気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

末法は存在しない。




いつもみなさん、ありがとうございます。


さて「天台智顗の修行は"本未有善"の"末法"の衆生には役に立たない」という教義もまた現代ではもはや無効でしょうね。



そもそも"末法"という考え方が出てくるのは『大集経』です。『大集経』そのものは中国で創作された経典に過ぎず、もはや末法という考え方も否定されるべきでしょう。中村元氏も指摘していましたが、後代になればなるほど釈迦の死を創作で潤色し、永遠の像として定義づけようとした漢訳仏典は、その性質上、釈迦を永遠の存在と定義しておきたかったのかと思います。
末法」という概念もその過程で生まれてきた創作でしかないでしょう。


ですから下種益を強調する創価学会日蓮正宗の教義は、天台智顗の"末法"概念を踏襲していますので、もはや廃棄されるべき教義です。
今こそ釈迦の本来の教え、また大乗仏教運動の本質に根ざしたものとして、日蓮の再評価をしなければならないと私は考えています。
このブログで度々指摘しているように日蓮思想には限界があり、現代では無効な教義も多く、使い方を誤ると非常に危険なことは歴史が証明している通りです。


いつまでも教団側の本部職員とか本山の聖職者側が何かしてくれるだろうと思っていても何も出てきませんし(笑)、信徒の目を欺いてお茶を濁すのが関の山ですから、一人一人の信徒がそれについて考えて実際に実践しなければならないでしょう。


創価ルネサンス」なんて言ってましたが(今はもはや死語・笑)、本来のルネサンスとは人間復興であり、あらゆる権威から離れて自分たちで信仰を確立するということがその本義だったのではありませんか。


マックス・ヴェーバーによれば教団が官僚化し、形骸化する事態は回避できません。とすれば官僚化する教団職員も問題ですが、同時にそれらを黙認してきた信徒一人一人もまたその責任を回避できないのです。


一人一人が自身の責任に立ち、教義を確立し、信仰を継承していくことが現在求められているのだと私は思います。



広目天王と増長天王のこと。




いつもみなさん、ありがとうございます。


以前、大石寺客殿安置の御座替本尊(日興筆)と奉安堂安置の戒壇本尊とで相貌の相違をブログで書きました。


「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」


この中で指摘したことですが、実は四天王のうち、下部に書かれる「広目天王」と「増長天王」について、日興筆の御座替本尊では「大毘楼勒叉天王」(増長天の梵名)「大毘楼博叉天王」(広目天の梵名)と書かれています。

和名ではなく梵名で書かれているのです。


実は日蓮自筆の本尊では弘安2年10月の前と後でこの四天王の書き方が変わるんです。
建治2年〜弘安2年の初めまで日蓮は四天王について「大毘楼勒叉天王」「大毘楼博叉天王」と梵名で書くことが多いのです(ちなみに建治2年の真筆本尊では持国天についても「大提頭頼咤天王」と梵名で書かれています)


例えば弘安2年4月日弁授与本尊(千葉妙興寺蔵)を見てみましょう。


見てわかる通り、ここでは「大毘楼勒叉天王」「大毘楼博叉天王」です。
弘安2年の7月頃までは両方の書記法が混在していますが、比較的梵名で書かれることが多いんですね。


ところが弘安2年10月の日徳授与本尊(埼玉・新曽妙顕寺蔵)以降から「大広目天王」と「大増長天王」に変わってきます。


つまり弘安2年の10月から筆法として梵名ではなく和名で四天王を全て書くようになるんですね。


ところで、大石寺の客殿安置、日興書写による御座替本尊が仮に戒壇本尊を手本にして書写したとするなら、なぜ日興がわざわざ広目天増長天を梵名に戻したのか不自然になります。
そもそも戒壇本尊を手本にするなら梵名ではなく和名で書くべきですし、加えて弘安2年10月以降の日蓮筆法は和名で書かれているはずです。


