通称:創革連)の代表だったK氏です。学内で自身の共産党支持と政党支援の自由を主張した彼は現在、フリーランスのライターとして岩波書店から著作も出版し、雑誌『世界』の編集部にいるとのこと。K氏の実名はここで挙げませんが、ウィキペディアにも彼のことはきちんと掲載されています。


創価革新学生連合」が創価大学内に登場したのは平成7年前後だったように記憶しています。というのは平成7年といいますと、時は村山政権の頃でして(自民・社民・さきがけ連立政権)、この時に池田名誉会長を証人喚問しようとする動きが国会であり、そのことが記憶にあるからです。


「創革連」のK氏らは当初、この「池田名誉会長の証人喚問の断固阻止」を掲げ、学内で署名活動を行います。彼らは創価大学創価女子短大に顔を出し、熱心に署名活動を展開します。
時は村山政権で、創価学会への風当たりが強かった時代です。学生たちもどうにかして池田名誉会長を守りたいという気持ちが強く、彼らはそこに乗じて知名度をあげていきます。


彼らは公に「日本共産党支持」を表明していました。政党支援の自由を主張し、創大祭では「新党さきがけ」を支持する学生メンバーとともにパネルディスカッションを行なっていました。


創革連の本部(というか集まり場所)は丹木寮の1棟の一室でした(丹木寮という個室の男子寮が当時は4棟まだ現存していました。裏門から出て少し歩いたところで、現在はアパートが多く建っています)。そこに寮生たちとともに「創革連」のメンバーが集まっていたようです。寮には聖教新聞とともに「赤旗」が入っていました。


さすがに創価大学の男子寮に「赤旗」が入っていたり、共産党への支持を公然と表明したりしてきましたので、学内組織としても動かざるを得なくなってきたようです。何人かの幹部が彼らと接触し、創価学会を批判しないような約束を取り付けたという話を伺いました。



代表のK氏はその後、大学を退学し、フリーランスのライター、編集者として活躍していくことになります。すでに岩波書店からいくつも著作を出版もし、活躍されています。



私は当初、マルクスへの興味関心からK氏と話すことがありました。ただ彼が徐々に日本共産党への支持を公然と表明したあたりから、組織的な絡みで彼と会う機会が減っていきました。
できることならもう一度彼と会ってマルクスのこととかいろいろ話してみたいと思います。今なら返って彼の正当な評価ができそうな気がします。また創価大学中退でありながら、ライターや編集者として活躍している姿は創価学会としても公式に再評価しても良いのではないかと思います。






都議選が外注?






いつもありがとうございます。



さて先日、現役の青年部員さんから衝撃的なお話を聞きました。
なんと今回の都議選で、青年部の遊説隊が集まらず、大田区ではついに創価学会青年部ではなく外注で(つまりアルバイトをお金で雇って)遊説隊を組んでいるのだそうです。
伝聞情報なので裏を取ってはいないのですが、青年部の活動家さんからの情報なのでほば信頼してよいかと思い、ここに書くことにしました。



青年部員が激減している現状の中で、大田区では男女青年部の活動家を遊説隊に回すと拡大戦にならないと判断。遊説隊を外注にしてアルバイトで雇い、青年部員を友好活動に打って出させるという作戦にしているのだそうです。



どうもこれには他組織からは異論があるようで、例えば世田谷区の創価学会組織では大田区の外注のやり方に戸惑いを禁じ得ず、「絶対に大田区には得票数で負けない!」という選挙戦を展開しているようです。



今まで公明党支援に関して創価学会は男女青年部の力で手弁当で遊説隊などをやってきましたが、ついにそのシステムが崩壊しかかっていると言えるでしょう。どうもこの外注というやり方を取っているのは大田区以外にもあるようです。


もしこれで大田区公明党が選挙に勝つことになれば、今後青年部員を遊説隊に起用することを順次取りやめ、公明党が遊説隊を外注することが一般的になりかねないでしょう。


今回の都議選、がぜん面白くなってきました!


