いつもみなさん、ありがとうございます。
さて突然ですが、私は「さとり」というものが存在しないものだと思っています。
初期原始仏典のスッタニパータ、また大パーリ・ニッバーナ経を読んでも感じるのですが、仏教の本質とは人我見と法我見の克服にあるのだと思います。
止観から観れば、一切の本質は空であるわけで、私たちは虚構の世界に生きていることになります。人間の価値というものが虚構であることはマルクスがすでに『経済学批判要綱』で指摘したことでもあります。だからマルクスは使用価値と貨幣価値とを分けるんですね。しかしそもそも使用価値でさえ、人間にとっての価値であり、その本質は虚構であると言えます。
普遍の法への固執こそ、私たちが克服しなければならない最大のものだと考えています。
法への固執を克服することによって、自分以外の思想を受け入れて認めることができるのだと思います。
「どこかに真実の法がある」なんて思っているから、間違った法を教えようとした教団や宗教指導者を非難して愚弄するだけの人間性に堕してしまうのではないでしょうか。
そうではなくて、正しい法などそもそも存在しないのだと思います。釈迦の教えとはそういうことであると思います。先日ブログで紹介した薬草喩品にもありましたが、一切の本質は存在しないのだということです。
私の考えですが「さとり」というものさえ一つの方便に過ぎないのだと思います。
方便とはウパーヤ・カウシャルヤの訳で、岩本裕氏はこれを「巧妙な手段」と訳しています。「さとり」が存在しないけれど、その目標を設定することで、人の生きる道を説いたのが釈迦の本来の教えなのではないか、最近はそんなことを考えています。
南無妙法蓮華経と名指されるような何かが存在しているのか。そんなものは存在しません。
名指される対象がなければ祈ることができませんから、秘妙方便として祈るだけで、それは本質的には存在していないということを理解することが龍樹の教えであると私は考えています。
真実も悟りもない世界で、それでも「真実」や「悟り」を求めざるを得ないのが人間の本質なのだと思います。だからこそ虚構としての「悟り」へ向かうために「秘妙方便」として御本尊だとかお題目だとかがあるのではないでしょうか。
追記:
一切の本質が存在しないという立場を否定し、「法の常住」を主張することが日蓮の教えだとする立場に立つなら、それは思想の自由ですけど、結局大乗以前の説一切有部に戻ることと本質的にはなにも変わらないと私は思います。事実、法華経の薬草喩品にもサンスクリット本で「一切の本質が存在しないこと」を主張していますから、法華経の文とも矛盾するかと思います。