このことから考えても、日興が御座替本尊を書写した正応3年の時点で戒壇本尊は存在しておらず、日興は建治期から弘安2年前半にかけての日蓮曼荼羅の筆法にならって書写を行なったと考える方が推察としては自然です。



追記:
日蓮曼荼羅筆法では「王」には点を打ち「玉」とすることが一般的です。ですから本来なら「広目天王」ではなく「広目天玉」と書くべきなのですが、上記の投稿では一般的な記述にならって「広目天王」「増長天王」と書いたことをご承知ください。
また日蓮の用語で言えば「曼荼羅」ではなく「漫荼羅」を使うのが正しいのですが、当ブログでは通称の「曼荼羅」と表記しています。



「二十余年」と「三十余年」


いつもみなさん、ありがとうございます。


以前、ブログで戒壇本尊の讃文「二千二百二十余年」が、『御本尊七箇相承』の「二千二百三十余年」と相違していることをブログでも書きました。


戒壇本尊と『御本尊七箇相承』との相違」



ところが、平成29年3月16日付の『慧妙』には昭和56年の阿部日顕氏の次の発言が掲載されています。


「けれども、三十余年ということの中には、数字に執らわれるべきものではなく、二十余年と三十余年の両意が、付属の上の、大聖人より日興上人への大曼荼羅御顕発の御境涯の中に、すべてが丸く収まっておるのであります。」

だそうです。
意味不明です(笑)。
こんなんで世間から評価されると本当に日蓮正宗宗門は考えていらっしゃるのでしょうか。
それなら大石寺60世阿部日開氏が昭和3年の御本尊書写の際に「二千二百二十余年」と書いてしまって、結果翌年に謝罪文を法主本人が書くはめになってしまったのはどうしてなんでしょうね。


「阿部日開氏の『二千二百二十余年』」


法主の御本尊書写の際に「二十余年」と「三十余年」の両意が収まっているとするなら、なぜ昭和4年2月18日に小笠原慈聞氏は時の法主の阿部日開氏を批判し、謝罪文まで法主が書く事態になってしまったんでしょうか。
では阿部日開氏が「二千二百二十余年」と書写したことは正しかったのでしょうか?
それならそれを批判した小笠原慈聞氏は間違っていたのでしょうか?
要するにそういう過去への反省・総括をする姿勢が、日蓮正宗宗門には全くみられないことが問題の本質なのではありませんか(笑)。
過去を反省しないところは創価学会とそっくりです。
阿部日開氏は謝罪文中でこう書いてますよ。


「御本尊二千二百二十余年並に二千二百三十余年の両説は、二千二百三十余年が正しく、万一、二千二百二十余年の本尊ありとすれば後日訂正することとする。依って弟子旦那は二千二百三十余年の本尊を信ずべきものである。
以上 
六十世 日開 花押」


ですからいい加減に、日蓮正宗宗門もきちんと自分たちの過去を反省して来なかったということを認めた方がよいと思うんですよ。
そんな今さら後付けのように「二十余年と三十余年には甚深の意義が」なんて言われても、過去の阿部日開氏の謝罪の件があるんですから、なんら説得力を有しないと思います。


おそらく昭和56年の阿部日顕氏の発言は、父である日開氏の名誉回復の意味もあったと思うんですね。
それなら時の法主である日開氏を批判した小笠原氏は批判されて然るべきなのではないですかね。それなら小笠原慈聞氏は「表面層にのみとらわれた偏見」で時の法主を批判した"大謗法"の人なのではありませんか?(笑)


もっと言ってしまうと『御本尊七箇相承』には次のように書いてありますよ。

「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」

つまり「三十余年の間」を「略し奉ること」は「大僻見不相伝の至極なり」なんですよ(笑)。『七箇相承』にここまで書いてあるのに「三十余年」は変えても問題はないんですかね?(笑)
間違っているのはどっちなんですかね?
『七箇相承』が間違いなんですかね? それとも「二十余年」と書かれた戒壇本尊の方が間違いなんですかね?
もはや笑うしかないですね☆