石田次男の重用。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は戸田城聖会長が石田次男氏を重用していたことについて、少し書いてみたいと思います。


以前も昭和26年の青年部の陣容ということで関連する記事を書いています。今回はその続きのような感じで書いてみましょう。


「昭和26年の青年部の陣容」




昭和28年1月2日、男子部第1部隊長だった石田次男は戸田会長により小岩支部支部長に抜擢されます(妻の栄子も同支部の婦人部長になります)。
小岩はA級支部でしたが、折伏の成績は第7位と実際は低迷していました。前年の暮れに創価学会の公称世帯数は22,300、翌昭和28年の目標は5万世帯と発表されていました。戸田の会長就任から1年半で約7倍になったことになります。ちょうど戸田が健康を損ね始めた時期でもあります。


石田次男の小岩支部支部長の起用に関して、戸田会長は次のように語っています。



「富田君(前小岩支部長の富田作十氏のこと)は今迄実に良く働いた、全く見て涙ぐましい程働き続けたが、誰もこれについて行かない。地区部長も班長も誰も一緒にやろうという者が無かった。これを見て居た私も考え抜いたが今度は腹を実行に移した。私は昔から小岩を愛してきた、今もそうです、今日から次男に支部旗を渡して、次男にやりたい放題のことをやらせる、誰もついて来なくても良い、俺と次男と二人で支部旗を握って起ったんだ、小岩に誰も居なくなって、俺と次男と二人だけになってもかまうものか。文京ではこんなことはいわなかった。しかし、小岩は事情が違う。常泉寺の門前に二人が支部旗を握って立てばそれで良いのだ。小岩は今日からそのつもりで居れ。…………小岩は貧乏人がたくさん集っている、班長、地区部長諸君はこれを機会に大いにガンバッて金をもうけなさい」
聖教新聞、昭和28年1月10日付)



戸田城聖という人の人事は大胆なものでした。その人事は完全に能力主義で、年齢や経験、入信の年数さえ全く考慮されていません。ですから戸田の人事は会員にやる気を起こさせるとともに、いつ解任されるかわからない緊張感ももたらしました。この戸田の人事こそが当時の創価学会に行動への活力を与えていたものだったことは容易に想像できます。


上記の戸田会長の発言を読むと、彼の石田次男氏への信頼がよくわかります。当時、青年部の石田氏を支部長に抜擢することはかなりの大胆な人事だったはずです。今までは男子部の部隊長でしたが、今度からは年長者の上に立って指導をしていかないといけないわけです。
戸田会長の発言は予想される支部内の抵抗や反発を封じる意図、そして同時に彼自身の石田氏への深い信頼を強く感じるものです。
青年部の中にあって戸田の石田への信頼は別格のものであって、これは終生変わることがありませんでした。


昭和28年1月2日の同日、池田大作石田次男の後任として男子部第1部隊長に就任。ここから池田氏龍年光森田一哉、北条浩と同格、またら一歩リードするかたちになりましたが、戸田と石田のような深い師弟の関係にまでは至っていなかったというのが事実に近いと思います。




参考文献:
溝口敦『池田大作「権力者」の構造』講談社+α文庫、2005年。






儒教における孝養。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて少し前の投稿で日蓮の思想の背景に儒教の影響があることを少し書きました。


立正安国論』の儒教的な発想。


今日は日蓮の使う「孝養」という語に注目してみたいと思います。なお今回の投稿は立正大学・原愼定氏の論考を参考にしています。


「孝養」という語の意味するものは「親へ孝行を尽くしてよく養うこと」また「亡くなった親を懇ろに弔うこと」だそうです。
この「孝養」という考え方は親子関係のあり方を示した儒教での徳目の一つです。


この「孝養」は日蓮の真蹟遺文でたくさん使われている語です。例えば『唱法華題目抄』『開目抄』『法蓮抄』等々、たくさんの遺文中で散見されます。

鎌倉時代において親への「孝養」は主君への「忠誠」とともに封建制社会の秩序を支えた基本道徳でした。とりわけ鎌倉時代は親権の絶対性が認められていまして、そこでの「孝養」は倫理的に重要な道徳規範と考えられていました。日蓮の遺文では例えば『四条金吾殿釈迦仏供養事』や『始聞仏乗義』で「孝養」という語が見られますが、そこではやはり亡くなった親を弔う追善供養の意味で使われています。


特に日蓮の「孝養」の特殊性を語るならば『開目抄』に着目しないといけません。


儒家の孝養は今生にかぎる未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕るれ、顕わるれ、此の経は内典の孝経なり」
(御書全集223ページ)


ここで日蓮は、儒教における孝養に対し、法華経による孝養の優位性を主張しているように見えます。
また『法蓮抄』では孔子説とされる「孝経」を「外典の孝経」とし「法華経」を「内典の孝経」と位置付けています。


北川前肇氏の指摘によれば、日蓮儒教の実践倫理が「孝」にあることを「孝経」から見出しつつも、真実の孝養は法華経にあるとしまして、それに違背する親や主君に対して「孝経」から「諫言をする」ということを正当化していたと考えられます。


