気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の非活メンバーによる語り

昭和26年の青年部の陣容。




いつもみなさん、ありがとうございます。
池田大作戸田城聖の唯一の弟子のように思われてますけど、少なくとも昭和26年では池田大作氏は単なる一班長に過ぎず、飛び抜けて戸田城聖の唯一の弟子という位置にありません。
今日はそんなことを考えてみたいと思います。
ちなみに昭和26年(1951年)といえば、5月3日に戸田城聖氏が第2代会長に就任する年です。


戸田氏は会長就任とともに人事を発表します。

理事長:空席
筆頭理事:和泉覚
理事:柏原ヤス森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治辻武寿
指導監査:矢島周平
財務部長:和泉覚
講義部長:原島宏治
指導部長:柏原ヤス
婦人部長:和泉みよ
青年部長:辻武寿
男子部長:牛田寛
女子部長:小島栄子
企画部長:原島宏治
秘書室:石田次男


またこの当時の男子部の部隊長はそれぞれ次のようになっています。


第1部隊長:石田次男

第2部隊長:北条浩

第3部隊長:森田一哉
第4部隊長:龍年光


理事長が空席というのは何を意味するのかと言いますと、これは矢島周平氏をヒラの理事からも追い落としたということです。この後、同年6月に戸田は矢島周平氏を休養の名目で指導監査部長からも下ろします(後任は柏原ヤス)。後に矢島氏は昭和28年には大石寺に出家しなければならなくなります。


池田大作は当時、第4部隊に配属されていまして、まだ指導部の準指導員に過ぎませんでした(第4部隊・龍部隊所属、池田班班長)。彼が準指導員に任命されたのが昭和26年10月1日ですが、同時に上記の牛田、森田、龍、石田たちは指導員に任命されています。まだこの時、池田は教学部の助師に過ぎず、12月27日に講師になると同時に石田次男助教授に昇格しています。
またこの年の11月に『折伏教典』が完成。この主たる執筆は石田次男氏によって行われました。この時にまだ助師に過ぎなかった池田はその編集に携わることさえ許されませんでした。


ちなみにこの年の12月に早大生の秋谷栄之助が入信しています。秋谷はその後、戸田に高く評価され「城栄」という名を与えられます。秋谷は石田の下で聖教新聞の編集主任として活躍するようになります。秋谷さんは石田さんから「カミソリのように切れる」と高く評価されていました。


またこの12月には東大生だった渡部一郎(後の渡部城克)氏が駒場教養学部掲示板に「仏教研究会」の設立趣旨を掲示しまして、これが後の「東大法華経研究会」の前身になっていきます。渡部氏の東大法華経研究会の活動については小説『人間革命』8巻でも描かれているのでご存知の方も多いでしょう(渡部一郎さんは人間革命では「渡吾郎」という名前で出てきます)。


翌昭和27年1月に池田氏は蒲田支部支部幹事になります。1月5日に創価学会は新組織の形を現在の形に近い支部・地区・班・組制に切り替えています。
2月9日、池田氏は男子部の参謀になりますが、この時に石田氏は主任参謀になります。ですから池田氏は上記の5人のメンバーから見れば完全に格下の存在でした。池田が助教授になる頃には石田も牛田も教授に昇格しています。
ちなみに後の2月闘争と言われる蒲田の戦いはこの頃でして、2月28日に池田支部長の下、蒲田支部は201世帯の折伏を達成しています。


池田氏と森田、北条たちとの力関係が少し変化するのは昭和28年1月2日、石田氏が小岩支部支部長に就任し、池田氏がその跡目として第1部隊長になった時なんですね。この時点で池田氏は森田氏や北条氏よりも一歩格上になります。しかしながら戸田が亡くなる最後まで池田氏よりも石田氏の方が序列としては上という感じになります。