追記:
で、問題はこれだけではないんですけどね。
『御本尊七箇相承』では「日蓮御判と書かずんば天神地祇もよも用い給はざらん」としていますが、元弘3年10月13日の日目書写本尊(柳目妙教寺)および正中3年の日目書写本尊(小泉久遠寺)では「日蓮聖人」となっていますけど、これはどういうことなんでしょうかね?
要するに日目在世中に『御本尊七箇相承』は存在しなかったんじゃないんですかね? 
まさかまたお得意の「両方に甚深の意義がある」なんて言うんですかね(笑)。
要するに「日蓮御判」の件も、「二十余年」の件も、「若悩乱者頭破七分」の件も、御座替本尊との相貌の相違の件も、対外的になんら説得力のある回答もせず来てしまった、日蓮正宗宗門の姿勢に問題の本質があると思うんですけどね。











ブッダ最後の旅より。





いつもみなさん、ありがとうございます。


さて歴史上の釈迦、ゴータマ・シッダールタの史実に最も近い経典はスッタニパータでしょう。後代になればなるほど釈迦は神格化され、様々な潤色が物語に付随してきます。
幸い、大パーリ・ニッバーナ経(大般涅槃経)は中村元氏の訳で岩波文庫で読むことができます。
今回はこの岩波文庫版の『ブッダ最後の旅』(大パーリ・ニッバーナ経)から釈迦の最後の教えを少し考えてみたいと思います。


「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか?  わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような握拳は、存在しない。」
(『ブッダ最後の旅』中村元訳、64ページ、岩波文庫


中村元氏の解説によれば、バラモンには気に入った弟子のみに教える秘密の伝授があるけれど、仏教にはそのような秘密など存在しないということです。
つまり釈迦の教えに従うなら、師匠から弟子に秘密裏に伝授される特別な教えなどというものは本来の仏教の教えではないということになります。特別な秘密など何もないのです。


続く文章で、釈迦は自分が教団の指導者であることを自ら否定します。頼るべきものはめいめいの自己であり、それはまた普遍的なダルマ(法)に合致すべきであるということです。



「アーナンダよ、わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。
しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?
アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、ーー誰でも学ぼうと望む人々はーー。」
(同66〜67ページ)



釈迦の臨終の際の最後の指導は

「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」
(同168ページ)

というものでした。
中村元氏の解説によれば「仏教の要決は、無常をさとることと、修行に精励することとの二つに尽きることになる」としています。中村元氏の訳注から引用してみましょう。


「〈無常〉の教えは、釈尊が老いて死んだという事実によってなまなましく印象づけられる。それがまた経典作者の意図であった。ところが年代の経過とともにゴータマ・ブッダは仏として神格化され、仏の出現は稀であるとか、仏の身体がみごとであるとか神学的思弁が諸異訳のうちに付加されることになった。」
(同332ページ)



仏の教えには師匠から弟子に託されるような秘密は何もありません。
一切の事象は過ぎ去るものであり、だからこそ自らをたよりとして、他人をたよりとせずに生きることこそが釈迦の本意なのでしょう。





追記:
「島」という訳語について、中村元氏は他の諸訳から"attadipa"という語を「灯明」とせず「島」と訳しています。もちろん漢訳の『中阿含経』第34巻「世間経」には「当自作燈明」とあり、『長阿含経』第2巻「遊行経」には「自熾然熾然於法」とありますが、中村氏は「輪廻はしばしば大海に例えられ、ニルヴァーナは島に例えられる」ことから「島」という訳語を採用しています。