戸頃重基氏は、これらの日蓮の孝道的な思想が安易に儒教と妥協したものだとして、日蓮儒教と仏教の「皮相な折衷主義」と批判しています。



総合的な判断については、賢明なブログ読者のご判断にお任せしますが、ここで私が指摘しておきたいのは、少なくとも日蓮の「孝養」という考え方は儒教の「孝経」から採用された考えであり、日蓮はこの儒教的な考えから法華経を解釈したという可能性があるという点です。



参考文献:
原愼定「日蓮教学における「孝養」の一考察」
印度佛教學研究第45巻第1号、平成8年12月。




『立正安国論』の儒教的な発想。






いつもみなさん、ありがとうございます。



さて『立正安国論』は国家諫暁の書と言われたりします。

ところで"諫暁"という言葉ですが、これは国家の為政者を諌めるというニュアンスで使われています。仏典では使われない言葉です。
そもそも日蓮の『立正安国論』は法華経を根本に国を治めていくべきだということを訴えた書物かと思いますし。



ところで、法華経そのものにこのような国や為政者、王臣などと関わってそれを変えていく発想があるのかというと、ないんですね。
それどころか法華経の安楽行品には「国王や大臣などに親近してはならない」という一文さえ存在します。実際、聖徳太子も『法華義疏』の中で「国王や大臣たちに近づいてはならない」と示しています。


少しでも仏典を学んだことがある方ならわかることなのですが、そもそも仏教というのは政治の世界に与するものではありません。つまり仏教には本来現実の政治を変革するという発想が存在しないのです。


では日蓮が現実の政治の世界の変革を目指したとする発想の由来は何なのでしょう。
おそらくそれは中国経由で入ってきた『貞観政要』などにみられる儒教の考え方なのではないかと私は思っています。
儒教が日本に入ってきたのは513年、継体天皇の頃に百済から来た五経博士によって伝えられたと言われています。これは仏教伝来よりもはるかに早く、どうも『日本書紀』にその記述があるようです。儒教はだいたい5世紀から6世紀には日本に伝わってきていたとするのが一般的な理解のようですね。
立正安国論』にみられる「国や為政者は正しい僧を重用すべきであり、間違った僧を用いればそれ相応の報いを受ける」という考え方は仏教というより、儒教的な考え方でしょう。
そもそも日蓮が「三度諌めた後に用いられなければ、山林に入る」として身延山に入ったことは、どう考えても発想的に儒教かと思います。


日蓮門流はこの点にあまり自覚がなく、政府に『立正安国論』を提出したり、近年に入ると日蓮主義が国粋主義と結びついたり、国立戒壇とか言ってみたり、あるいは政党を作ったりしてきました。ところがそうやって為政者と関わっていく発想は仏教の考え方ではないと思うんですね。




追記:
考えてみると、池田名誉会長と対談もしているハーバード大学のドゥ・ウェイミン氏の専門は儒教です。また名誉会長がしばしば語る「親孝行」という発想も多分に儒教的なものを感じますね。とすると池田名誉会長の考え方と儒教は相性がよいのかもしれません。







昭和26年の青年部の陣容。




いつもみなさん、ありがとうございます。
池田大作戸田城聖の唯一の弟子のように思われてますけど、少なくとも昭和26年では池田大作氏は単なる一班長に過ぎず、飛び抜けて戸田城聖の唯一の弟子という位置にありません。
今日はそんなことを考えてみたいと思います。
ちなみに昭和26年(1951年)といえば、5月3日に戸田城聖氏が第2代会長に就任する年です。


戸田氏は会長就任とともに人事を発表します。

理事長:空席
筆頭理事:和泉覚
理事:柏原ヤス森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治辻武寿
指導監査:矢島周平
財務部長:和泉覚
講義部長:原島宏治
指導部長:柏原ヤス
婦人部長:和泉みよ
青年部長:辻武寿
男子部長:牛田寛
女子部長:小島栄子
企画部長:原島宏治
秘書室:石田次男


またこの当時の男子部の部隊長はそれぞれ次のようになっています。


第1部隊長:石田次男

第2部隊長:北条浩

第3部隊長:森田一哉
第4部隊長:龍年光


理事長が空席というのは何を意味するのかと言いますと、これは矢島周平氏をヒラの理事からも追い落としたということです。この後、同年6月に戸田は矢島周平氏を休養の名目で指導監査部長からも下ろします(後任は柏原ヤス)。後に矢島氏は昭和28年には大石寺に出家しなければならなくなります。


