気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日興は『開目抄』真蹟を見ていない。

 

 
 
 
いつも皆さん、ありがとうございます。
 
 
さてTwitterでいろいろな方と話すうちに、当たり前と思っていたことが実はそうではないと気づかされることがあります。
例えば『開目抄』のことです。
 
 
 
身延曾存の御書『開目抄』真蹟は明治8年(1875年)に身延の火災で焼失しましたが、慶長9年(1604年)に久遠寺21世寂照院日乾が曾て存在した真蹟を元に原文と写本の対照をしており、岩波文庫収録のものはこの日乾の見解を根拠としていますので、それなりの信用性を担保していると私は考えています。
 
 
しかし全編にわたる上古の写本が存在せず、本来のテクストがどこまでなのかというのは検討の余地があることに気付かされたんですね。
 
 
確かに日興写本(北山本門寺蔵)は存在するのですが、これは『開目抄』の要文であり、全編の書写ではありません。
そして更には『富士一跡門徒存知事』には以下のようにあります。
 
 
「一、開目抄一巻、今開して上下と為す。
佐渡国の御作・四条金吾頼基に賜う、日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校えず。」
創価学会版御書1604ページ)
 
 
つまり日興自身は生前『開目抄』真蹟を見ていないということがわかります。
 
 
『開目抄』のテクストの再構成に関しては、久遠寺21世寂照院日乾の見解からもう一度考え直さないといけないのかもしれませんね。
 

創価から離れられない法華講。





いつもみなさん、ありがとうございます。



ところで、大石寺法華講さんの信徒拡大の方法を見ていると共通する特徴は、ほとんどが「創価学会員の脱会・切り崩し」だということです。



つまり自前で信徒を獲得する方法論が宗門内ではほとんど確立されておらず、やってることはほぼ全て創価学会への批判であり、創価学会員の切り崩し工作に過ぎないんです。



現状として、大石寺法華講さんの会合を覗くと、大きな会合で体験発表等で登壇している人物のほとんどが元創価学会の活動家ばかりで(笑)、学会員ではない一般の方が大石寺の信徒となる事例は最近はほとんど見られません。



宗門問題以降、大石寺創価学会という最大のパトロンを失ってしまったわけなのですが、そのため講員に発破をかけて弘教させる、その方法論が創価学会の切り崩しであり、方法論が創価学会由来のものであるとすれば、噴飯ものです。事実として大石寺の熱心な信徒さんほど、言っていることの半分以上は創価学会顕正会等の批判に費やされます(笑)。ツイッターフェイスブック等で法華講さんらのアカウントを見てみると良いでしょう。言っていることの半数以上が創価学会への批判です。



大石寺が欺瞞の教団だと私が考える理由は実はこの辺にもあって、彼らが自身を正統な日蓮の教団だと言い張るなら、何も創価学会など目もくれず、ひたすら一般の方に自分たちの信仰を訴えていけばよいだけのことです。
結局それが出来ず、創価学会への批判を繰り返すことしかできないとすれば、所詮、大石寺創価学会と縁を切ったように見えながらも、創価学会の方法論から離れられない実態を暴露しているに等しいのではないでしょうか。
つまり「アンチ巨人ファン」の実態は「熱烈な巨人ファンの愛の裏返し」に過ぎないと言うことです。



日蓮真蹟に存在しない用語。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は日蓮の真蹟遺文では1箇所も使われない用語なのに、なぜか大石寺創価学会日蓮の重要なタームであると勘違いしている語句を紹介してみます。
以下に列挙する語は、日蓮の真蹟遺文中には1箇所も存在していません。したがってこれらの用語は日蓮の思想の中心ではないと判断するのが自然かと思います。


1、無作
2、本覚
3、血脈
4、自受用
5、本因妙
6、当体蓮華
7、不変真如
8、随縁真如


これらの語は日蓮の真蹟遺文には存在しません。つまり日蓮がこれらの語を語ったことはないということです。
ですから、日蓮の思想にこれらの語が例え存在したとしても、それはあくまで傍系の思想に過ぎず、日蓮自身の思想とは言い難いでしょう。



そもそも日蓮の遺文や御書に真偽の問題があることさえ知らない学会員さんが多過ぎます。


これらの語を否定し、真摯に日蓮の真蹟を読み、一から考えることこそが真実の教学なのであって、どこかの教義の借り物で思索してもそれは屹立した信仰でもなく、ただその人が教団に利用され、食い扶持になるだけのことかと思います。