『摩訶止観』と『次第禅門』





いつもありがとうございます。


さて天台智顗の『摩訶止観』は法華三大部の一つなんですけど、実は内容的には一心三観、止観の坐禅の行法を説いた書なんですよね。
だって本来、『摩訶止観』の思想の底にあるのは智顗の初期の著作である『釈禅波羅蜜次第法門』(通称『次第禅門』)なんですから。



よく日蓮正宗創価学会の方が使われる「三障四魔」という語は、本来は止観の修行の最中に起こる心理的な現象のことでして、そういう意味では智顗の『摩訶止観』の「三障四魔」という語を創価学会日蓮門流は曲解して勝手に使っていると言われても致し方ないんです。


天台智顗の当時の中国仏教は膨大な量の経典が次々と翻訳されて、これらをどう理解するのかという解釈学に重点が置かれていました。
ところで仏教の基本とは戒定慧の三学を学ぶことなのであって、この三つが揃わなければ基本仏教とは言われないわけです。


天台智顗はそういった課題から『釈禅波羅蜜次第法門』(『次第禅門』)を著します。
『次第禅門』は智顗の著作でも最初期のもので講説の年代を確定することができないのですが、どうも智顗が31〜38歳の頃までに金陵(現在の南京の瓦官寺)で講説されたと伝えられているようです。


智顗はこの中で禅の体系を明らかにしようとして『大品般若経』と『大智度論』を依拠として禅の実践論を説いていきます。
この中で重要なことは、智顗が禅の体系を大きく四つに分類した点です。
それは

①観禅
②錬禅
③熏禅
④修禅

であるとされています。智顗はこのように実践法門を『次第禅門』において体系化し、実際に当時の瓦官山や天台山ではこれらの修行法が実践されていたと考えられています。


この『次第禅門』については南岳相伝と言われています。南岳というのは南岳大師・慧思という人物で、この人は天台大師智顗の師匠にあたる人です。
慧思は早くより現実世界を末法濁世であると考え、末法無仏の世を救済する経典として『大品般若経』と『妙法蓮華経』を根本とした教学と実践の法門を確立しました。結構強烈な主張もあったようで生涯に4回ほど毒殺されかけています。


『次第禅門』における基本的な禅の修行法は、すでに慧思の著作に説かれていますから、天台智顗は禅観の基本的な立場や『大品般若経』や『法華経』の重要性を実は慧思から学んだのです。


『次第禅門』で菩提心の表明として説かれた中道正観、諸法実相、大悲心、四弘誓願はそのまま後の『摩訶止観』に引き継がれていきます。


智顗は『次第禅門』において禅波羅蜜という語で全仏法の実践体系を総括したのですが、これが『天台小止観』になると「止観」という語が用いられ、これが『摩訶止観』に引き継がれていくことになります。
『摩訶止観』では『次第禅門』で述べられたような禅法の体系は一切省略されています。
その代わり『摩訶止観』では正修観法の十境として1番目の陰入界境から10番目の菩薩境までが説かれていきます。


私たちの心には様々な状態があり、いろんなものに私たちは毒されて迷わされていくものです。結果的に言えば悟りなどないのですが、ないとしてしまえば目標が設定できない。だからこそ仮にあるように説かれていくわけです。諸種の心を私たちが作り、自らが作った心に毒されていく。これをどう対治していくかということが智顗の重要な命題であったのでしょう。
そしてここから智顗が独自の一念三千説を展開していくことは日蓮門流の方ならご存知のことでしょう。


『摩訶止観』は三種止観の最後の円頓止観というものを明らかにした書物です。円教というのは具体的に言えば『法華経』です。つまり『摩訶止観』は『大品般若経』を捨てて『法華経』の実践行として説かれたものなんですね。


同じ智顗の著作でありながら『次第禅門』はあくまで煩悩を対治するということに主眼が置かれています。それに対し『摩訶止観』は人間の中には煩悩もあるし、いろんなものが本質的に心具されているんだということが説かれます。それを本具しながら実相という方向性を説いたものが『摩訶止観』なのです。