池田大作は当時、第4部隊に配属されていまして、まだ指導部の準指導員に過ぎませんでした(第4部隊・龍部隊所属、池田班班長)。彼が準指導員に任命されたのが昭和26年10月1日ですが、同時に上記の牛田、森田、龍、石田たちは指導員に任命されています。まだこの時、池田は教学部の助師に過ぎず、12月27日に講師になると同時に石田次男助教授に昇格しています。
またこの年の11月に『折伏教典』が完成。この主たる執筆は石田次男氏によって行われました。この時にまだ助師に過ぎなかった池田はその編集に携わることさえ許されませんでした。


ちなみにこの年の12月に早大生の秋谷栄之助が入信しています。秋谷はその後、戸田に高く評価され「城栄」という名を与えられます。秋谷は石田の下で聖教新聞の編集主任として活躍するようになります。秋谷さんは石田さんから「カミソリのように切れる」と高く評価されていました。


またこの12月には東大生だった渡部一郎(後の渡部城克)氏が駒場教養学部掲示板に「仏教研究会」の設立趣旨を掲示しまして、これが後の「東大法華経研究会」の前身になっていきます。渡部氏の東大法華経研究会の活動については小説『人間革命』8巻でも描かれているのでご存知の方も多いでしょう(渡部一郎さんは人間革命では「渡吾郎」という名前で出てきます)。


翌昭和27年1月に池田氏は蒲田支部支部幹事になります。1月5日に創価学会は新組織の形を現在の形に近い支部・地区・班・組制に切り替えています。
2月9日、池田氏は男子部の参謀になりますが、この時に石田氏は主任参謀になります。ですから池田氏は上記の5人のメンバーから見れば完全に格下の存在でした。池田が助教授になる頃には石田も牛田も教授に昇格しています。
ちなみに後の2月闘争と言われる蒲田の戦いはこの頃でして、2月28日に池田支部長の下、蒲田支部は201世帯の折伏を達成しています。


池田氏と森田、北条たちとの力関係が少し変化するのは昭和28年1月2日、石田氏が小岩支部支部長に就任し、池田氏がその跡目として第1部隊長になった時なんですね。この時点で池田氏は森田氏や北条氏よりも一歩格上になります。しかしながら戸田が亡くなる最後まで池田氏よりも石田氏の方が序列としては上という感じになります。













とあるブログの方へ。







いつもありがとうございます。
ブログの記事、拝見しました。
子どもの頃から疑問に思っていたことも、創価学会では幹部に聞くと「余計なことを考えるな。仏法は実戦だ。理屈じゃない」なんて、私も散々言われてきました。
私もその素朴な疑問はよくわかります。


調べたくても調べられなかったことを、私のブログで学ばれているとのこと。こちらこそお読みいただいて本当にありがとうございます。


お寺の信徒になったら勉強できるかなぁと思ったのは確かに幻想かもしれませんね。私もバリバリの活動家だった頃、本気で出家したいなと思っていました(笑)。でも大石寺さんも頭でわかってはいても、ご自身のご都合の悪いことはあまり話してくれないんです。立場への理解はできますが、共感はできませんでした。



私のブログはやや小難しいことも書いてます。私自身があまり理解力がなくて、なるべく噛み砕いて自分がわかりやすく書くことを主眼に置いているんですね。そのため、議論をやや単純化しすぎるきらいがあるやもしれません。また充分に説明できず、誤解を招くこともあり、私自身、反省する日々であります。その点は申し訳なく思っています。



創価学会をやめると、確かに家族からは絶縁状態になりますよね。口ぎたなくお互いを罵り合って…………後には怨恨しか残らない。そんな関係って悲しくなります。でもそういった人たちを生み出してしまったのも創価学会であり、大石寺なんだと思います。



もう少し早く私がこのブログを始めていたら何か変わったのか、自問することもありますが、それはわかりません。ただ私もまた悩みながら苦しみながら、自分の生きてしまった道を総括し、反省し、新しく生きていきたいと考えているだけなのです。
それがご都合主義だとか無反省等と他より批判されるなら、その批判は甘受したいと思います。しかしその反省の上で新しく生きる何かを提示することでしか、自分の人生を新しく生きる意味を他者に評価してもらうことはできないと考えています。


ブログ主さんの家族の確執のこと、「深い傷が残った」ことを思うと、胸が痛みます。過去を忘れることは普通できませんし、なかったことにすることもできません。けれど痛みがあるからこそ、同じ痛みを覚える人たちを理解できる、そういう人間性を持ちたいと私は考えています。できているかいないかはもちろん別問題ですけど。



真摯なブログ記事に感謝します。
ここでは特にブログもブログ記事のタイトルも挙げません。お読み頂いている方がお分かり頂ければ私はそれだけで充分です。
ありがとうございます。今後とも参考になるブログになるよう鋭意努力して参ります。