大師講について。




いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は「大師講」についてです。



日蓮富木常忍ら信徒とともに、天台智顗の命日にあたる毎月24日に恒例の「大師講」という信仰行事を開催していました。対象は武家たちです。



「大師講の事、今月明性房にて候が此月はさしあい候又余人の中せんと候人候はば申させ給えと候、貴辺は如何、仰を蒙り候へ、御指合にて候はば他処へ申すべく候、恐恐」
(『富木殿御消息』創価学会版御書949ページ)※注


ここで書かれている内容を訳すと以下のようになります。


「大師講の開催について、今月は明性房が当番なのですが、都合が悪くて座長を務めることができません。もし他の人の中に代役を務めるという人がいれば伝えてください。富木殿、貴方ではどうでしょうか。承諾の返事が頂けるとは思いますが、ご都合が悪ければ他の方にお願いすることにしましょう。」



弟子たちや信徒の武家たちによって月齢の大師講が運営され、日蓮自身もこの場にしばしば臨んだと考えられます。
日蓮が相手にしているのは学識の高い武家たちや弟子たちです。いずれも文字の読める人たちで、天台大師智顗の法門を講義し、弟子たちには『一代五時鶏図』に見られるような天台法門を教えていました。内容的には法華経、智顗や湛然を中心とした講義です。とても民衆に理解できるようなものではありません。




ところで、このような「大師講」が日蓮在世中に存在しながら、なぜか大石寺戒壇本尊には「法華講」という文字が書かれています。周知の通り、日蓮在世中に法華講は存在しません。これを「日蓮大聖人様は未来を予言されて法華講と書かれたのだ」とまことしやかに語る法華講さんを何人か知っていますが、非科学的な笑い話は内輪だけにしておいてほしいと切に願うものです。





追記:※注
創価学会版御書で『富木殿御消息』を読んでいて驚いたのですが、いくつかの語が削除され、文章が改竄されています。具体的には「貴辺は如何」の「如何」の部分です。つまり日蓮富木常忍に「貴方が座長ではどうでしょうか」と提案している部分を削除しているんですね。意図的なものだとすれば、姑息な印象を受けます。

梵字「バン」について。

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いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は冒頭の画像にある、梵字「バン」についてです。
この文字は「バン」と読みまして、日蓮門流の曼荼羅本尊では向かって右側に書かれます。多くの創価学会員さんや大石寺法華講さんもご存知のことと思います。日蓮門流ではこのバン字を「不動明王」と配するのが一般的です(左側の「ウン」の字は「愛染明王」とされます)。


ところで不動の種子は「バン」ではなく「カーン」とされるのが普通です。
けれど日蓮曼荼羅に書いている文字はやはり「バン」であろうと思うんですね。というのも日蓮のここでの梵字は下がすっと真っ直ぐに降りており、下部の画数が多い「カーン」とは明らかに相違しているからです。


日蓮は修学時代、覚鑁の『五輪九字明秘釈』を書写していますが、ここに見られる五輪思想では宇宙の成立を「地」「水」「火」「風」「空」の五大に配します。この五大の思想は日蓮の場合は『総勘文抄』や『阿仏房御書』に見られます。創価学会版御書ですとそれぞれ568ページ、1304ページになります。ただし両抄ともに真蹟不存です。
この「地」「水」「火」「風」「空」の五大を梵字に配すると「ア」「バ」「ラ」「カ」「キャ」になりまして、この水大の「バ」に大空点を打ったものが実は「バン」なんですね。


水大は火と相克します。私が考える日蓮の本意はこの水大の思想の「バン」であると思うんですね。
なぜそう思うかと言うと、日蓮が信仰の問題を語る際に「火」と「水」を対立させて述べている以下の文章を私は思い出すからです。
多くの創価学会員さんも恐らくご存知のことでしょう。



「或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり」
(『上野殿御返事』創価学会版御書、1544ページ)

「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」
(『呵責謗法滅罪抄』同1132ページ)


上の2つとも真蹟不存ですが、『上野殿御返事』は日興写本が富士大石寺に現存します。



日蓮の花押は初期に「バン」の字、後期に「ボロン」に変わったとする説がありますが、「バン」を用いた日蓮の意義は、五大の水大の徳を表現したのではないかと考えています。







参考文献:
石川修道「日蓮聖人の賢王思想」『教化学研究1  現代宗教研究第44号別冊』所収、日蓮宗現代宗教研究所、2010年3月。




私は如是相という語を使わない。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会員さんや法華講さんは他者を批判される際に

