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創価学会の非活メンバーによる語り

大石寺7世・日阿のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は大石寺貫主法主)で第7世の日阿という人のことを考えてみたいと思います。
というのは大石寺法主の中で、どういう人物なのか今ひとつよくわからないのがこの日阿という人なんですね。



まず大石寺17世日精の『富士門家中見聞』の「日有伝」の項を見てみます。


「一日阿上人、日有師の相伝に云く日時上人の代官なり、応永十四丁亥年三月十日没したまふ、贈上人の事日秀日弁両人は贈官なり、然レども貫主と一同には列せず、(中略)此レ等の例に随順して案ずるに貫主か。」
(富士宗学要集5-257ページ)


大石寺法主の代の前後の繋がりは

第6世・日時
第7世・日阿
第8世・日影

となります。
きちんと法主の7代目に数えられているのですが、ここで日精は日阿を「日時の代官」としています。代官ってどういうことなんでしょうね。つまり一時的な代理の法主だということなのでしょう。
日精はここで日阿について「代官であって正式な法主ではないと考えられているけど、私が思うに法主ではないか」としています。


まずこの時点でよくわからないんですね。
そもそも日阿が法主なのに「代官」であるというのも私にはあまりわからないですし、この日精の『富士門家中見聞』には「日時伝」と「日影伝」の項は存在するのに、なぜかその間の「日阿伝」の項がありません。このことから考えても日精の中で「日阿」は「日時と日影の間の繋ぎ、代官」という存在として理解されているかと思います。


次に大石寺31世日因の『有師物語聴聞抄佳跡』を見てみます。


「日影上人(中略)日時上人に随順し出家学道ス、武州仙波ニ台家を学びて後下野平井園部に弘通し会津実成寺住居すの時日時上人御遷化なり、之によつて日阿代官トシテ当山大坊に居住して日影上人を請す、然ルニ会津雪国ニシテ翌年応永十四丁亥年四月御登山なり、日阿代官老衰病に遭い而応永十四丁亥年三月十日御遷化なり、此に於て天大御相承等柚野の浄蓮に伝えて日影上人に授与す、」
(富士宗学要集1-221ページ)


日阿は日時に随順していたようなのですが、日時の死に伴い、法主の代官として法主に当座します(応永13年6月4日)。
その後、彼は日影を呼ぼうとしましたが、日影は会津の雪国にいたために大石寺に来るのが遅くなりました。日阿は法主当座後、わずか9ヶ月で、応永14年3月10日に亡くなります。日影が大石寺に来たのはその翌月4月のことです。


つまり日影は相承を受ける際、先代の日阿から直接相承を受けてはいないことになります。
興味深いのはこの相承の方法なのですが、日阿が亡くなる前に彼は在家である「柚野浄蓮」という人物に相承と相承箱を預けて、それを日影に伝えるという方法をとっている点です。


これらを読むと、当時に大石寺に伝わっていた相承とか相伝というものは

「相承をとりあえず在家に伝えることも可能」
法主から次の法主へ相承する際に直接会わなくても可能」

という推論が成り立つことになります。