ですから私の考えている日蓮思想の再考は、天台智顗の「三千不可思議境」という止観の修行として題目を唱える場を考え直すことに主眼が置かれています。
創価学会日蓮正宗での唱題行というのは、止観の場などとは到底言えず、単にひたすら題目をあげてお願いをするだけのおまじない信心になっています(笑)。
私の立場はそうではなく、一念三千の観を観じる修行の場としたいと考えているだけなんですね。
もちろんそれは私の思想なのであって、他人が真似をすればよいというものでもありません。



釈迦は大パーリ・ニッバーナ経において、自らと法のみをたよりにすることを述べ、他者をたよりにしてはならないとしています。
僧侶とか住職とか学会幹部とか信濃町の職員とかそんな人に仏教を教わる必要なんてないですし、教えの正当性を担保してもらう必要もありません。


一心三観を通して三千不可思議境を観るために、私は題目をあげる場の意義を考え直しています。
ただそれについてここに具体的に書いてしまうと、いろいろ誤解する人も出てきますし、私の信仰の方法を絶対と思ったり勘違いされる方も出てくると思います。だから書かないでおくことにしましょう。


やや飛躍しますが、日蓮の考えた唱題行とは源信称名念仏純化させたものであって、法華経の題目のもとに諸教の修行をまとめようとしたものです。日蓮がそれに成功したなんてもちろん思っていませんが、少なくとも日蓮最澄の後継者の自覚からそれを成そうとしたことは言えるのではないでしょうか。




参考文献:
大野栄人「中国天台における禅から止観への思想的展開」『禅研究所紀要』25号所収、1997年





日蓮本仏説の萌芽。




いつも皆さんお読み頂き、ありがとうございます。


さて大石寺や現在の創価学会が唱える日蓮本仏説が明確に言われ始めるのは、大石寺26世堅樹日寛以降のことです。
それ以前に日蓮本仏説と言われるものが存在したのかと問われれば、その萌芽と言うべきものがあったと思いますが、まだ明確なものではありません。
大石寺9世日有は『有師化儀抄』で次のように述べています。


「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし、仍テ今の弘法は流通なり、滅後の宗旨なる故に未断惑の導師を本尊とするなり、地住已上の聖者には末代今の五濁闘諍の我レ等根性には対せらるべからざる時分なり、仍テ方便品には若遇余仏便得決了と説く、是レをば四依弘経の人師と釈せり、四依に四類あり今末法四依の人師、地涌菩薩にて在す事を思ひ合ハすべし。」
(『有師化儀抄』富士宗学要集第1巻64ページ)


日有には宗祖日蓮を「本尊」とみなす思想があったことがわかります。同時に日蓮を本尊としながらもまだ日蓮が本仏であるという明確な主張はここには見られません。
ですから私は大石寺9世日有の頃にはまだ明確な日蓮本仏説は存在しなかったと考えています。


他山はどうでしょう。例えば保田妙本寺・日我の『化儀秘決』から引用してみます。


「御大事御抄等の内意、代々の置文等を以ッて之を勘ふるに、中央に題目、左右に釈迦多宝を遊ばす、文の上は在世の様なれども末法の釈迦とは日蓮なり多宝とは日興なり題目とは事行の本尊なり、謂ハく十界互具して人法一個する題目なり、境母法身の日興は左に居し智父報身の日蓮は右に居し境智冥スる時中央の漫荼羅なり、然る間、日蓮の魂も題目なり日興の魂も題目なり、唯我与我、唯仏与仏乃能究尽とは爰元なり、末法一切衆生の父は日蓮母は日興、我レ等当躰蓮華仏となる種子は題目、此ノ種子を高祖は授け給ふ日興は受け取リて九界惣在して是レをはらみ給ふなり、其の種子は境智冥合定恵和融して父母をはなれざる処が中央の題目なり、其ノ題目成仏の子と生るゝ時は日目と習ふなり下種とは是なり」
(『化儀秘決』富士宗学要集第1巻300ページ)