「あの人は如是相が悪い」

等、言ったりすることがあります。



実は私はこの言葉が好きではありません。
要するに体良く他人を見た目で判断しているだけかと思うんですね。


鳩摩羅什による漢訳法華経は、方便品に諸法実相として十如是が説かれますが、そもそもサンスクリット原典には5種類しか存在していません。それを鳩摩羅什が10種類に拡大解釈し、これにより智顗の教学も起こっています。


鳩摩羅什や智顗の説に依拠するならまあそれはそれでも構いませんが、そもそも羅什訳では「如是本末究竟等」とされているのに、どうして第1番目の「如是相」を基本的な評価の基準にするのかが私には今ひとつ理解できません。
むしろ鳩摩羅什の考え方に寄り添うならば、如是相から如是報までの9の如是が究極的には無差別平等であることを指しているのであって、それなら何も見た目で人を評価するのは、鳩摩羅什の考えとは異なるのではありませんか?


そもそも人を見た目で判断しようとする姿勢が私には高飛車に感じられますし、私自身そのような姿勢で他者を評価しようとする人たちと関わりたくはありません。



相手を見た目で判断して評価すれば、天に唾する者として、今度は自身が見た目で他者から評価されることになるのではないでしょうか。



存在意義の終焉。





いつもみなさん、ありがとうございます。



さて創価学会は昭和30年〜50年代頃までに起こった一つの社会的なムーヴメントであったと私は思っています。


小説『人間革命』などを読むとわかりますが、当時は支部や地区で何十、何百という世帯の入会数がありました。当時は『折伏教典』を使って、来てくれた新来者を何人もの学会員で取り囲んで入会を迫るような手法です。
で、これらの入会を迫る弘教の手法は、今の創価学会も大して変化がなく、セミナーとか絵画展とか座談会とかに連れ出して、あとは幹部連中で囲むという(笑)。ほとんどやり方が昔と変わってない。



で、今、現在では若い世代の青年部が壊滅の危機に晒されています。特に地方では女子部は絶滅危惧種扱いです(笑)。
正直に言ってしまうと、もうすでに現在ではこのような「囲み折伏」とか「ご利益強調」とか「人間味で泣き落とす」みたいな弘教の手法が時代錯誤になってしまっているんだと思います。



「歴史的役割の終わり」

「上部構造としての創価学会



日本が戦後、経済成長に向かう中で、現世利益を強調する創価学会の主張には、貧しい人が多かった戦後の日本では大衆宗教としてなんらかの有効性が存在しました。創価学会は草の根に支持を広げ、地域にネットワークを張り、独特の互助組織を作り上げて来たのです。


虐げられた者たち、貧しかった者たちが、自分たちの手で平和楽土建設を願い、戦ってきたのが創価学会のかつての実態でした。
学会員のやや強引な弘教の方法論は否定されて然るべきですが、少なくとも私たちは(過去の私と私の家族も含めて)純粋に善意で拡大戦をやっていたのです。


振り返って、現在の日本はどういう状況でしょうか。
株価が連日高値をつけながらも、それが一般庶民にトリクルダウンしてくる気配もない。
貧しい生活を強いられながら、派遣や非正規雇用で働く、若い方々にとって生きづらい社会になっていることを危惧します。


そんな中で若い方たちに現世利益を主張することに何の意味があるのでしょう。
御本尊に祈る意味など、若い世代の方たちには響かないことが明白です。
私から言わせれば、もはや創価学会の主張など過去の遺物に近く、誰も池田大作のことなど知らないし、興味もない。思想的な深さもない。誰も教学を知らない。いるのは年寄りばかり。たまに座談会に出れば、やれ新聞をとれだの、書籍を買って欲しいだの、そんなことしか言われない。


もはや創価学会の歴史的役割は終わってしまったのだと思います。青年層の爆発的な拡大など今後は決してあり得ません。それができるというのならやってみれば良いのです。創価学会は戸田会長時代から「一人立つ精神」なんて言ってきましたから(笑)、青年部を増やそうという気概に燃えて戦ってみたらいかがでしょう? 間違いなく徒労に終わるかと思います。
もはや青年層は創価学会の信仰を必要としていないのです。



もしも創価学会内部で組織の再生を本気で考えている方がいるのだとしたら、その方たちは「創価学会の歴史的意義の終焉」という痛切な総括の上で、新しいことを始めないといけないでしょうね。しかしその総括や反省をしようとする意識は、とりわけ信濃町の本部執行部、そして池田名誉会長らには根本的に欠落していると私は考えています。