気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

法華初心成仏抄の信用性の問題。



いつもみなさん、ありがとうございます。


さていつも思うことなんですけど、創価学会大石寺も『法華初心成仏抄』が本当に好きですよね〜って思います。
先日も聖教新聞で出てました。これ8月の座談会拝読御書だそうです(聖教新聞2017年8月1日付4面)。


結論から言えば、この御書は自分たちの教義の説明に都合が良いから使っている気がします。そもそもこの『法華初心成仏抄』は真蹟が現存しません。偽書の疑いが濃厚なものばかりを取り上げて、日蓮真蹟扱いにして教義の説明をするのは、日蓮の思想の真摯な探求ではなく、単に教団の現今の教義の説明に都合が良いだけという印象を抱きます。



「一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ」
(『法華初心成仏抄 』学会版御書557ページ)




この御書の問題点は以下の点にあります。

1、真蹟が存在しない。
2、己心を本尊とするため本尊は不要になる(なお己心と本尊が呼応して一致するという思想は梵我一如のバラモンウパニシャッドの思想)。


ですからこの『法華初心成仏抄』を一番に引っ張ってくるんじゃなくて、やはり真蹟の存在する遺文から引用すべきだと思うんですね。
そうでなければ、それは日蓮の思想でも何でもないものを広めてしまう可能性を否定できません。
真蹟遺文をきちんと第一に引用して、その後で傍証としてこの『法華初心成仏抄』のような遺文を出すならまだ信用が置けるというものです。
先日の8月1日付聖教新聞紙上で、併せて引用されていた御書は建治3年の『日女御前御返事』(御本尊相貌抄、真蹟不存)だけです。


要するに真蹟という観点で、日蓮を語ることができず、教団の現今の教義に都合が良いから使っているだけというのが創価学会大石寺の教学に過ぎないということです。