妙本寺の日我は「末法の釈迦とは日蓮なり」としています。
つまり日蓮本仏説は大石寺よりもむしろ他山の保田妙本寺の方で先行していた教義と考えられます。

今の私の理解を図示すると以下のようになります。

大石寺
日興(1246〜1333):釈迦本仏
日目(1260〜1333):釈迦本仏
日道(1283〜1341):釈迦本仏、御伝土代
日有(1402〜1482):日蓮本尊説、化儀抄
日精(1600〜1683):御影堂建立
日寛(1665〜1726):日蓮本仏

【妙本寺】
日我(1508〜1586):末法の釈迦は日蓮


つまり日蓮本仏説は大石寺よりもむしろ保田妙本寺が先行していまして、大石寺日有の日蓮本尊説、また日精の御影本尊などが結びついて日寛の日蓮本仏説という教義となったと考えられます。



追記:
以前、こんな記事を書いています。

「本尊の奉安様式」

日蓮正宗で御本尊の奉安様式が複数ある理由はなんとなくわかる気がします。
要するに17世日精の頃に御影堂が建立され、その際に日蓮=本尊観から一幅一体式の本尊の奉安をしたのでしょう。御影が祀られるのは御影本尊説、つまり9世日有以来の日蓮本尊説に則っているのです。
それが後世、日寛教学が誕生して御影本尊説と教義的な齟齬が生じたのですが、それについては無理な統一をせず、そのままで来てしまったというのが実態なのでしょう。




日蓮の真言批判の問題点。

 

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮の思想に真言が与えた影響について、このブログでは度々指摘しているところです。
 
 
「他宗批判と諸教包摂ということ」
 
 
日蓮が若き日に真言の徒であったことは諸抄から明らかです。『聖愚問答抄』でも「予も始は大日に憑(たのみ)を懸けて密宗に志を寄す」(創価学会版御書484ページ)と説かれていますし、何よりも『守護国家論』では明快に「法華真言」と法華と真言とを一体のものとして論じていることからも明らかです。
 
 
 
ところで、文永後期から日蓮の熾烈な真言批判が始まります。この日蓮真言批判なのですが、やや教義的に説得力に欠け、むしろ現証上の批判に終始することが少なくないんです。
日蓮の念仏批判は教義的にまだ理解できます。つまり法然の『選択集』において法華経を棄てて念仏のみとしたのは、これは恵心僧都源信の『往生要集』と異なりますから、本来の恵心僧都における称名念仏という視点から法然の選択念仏を批判するのもわかります。
 
 
ところが、日蓮真言批判はどうにも私には説得力に欠けます。例えば大日への批判は要するに法報応三身不相即を挙げるのですけど、そもそも即身成仏という語そのものが真言の用語ですし、これだけ読むと日蓮はちゃんと空海の『秘蔵宝鑰』等を読んでいるのかやや疑問になります(ちなみに『清澄寺大衆中』で日蓮は『秘蔵宝鑰』と『弁顕密ニ教論』を手に入れるように依頼しています)。
 
 
それ以上に問題なのは、日蓮真言批判が現証面や罰論を強調した批判になっているところです。この点について小林正博氏も「(日蓮の)真言批判の最大の特徴は、事相批判であろう」としています。
つまり「善無畏一行の横難横死」とか「弘法・慈覚の死去の有様」とか「即身成仏の語は有れども即身成仏の人全くなし」とか現証上の罰とか凶相をもって批判をするのが日蓮真言批判の特徴なのです(『星名五郎太郎殿御返事』御書1208ページ)。
 
 
私は日蓮の他宗批判について、その現証上の凶相批判については否定されるべきだと考えています。不往生とか臨終の相とかを根拠に批判されても説得力に欠けるというものです。